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メモ・芥川龍之介の日本とキリスト教

 なんか強そうなタイトルですが、芥川龍之介の書くキリスト教モノあるあるくらいの気持ちで書いているので、身構えないでください。

 たぶん、芥川とキリスト教の話をするのなら最晩年の作品こそ読むべきとは思っているのですが、晩年はまだ読めていないものが多いです。てへぺろ。


 芥川龍之介は「日本のキリスト教」というものに割と強い関心があったように思います。
 というか、外来の宗教が日本で変容させられていくということを、めちゃくちゃ意識しているように思えるのです。

この国の土人は大部分悉達多したあるたの教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです(中略)
事によると泥烏須デウス自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。

芥川龍之介『神々の微笑』より

 ここだけ切り取るとわかりづらいと思いますが、要するに日本人には「造り変える」力があり、キリスト教(デウス)も日本人的に造り変えられてしまうだろうということを書いています。

 余談ですが、読んでて「ゼウスってギリシャ神話じゃね?」と思ったのですが、元々、deusという言葉自体が「ひとりの男神」を表す言葉で、語源が同じだから音が似ているようです。
 以下のサイト内にある「英語の神さま、日本語の神さま」の項で知りました。


 次に紹介するのは『長崎小品』です。

客の一人、一体日本出来の南蛮物には西洋出来の物にない、独得な味がありますね。
主人、其処そこが日本なのでせう。
客の一人、さうです。其処から今日こんにちの文明も生れて来た。将来はもつと偉大なものが生れるでせう。

芥川龍之介『長崎小品』より

 日本でできた南蛮ものには西洋のものとは違う味がある。そういうふうに日本の新しい文明が生まれてくる。という話をしています。
 南蛮ものなのに日本のものに独特な味があると話しているのが、なんだか不思議な感じがします。
 これも外来の文化が日本風に造り変えられていて、しかもそれが「味」だと語ってる話ですね。


 次に紹介するのは『わが散文詩』です。
 日本の絵師の描いた聖母の絵を見て、聖母まりやが「この絵が私?こんなに顔の黄色い娘が?」と尋ねた後のシーンです。

「勿論かやうなお姿にしたのは御意ぎよいに入らぬことでございませう。しかしわたしは御承知の通り、日本の画師ゑしでございます。日本の画師はあなた様さへ、日本人にするほかはございますまい。なんとさやうではございませんか?」

芥川龍之介『わが散文詩』より

 日本人が描いたんだからマリア様が日本人でもしょうがないでしょ、と言っています。これも明らかに「日本人的に造り変えられた聖母まりや」だなあと思います。


 3作品から引用してみました。
 この辺を読むと、芥川は「日本におけるキリスト教の受容のされ方、変容の仕方」に興味があるように私には見えます。
 『奉教人の死』や『おぎん』なんかもキリスト教系のお話ですが、キリスト教そのものよりも、信仰のされ方にフォーカスした話のように思います。

 ……と言っても、私がキリシタンものに全く詳しくないので、芥川に限らずキリスト教系のお話を書く日本人作家全般にこういう傾向があるのかもしれませんが。


 とにかく、芥川はキリスト教よりも、キリスト教というコンテンツの「消費のされ方」に関心が向いているように見えるんですよね〜〜というメモでした。
 宗教をコンテンツとか消費とか言ったら怒られそうだけど、他に感覚的に適切な言葉が思い浮かばなかった。

 ここまでなんとなく書いたけど、普通にちゃんとした論文かなんかで書いてる人いそうな内容でしたね。そういう論文か本か、知ってる人がいたら教えてください。

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