「東京2020オリンピック SIDE:A&B」1年半前の記憶は、すっかり脳裏から消え失せている。その枯れたものを枯れた感じに残した記録
この記録映画、今年上映して、最初からあまりにシネコンには客が入っていなくて、ある意味、そのテーマに観にいく気力もなく、ストリーミングに出るのを待っていた。そして、この年末にそれが解禁されたわけで、早速2本続けて見た。まあ、二度と見ることはないだろう。言うなれば「直美ちゃんのオリンピック日記」という感じの4時間だった。
そして、SIDE:A SIDE:Bなどといって気取った組み分けをしてるが、私の感想は、どこにSIDE:Aがあるのか?という謎だった。これは、オリンピック委員会がそれなりの金を出して撮った映画である。ということは、かなりの膨大な記録(ビデオ)が撮られたはずだ。もちろん、全競技の記録が残っていると思う。その量は、前回の1964年の時の比ではないはず。そして競技の多さから考えても、とてつもない時間のビデオが残されているはず。だが、残された4時間にそのオリンピックのアスリートが競った記録がほとんど残されていない。そして、出てこない競技の方が多いと思えるくらい、フォーカスを当てている競技が少ない。
前回の市川崑監督の作品では、市川監督が芸術性を追求したばかりに、記録映画としては間違っていると批判が多かったという。私も何回か観ているが、そこには東京オリンピックの二週間が凝縮されている。街の解体シーンから始まり、聖火リレー、そして各国の選手団が東京にやってきて、開会式が始まるところから、閉会式までをほぼ時系列でしっかり記録されている映画だと思った。この記録映画には、始まる前から絵コンテが存在し、何をどう撮るか、監督自身がいなくても指示が出ていたという。その結果、スポーツの美しさ、世界平和の必要なことはよくわかる映画に仕上がっている。映像芸術としても一流のものとして今も見られるわけだ。
そう、公式記録映画を撮るのなら監督は、アスリートの汗と涙とその限界まで突き詰めた世界をどう芸術としてまとめるかということを考えるのではないかと思う。だが、この映画を見る限り、河瀨直美監督の考えていることは全く違ったようだ。そして、この映画が何の文句も言われずに公式映画ということで、映画にも言われているように、100年後の世界にも残ることは、それでいいのだろうか?と思ってしまった次第だ。普通、検閲はないにしろ、エンタメとしても、これを見たら興行側は首を縦には振らないだろう。まず、面白くない。出場した選手をすべてワンカットづつ入れるくらいのサービス精神もないし、もちろん、選手や役員全員に対するオリンピックに関わっていることに関するリスペクトも感じない。構成も、編集も、一言で言って「雑」。そして、競技場の外のシーンが多すぎるし、選手でない人が出過ぎている。また、古いフィルムを入れる必要はないと思うし、いらない捨てカットが多すぎる。これでは、アスリート自体が見に行かないだろう。
SIDE:Aでは、何かママさん選手と育児をするその夫みたいなシーンが多く。赤ちゃんのアップがやたら出てくる。こういうのが撮りたいなら、育児映画を撮ればいいわけで、なぜにオリンピック映画でここまでフューチャーするのだろう?そして、監督自身が選手だったからだろう、バスケット女子のシーンが長い。また、柔道も長い。日本人が多く出ることは構わないが、世界中のアスリートの有志をここに集めるのが、記録映画の役目だと思う。今更、ヘーシングの試合をここで見せられるとは思わなかった。まあ、こういう映画が、口コミで客を呼ぶわけもない。ここまで見て、誰か残っているビデオでちゃんとした記録映画を作ってくれ!と叫びたくなった・・・。まあ、監督自身がオリンピックが好きでこの映画を作っているとは思えない。だいたい、最初からオリンピック反対のデモシーンを出してくるし、好意的にも、客観的にもそれを捉えようとはしていない感じである。
公開当時見た、ネットの評で、サーフィンのシーンが良かったというのが結構あったが、何か、サーフィン自体を哲学的な言葉で処理して終わる感じはどうでも良かった気がする。それがオリンピックに何を語るのか?というところ。結果的には、監督のマスターベーション的なものしか感じなかった。
そうかと思えば、大坂なおみが聖火の最終ランナーとして点火するシーンがAとBで2回出てくるが、大阪がそれをやった意味合いには触れず。興味のないところには決してフォーカスを当てないのでわかりやすいとも言える。
ちなみに、これを書いている私は「オリンピック中止」を言い続けたし、今もやらない方が良かったと思っている。だいたい、今年になって贈賄の話で捕まっている人もいるわけで、スポンサーもその周辺もアスリートを利用して自分が儲けようとした人が多くいたということだと思う。そして、やたら、森喜朗が登場するが、ノイズでしかない。
SIDE:Bはいわゆる、パンデミックや開催事務のトラブル周辺のことを中心にまとめられてはいるが、バドミントンなどは競技シーンも出てくるし、SIDE:Aで漏れたシーンも入れてまとめたということなのだろう。しかし、このオリンピックを勝ち取った時のシーンはあるものの、「おもてなし」とか言っているところは出てこないし、ロゴマークが変わるとかいう話も出てこない。そういえば、マスコットなど一回も出てこなかったようですね。まあ、一年延期になったところと、開会式のグループ解散のところと、森喜朗会長辞任のところは出てくるが、それに対する、映画を制作している側の主張みたいなものは出てこないから、これは誰が撮って誰がまとめてもあまり変わらないのか?と思わせる感じだった。まあ、丸川珠代が森喜朗辞任のところで、すり寄る姿と泣いてる姿が、あまりにも白々しく面白かったが・・。しかし、オリンピックを呼んで、リオデジャネイロでマリオになった安倍晋三が一度も映像の中に出てこないのは、なかなかすごい編集である。
そう、あまりそういう難しいことは考えないで、河瀨監督は自分のお気に入りのシーンを繋いで、それらしくしただけだ。競技を撮るということに対するこだわりもないし、映画らしくするために、SIDE:Bでは、関係ない子供のアップのカットがやたら入る。これも、謎でしかない。
とにかく、市川崑監督の「東京オリンピック」は1964年のその時間がどういうものだったかが100年後にもわかるようにできている。しかし、今回の映画はそういうものになっていない。
デジタル時代の記録映画は、カットが細かく処理できて、色調をこだわればそこで作品の雰囲気も作れる。音響の調整で映画自体をダイナミックにもできる。そういう部分が全く感じられない作品と言っていい。時間がなかったというより、協力者がいなかったのではないか、その辺りは監督の器量という面はあるのかと思う。彼女の演出会議みたいなもののビデオを見たことがあるが、とても高圧的であるし、あれでは、スタッフに理解されないのではないかと思った。特に、半端でない数のスタッフを動かすのは無理だったとうことではないか?
それよりも、卓球やレスリング、ボクシング、カヌー、ヨット、テコンドー、馬術、射撃、野球、他、出てこない競技が多すぎるし、「オリンピックが何かわかってる?」と言いたくなる公式映画であったことは確認した。
とにかくも、一年半前の東京オリンピックの記憶は私の脳裏から日々、薄れつつあるし、100年後にそれを語れる人など何人いるのだろうか?無観客でやるということはそういうことだということがわかったオリンピックであったということだろう。
そして、この「直美ちゃんのオリンピック日記」アマプラの評価が★5つになってるのですが、Amazonも金もらってたりする?と穿った見方をしてしまった鑑賞後の私でした。