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「ばるぼら」監督自身が何を言いたいのか?結果的には理解できない作品。二階堂ふみの裸体に答えは見えない
今年は手塚治虫生誕90年ということだ。そのプロジェクトの一環としてこの映画が作られたのだと思う。息子が親の作品を映画化するというのはそれなりのプレッシャーはあったのだと思う。映画自体は、それなりにはまとまっている。そして、稲垣吾郎もそこそこに手塚漫画的な主役を演じている。だが、手塚漫画とは似て非なるものであり、結果的には、2020年東京でこれを公開する意味あいのようなものを考えてしまい、中途半端さが気になるだけだった。
映画での舞台は、新宿だ。そうは言っていないが、見ればわかる。今の新宿は、手塚治虫が生きていた頃よりも綺麗になってしまい、その地下街や飲み屋街、歌舞伎町に至るまで、あまり生命の澱みや臭いを感じるような場所はあまりない。そして、ばるぼらのような生命体がいるところでもない。そして、多くの人が「ミッドサマー」と比較する妙な麻薬パーティーも今ひとつ、ハマってこない。
そう、もっとこの映画は、時代も街の構造もわからないような世界に落とし込むべきだったのだ。そして、もっと観念的な映像を重ねて、そこに稲垣吾郎が存在するのかしないのか?ばるぼらは幻想か?という感じで積み重ねたら良かったのにと思った。
俗物的な作家世界のパーティーや、政治家が死ぬ話が必要なのか?私が観たいのは、作家である稲垣吾郎の苦しみの混沌の中にある刹那のようなものではないか?そこにばるぼらというこの世の澱みと美を持ち得るような自堕落な女が近づき、現実から逃避させ、心の逃亡のその先に何があるのか?というところだろう。
だから、他の出演者の石橋静河や渡辺えりなども、特に必要はない感じがした。もっと、稲垣吾郎の脳内の映像が見たい。そして、もっとサイケデリックな感覚の色彩が欲しい。その中に、美しい二階堂ふみが存在すれば、映画は観客とともにトリップできるのではないか?
監督手塚眞は、原作をどう受け止め、どこにトリップさせようとしているのか?ある意味、手塚治虫の大人向けの漫画は変態漫画が多いのだ。そして手塚的なSEX描写は、エロであるが、おかずにならない感じがする。冒頭の方で、マネキンと変態プレイをするシーンがあるが、あれこそ、手塚的なSEX描写の感じもした。ああいう、夢なのか現実なのかわからない間のなかに、主人公が射精して行くみたいな感じ…。
だから、ばるぼらも、もっと醜くしたり、美しすぎたりさせる必要があるのだ。二階堂ふみは普通に美しい女優さんだ。美しくなって出てくるシーンはとても観客はドキッとするが、澱みの中にいるばるぼらは臭うまで行っていない。この間観たニコール・キッドマンの「ストレイ・ドッグ」では、見事に美醜を使い分けるキッドマンがいたが、二階堂ふみは、その振り幅が少し中途半端だ。その裸体もあまり映画の上積みにはなっていない。それは、監督の育ちの良さみたいなものが出ているのかもしれない。
とにかくも、架空の時代の架空の街に、美醜が混沌と主人公の前に現れ、精神的に違った場所に昇華して行くような映画が見たかった私であるが、そこのところは裏切られた感じだった。「ミッドサマー」と似ていると言われた時点でそうなのだと思う。せっかく、稲垣吾郎という駒を得たのに、残念だった。