「囚われた国家」寄生するものに反抗する正義の向こう側にある自由の本質
二ヶ月ぶりに映画館にいくと、そこはあまりにも人がいない異次元だった。それでも、10人ほどで映画館のスクリーンで映画を共有できたという事実はあったわけで、まずは私のエンタメ復興の第一歩であった。
そして、二ヶ月前に最後の方で封切って、観ることが出来なかったこのSF。9年まえに「地球外生命体」に支配された地球?という設定。実際は、アメリカがエイリアンに制圧されているということなのだろう。あまり、詳細が説明されておらず、細かい設定もわかりにくい。ただ、支配するものがいて、そこに寄生するように従う人々がいる。その逆らえない強大な力に対し、故郷を取り返そうとするレジスタンスの一味。彼らがテロを実行し、結果的には、うまくいかない過程を描いた映画である。
映画は、テロ映画という認識の中で、緊迫感ある流れで色も音も統一感があり、なかなか格好いい作りである。役者たちもなかなか味があるのだが、今ひとつ、飛び出してくるものがなく、日本人からすると、顔の区別がつきにくく、その辺りは結構辛かった。映像の流れのままに寄り添って、映像体験としては心地よかったが、どうも内容が、イマイチ見えてこない感じで、結果的にはモヤモヤしたまま劇場をさる。
エイリアンの造形のモデルは、「ウニ」であろう。尖った針に襲われる最初のシーンでそう思った。何か臓物もウニみたいだった。確かにウニというのは、異次元から来たような生命体である。でかいウニが世の中を襲い出したら、もう生きていくのも辛くなるだろう。
そういうことを考えながら観ていくと、これは「マタンゴ」と似たような映画なのだろうなと思えてきた。エイリアンに従ったものが、ウニになるわけではないのだが、寄生するということは、自己をウニに投げ出してしまったということだからだ。寄生したものは、支配者に逆らわない。そういう映画には、救いはない。ここでも、結果的にテロは成功しないし、それを仕込んだ人間の相関を見直しても、あまり面白味はない。ドラマとしてはしっくりこなかった。
そして、近未来と言いながら、どうも、アナログな20世紀世界が映画の中に出てくる。アナログレコード、公衆電話。携帯は出てくるが、これも旧式。電話はほぼ大きな受話器を使っている。そういう美術設定なのだろう。つまり、昔よく描かれたSF世界の再現なのだ。そういうファンタジーと考えればそれもありではある。手塚治虫の原作をこういう感じで映画化するのはありだろうとは思う。
全体のトーンはしっかり守られている映画なので、観終わった後の気分は不快ではなかったが、内容的には理解できない部分が多く、それがフラストレーションになった。オチで、出てくる彼らの関係性、9年前の日常を見せられても、そういう意味ではあまりショッキングには見えてこなかったのが現実。
まあ、このラストによって、いつ日常が砕けて、異次元に落ちるかわからないよ!ということを言いたいのだろう。それは、今我々がたつウィルス禍の世界にシンクロしてくるのは、たまたまだろうが、いろいろ考えさせられる。この映画のように、数年前に家族のビデオを再生して、今の生活に落ち込む人もいるだろうから、ある意味予言的な一面を持ってしまった作品である。
VFXで派手なSF世界が多い中、ハードボイルド的な一本。好きな人は結構いるだろうし、否定しきれない一本である。
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