「1917」公開されたメイキングシーンに見る、デジタル時代のリアルの追求
一昨日、2/19に、YouTubeに10分超の「1917」のメイキングシーンが公開された。映画自体は、私としては、とにかく彼らの罠にまんまとはめられた感じだったが、そこにはデジタル時代の小細工がそれなりにあるだろうと思ったが、このメイキングを見る限り、ガチンコでリアルな映像を求めて作りあげられた作品だったらしい。先ずは、スタッフに脱帽である。まずはユニバーサルピクチャーが公開したメイキング映像をみていない方はみて欲しい
そこには、私が知っているところの黒澤明的な徹底的なリアリズムを追求するような力を感じる。とにかく「映画作ってるんだ」「作品を作り込んでいるんだ」というパワーがメイキング映像に漲っている。
映画を観て大体の予想はついたが、基礎と映画全体のグランドデザインにかなりの時間をかけていると思った。段取りに普通の映画の5倍の時間がかかったというのは、その通りだろう。
ある意味、実写映画だが、特撮映画を撮るような段取りが必要だということだ。そして、オールセットの中に、リアルを求めるが故に、時間の正確な計算だの、カメラの運び方など、入念な計算がなされたはずだ。それは、今の世の中のミニチュア制作技術や、機材の機動性の良さなどとも絡まり合いながら、今までにない映像を作ることに成功したということなのだろう。
実際、もう少し小細工もしているのだと思うが、流石にそういう荒はメイキングには必要ない素材だと思う。もう少ししたら、シークエンスごとの撮影の仕方などの話も出てくるのだろうが、それはその時のお楽しみである。
何よりも平和の大地にいかに戦場を作るか?それも、今までにないリアルな戦場を作ること、そしてそれをどうリアルに撮るかということで、この映画は今までにない映像の可能性を知らしめた。そして、これからワンシーンワンカットというものを撮る時にこの映画が常に脳裏に浮かぶ監督は多いだろう。
とにかく、映画というものは、フィルムからデジタルになることで、時間の制限というものを経済的にも、技術的にもFreeにしてしまった。そして、先にも書いた機材の機動性の良さ、リアルタイムでの映像の確認、編集段階での、かなり自由なエフェクトなど、フィルム時代のやりにくさが次々に無くなっている。だが、作品の構成力、見えぬパワーは作り手のアナログ的な能力の結集である。それが、デジタル技術とうまく連動することで、このような新しい映像を作り出すことができる。それは監督のイメージしたものにより近いものが実際に制作できる時代だということである。だから、イメージング能力のない監督弱い監督では映画制作成立しない時代だと言ってもいい。
私もカメラを持ち、街を歩き、撮って編集すると、映像の世界は今や底無し沼であるということを知っている。世界中の作り手たちは、もはや様々に新しいものを考えているのだと思う。映像の時代は、超映像の時代に入っている。それを魔法の時代というかもしれないが、「1917」に見る映像は、再現力の超精密化と呼ぶべきだろう。
この作品が出て、デジタル時代が本当にやってきた感もする。デジタルの時代とはCGとかのある意味マヤカシに振り回される時代でなく、それを利用し尽くすことでリアルなものよりリアルな映像を作り出す時代である。この映画の主演が無名な青年であるように、スターシステムのなかだけで映画が作られる時代も遥か昔になってきている。
まさに、新しい時代の象徴的映像を観た後で、この生々しい徹底的な職人芸のようなメイキングを見て、映画の未来はまだまだこれからだと理解した次第です。
黒澤明が今、このデジタル時代に存在していたら、どんな気狂い染みた映画を撮ったのであろうかと、思いを巡らせる今日であります。
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