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「STRAY SHEEP(米津玄師)」不安定な現代をどう表現すればいいのかの回答を求めて…。

米津玄師。その名前の字面のインパクトは大きい。なんか、新しい宗教の登場か?とさえ思える名前。そして、彼の紡ぎ出す楽曲を聴いて、その印象が間違っていないんじゃないか?とさえ思える。最初に聴いたのはドラマ「アンナチュラル」の主題歌「Lemon」。ドラマとうまくシンクロし、耳に憑くメロディーと詞。その世界が私の脳味噌の中にアンプをかけてくる感じ。まさに、令和の今を音にのせている感覚に感服する。

今、放送中の「MIU404」の主題歌「感電」に関しても同じようなことが言える。彼の曲はドラマ的な有機性を含んでいて、表現として演劇的な力がある。先に書いた2曲を含む、その彼のニューアルバム「STRAY SHEEP」が8月5日にリリース、そして、彼の全ての楽曲がサブスク解禁。一気に多くの人の耳に彼の曲が再度流れ続けているのだろうと思う。

そして、昔アルバムを100万枚売ったという以上に、多くの日本人を音の感染症にさせているはずだ。その実質が物質的、量的に、はっきり見えてこないのがかえって恐ろしい事態にも感じる。ということでアルバムの15曲の印象レビュー

「カンパネルラ」

この題名、出典は宮沢賢治「銀河鉄道の夜」か?まあ、そんなことはどうでもいい。人は傷を負い、それをトラウマにする。そして、その経験からアゲインストにもかつ能力を得る。だから、人生は面倒臭い。ちっぽけな日常の悩みをカンパネルラに寄せる。幾たびも歌謡曲が寄り添った日常の脳の倦怠感がよくメロディーに乗っていく。

「Flamingo」

Flamingoと称されるのは、踊り子?娼婦?日本の古典的な色艶を感じさせる一曲。後半は小節を回しながら、音ない戯れて見せるような楽曲。そして、米津が日本語の言葉遊びが好きなのだろうことが読み取れる。御座敷で三味線片手に唄いたい感じ。令和のフラミンゴ探したいですな。

「感電」

先に書いたように「MIU404」の主題歌。ドラマのコンセプトに合わせた見事な楽曲。「稲妻のように生きていたい」というのが答えでもないが、米津の洒落たヒーロー感がある。とはいえ、ワンワンワンとかニャンニャンニャンとか「犬のおまわりさん」へのリスペクト?そういう、茶化した感じの刑事像が浮かび上がり、照れた感じもまたよし!この時代に社会で格好つけるってこんな感じかと思える傑作である。

「PLACEBO+野田洋次郎」

PLACEBOとは偽薬。恋に効く薬はないということか?どんどん、女に対しテンションが上がってく男の脳内を言葉とメロディーで再現していく感じ。こんな色めく艶やかな女を妄想する歌に出会うのも久しぶりの感じ。今の危うげな夜の街にはこんな女がうろついてる感じはする。モラルなど振り捨てて女に向かっていく脳内ゲーム、いいじゃないか!

「パプリカ」

子供たちが歌ってるのとは、全く違う雰囲気がある。これも、根底には宮沢賢治的なものを感じる。現代に種を蒔く、「仕事歌」と私は受け取った。だからこそ、老若男女全てで合掌できる歌なのだ。多分、何年も歌い継がれる名曲だと思う。

「馬と鹿」

ドラマ「ノーサイドゲーム」の主題歌。明らかにラグビーというスポーツを前提とした詞にはなっているが、傷ついて、彷徨い、諦めきれない人々の「何やってるんだ?」という問いかけに対する回答なのか?曲も、他の楽曲に比べ全編が力強い。まさに、ノーサイドになるまで足掻いてみろと言わんばかりの応援歌と言っていい。

「優しい人」

生まれてくる命は皆素晴らしいと言うことを言う人はよくいる。だが、生きている人を全て愛している人ないて実際にはいない。ヘイト反対といえども、自分を攻撃してくるものには立ち向かうしかなく、負けることも多々ある。そんな社会がやだったりもする。ここに歌われる「優しい人」とは誰を指してのことなのかはしれないが、理想をいつも声に出すことは大事ではあると思う。

「Lemon」

ドラマ「アンナチュラル」の主題歌。それを思うと、これは死者に対する歌なのかとも思うが、そうではないだろう。過去の自分に対するトラウマみたいなものは、常に米津の詞には見え隠れする。だからこそ、多くの人の心の奥底に何かを甦らせる。こんなにレモンの酸っぱさにがさを感じられる歌はない。

「まちがいさがし」

ラスト「君じゃなきゃいけないとただ思うだけ」に至る、恋の歌である。自分のことが周囲に対しまちがいさがしの中の間違いであると言うことは、触感としてはよくわかる。自分も、仕事でこれはうまくいかないなと感じるとうまくいかないことが多かった。でも、それは思い込みで、ある意味その向こうまで見つめて心を込めなかったことが多い。恋も同じである。だから、私はぶれることなく叫び続けるのかもしれない。染みる歌である。

「ひまわり」

自分は「日陰に咲いたひまわり」だと言う歌である。アゲインストな環境に中でもがく姿はわかる。そこに散弾銃とか北極星とか出てくるのは、本来のひまわりのエネルギッシュなものを掴みたいと言うことなのか?少し雑な感じの楽曲だが、モヤモヤ感は理解できる

「迷える羊」

アルバムのタイトルになっている曲である。そう、私たちはシナリオのない今を過ごしている。誰がこのパンデミックを予想できたか?と言う答えはそこである。今日の予定さえ、こなすことができることは稀である。そんな人生を面白く思ったなら、何かを自分の生きていない1000年後に残そうとするのかもしれない。そんなの知ったこっちゃないが、IT社会の中では残さずに死ぬのは損だと私は思う。そんなことを思いながら米津が書いたかどうかは知らないが、今君が考えていることが遥か未来にワープすることもあるだろうと最近思う私である。

「Décolleté」

男女が別れた時の愚痴の歌。「健やかな人生のひび割れをしゃなりと歩く」そう、多分、凹んだ時にしゃなりと歩けるのが米津なのだろう。なんか、詩人になって、失恋さえエネルギーにしていくしたたかさも感じる一曲、だが、すごい自己嫌悪が強い感じにシンクロしてしまう。

「TEENAGE RIOT」

十代の暴動、と訳せばいいのかな?起伏の激しい十代の心が底に落ちては、リセットして、いちいち誕生日のように記念日になる感情みたいなものは感じる。でも、米津も詞には、暴動で爆発させる前の、いろいろなものを詰め込んでいく。そして、若者の断捨離みたいなものも感じる。そう言う点はなんか、勝手に暴走してた昔の自分とは違うのかなと思える。

「海の幽霊」

夏の失恋ソングである。夏に聴くといろいろ感じるものはある。夏の温度と開放感をちゃんと感じさせながら、自分に言い聞かせる感じはかなり女々しい。そんな男の失恋ソングですよね。

「カナリヤ」

最後は、きちんと二人が寄り添いながら、恋を繰り返しずっと生きていこうと言う唄。米津のセンチメンタル詩集の最後にはふさわしい感じ。「あなただからいいよ 歩いていこう最後まで はためく風の呼ぶ方へ」自分を自然の中のバランスに委ねる感じの意思がすごい強い人なのだと思わせる一曲。

以上、15曲、米津玄師の今に投げられる詩集である。今時の曲のあり方の中に、見事に彼の詞が溶け込んでいっている。令和の時代の人のモヤモヤや冷めた感情、そして再生される感情の交錯みたいなものが見えてくる。2、3度リピートし続けても飽きないのは、商売になる音楽ということなのだろう。

音楽不況という中で、新しい風は勝手に吹いて、勝手に儲けていく。傍観しかしない周旋屋の思惑など通り越して、どんどん新しい波動が多くの人に届く。このコロナ禍の2020年において、米津玄師はまた一歩存在感を大きくしていることが理解できるアルバムである。これから彼が生きる過程で興味も変わってくるだろう、様々に振り幅の大きい詩人であり、歌手でい続けて欲しい。だから、早く次が聴きたい!


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