「あの頃、文芸坐で」【22】ピンク映画、渡辺護、日野繭子
1980年9月末。この日は「繭子ひとり旅〜渡辺護作品にみる女優日野繭子」という特集の中から、「制服とパンティー」と「激撮!日本の緊縛」(緊縛という時は一発変換できないね…)を観に行った。私はいわゆるピンク映画の封切館というのが、今でいうゲイの巣窟になっていることもあり、苦手であった。スカスカの劇場で、ソーシャルディスタンスを無視して横に座ってくる男は、ほぼそういう類であり、席があるのに、後ろで立ち見している客はほぼ狩人だった。(あずさ2号ではないよ)。だから、文芸坐でピンク映画がかかる時は嬉しかった気がする。それを、芸術?として観ることができたからだ。
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まず、コラムには「スターウォーズ・帝国の逆襲」のお話である。ルーカスやスピルバーグが世界的に映画のニューウェーブの最先端にあった時期の記事であると思って読むと興味深い。彼らのようなインパクトを持つ監督が最近は少ないのは事実である。この中で「失われた箱舟の襲撃者たち」というタイトルが出ているが、これは、インディ・ジョーンズシリーズ一作目「レイダース 失われた聖櫃<アーク>」のことである。しかし、この時もスター・ウォーズが12本になるということが書いてあるが、まさか、完結に40年かかるとは誰も思わなかったでしょうな!
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文芸坐は、ヒッチコック特集の後に「陽のあたらない名画祭」。洋画のこの企画は、それに疎かった私としては、いまだに知らないタイトルのものも多い。しかし、やはり、これぞハリウッド的なエンタメ映画は陽が当たらないということはなかったようです。
文芸地下は、日野繭子特集のあとは、以前から載っていた「日本映画脇役列伝 その2 小沢昭一」この項については、私2度ほど観に行っているのでそこで語ります。
オールナイトは、その小沢昭一前夜祭のあとは、日本映画監督事典「斎藤寅次郎」若い人は、あまり知らないかもしれませんが、200本以上の映画を残した(残っていないものが多くあるとは思うが)コメディを得意とする映画監督だ。今観ると、一本一本はそれほど面白くないが、日本のコントの祖的なものを感じる部分もある。まあ、こうやってオールナイトでまとめてみる機会など、今後一切ないでしょうね!そして、絶対寝るし、起きていられても、夜明けには内容が混ざっていると思う。
あと、土方鉄人監督「戦争の犬たち」の文芸地下ナイトロードショーなどという文字もあります。そう、最近、自主映画で戦争映画撮ろうなどという人いませんね。みんな、優しくなっているからかな?それはそれでいいことだけど、戦争映画はやはり最高の反戦になるとは思っています。
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日野繭子という名前に反応する人は、80年代初頭のこの時代の人だと思う。彼女のホームページをみると(彼女の名はWikipediaにはないが、ちゃんと個人のホームページが作ってあります。Twitterも更新されています)女優としての活動期間が1978年から1989年となっている。まさにその時代の人である。とは言っても、知らない人は知らないだろう。当時のピンク映画のスターであり、今はノイズサウンドを追いかけるミュージシャンであり、鍼灸師でもあるらしい。私も一度アーティストとしての彼女をみに行ったことがあるが、よく理解できなかった。彼女の詳しいことは、下記でみてください。今でも、日野繭子は活動中であります。
そして、この日観た映画「制服とパンティー」共演が青木奈美。その娘のスレンダーな(多分)裸体は覚えているが、内容がイマイチ?ロマンポルノの三本立ての一本はピンク映画会社が制作するものを買い取って配給していた。(一般的には買取作品と呼んでいた)その一本であり、これはライトな少女ポルノの一本であったと思う(題名に制服とついてるものね)
そしてもう一本「激撮!日本の緊縛」これは内容ははっきり覚えている。日野繭子が62分の映画(データベースに残っている)で、明治から昭和にかけての三代の女を演じ、それぞれの時代で縛られるのである。ある意味、すごいテンポがあり(悪く言えば、早送りのように)時代に翻弄される因果みたいなものが描かれていた映画だ。ラスト、多分街を彷徨うようなカットで終わっていたと思うが、なんとなく脳裏に残っている画は日野繭子が縛られている画である。そういう意味では、ピンク映画の体裁は整えていて、日野繭子もヒロインの仕事はしていた感じの映画である。ただ、これを観て、渡辺護という監督が、それなりに映画を撮れる監督だったということを理解した私だった気がする。その後、やはりこの買取企画で、美保純のデビュー作「制服処女のいたみ」や可愛かずみのデビュー作「セーラー服色情飼育」を撮ったのも彼である。ただ、晩年は、先に書いた曽根中生監督とフィルムワーカーズという会社を作り「連続殺人鬼 冷血」という一般映画も撮ったが、その後あまりいい噂が伝わってこないまま亡くなったイメージである。ただ、この1970年〜1980年代のピンク映画を語る上で、絶対に忘れてはいけない巨匠ではある。
そして、この辺の話は、それほど詳しくないのに熱くなるのは、その作品群に私が何かを見つめていたからだろうと思う。それは、今のAV製作者などには全く理解できない世界だった。ただ、それにノスタルジアを感じている自分が恥ずかしい気もする。
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