「あの頃、文芸坐で」【29】1981年正月、親子映画からの始まり「チャンプ」「クレイマー、クレイマー」
1981年に入った。一連のこの昔話を書き出して思うことは、今に比べれば、夢多き時代だったということである。この年、2月には日本劇場閉館というニュースがある。後で書くことになると思うが、銀座の「テアトル東京」の閉館もこの年の10月である。東京の再開発が始まったという感じなのだろうか?ただ、印象深い東京の建物がどんどん消え始めた時期と言える。そして、ビル群がどんどん上に伸びていく時代に入る。ただ、それに伴って、庶民の立ち位置はどんどん狭くなり出したのはこの頃なのかもしれない(まだ、バブルは少し先であるが)。
そして、この年の新春、最初に観た映画は、「ミスター・ミセス・ミス・ロンリー」今はなき有楽シネマ(今の有楽町イトシアのできる前にあった。当時は日劇文化から移動して、ATG作品の封切館になっていた。)で5日に観た。原田美枝子主演の神代辰巳監督の映画だ。ビデオを含めて多分3度は観ていると思うのだが、あまりちゃんと内容が話せない。そんな映画だった。
そして、その次の日に文芸坐初詣は特別料金になっている「チャンプ」と「クレイマー、クレイマー」を観た。なんとなく、観た風景を覚えている。結構、お客さんはいた感じ。現在のコロナ禍のシネコンの寂しさに比べたら活気があった時代だ。
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コラムは、新年の挨拶。昨今は、アップリンクのパワハラ問題が取り上げられたが、この頃の映画館の仕事は厳しかったのでしょうか?テケツやモギリやブティックの受け答えには、あまり笑顔は感じなかった気がする。他の商売もそうだが、そういうことを過多に行わなくてもビジネスが成り立っていた時代だ。映画館は映画がちゃんとかかっていれば文句は言わなかった気がする。文芸坐もたまに古いフィルムで、フィルムトラブルがあったりしたが、そこで騒ぐ人もいなかった。時代全体に今のように不満が少なかった気がする。ここに載っている社員の24人の皆さんは今どうしているのでしょうか?もはやこの世にいない方もいるでしょうが、当時の映画館の話を残していただけると嬉しいし、興味深く読む方は多いと思います。デジタルで映画を上映するなど、夢にも考えなかったあの時の映画館のあれこれ、是非!
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まずはプログラム。文芸坐は「チャンプ」「クレーマー、クレイマー」の特別興行から、ロッキーの二本立て、そして「サウンド・オブ・ミュージック」とお正月らしいラインナップ。文芸地下はアニメ特集から内田吐夢監督の宮本武蔵5本立て+真剣勝負。考えたら、これ、私は映画館でこのシリーズを観たことがないかもしれないと今気づいた。大画面で1日続けて観たい映画ですね。
そして、オールナイトの「日本監督大事典」は篠田正浩監督。この話は、次回の主題になるので、その時に。
ル・ピリエも正月は、「処女の和泉」から柳町光男監督の二作「BLACK EMPEROR」「十九歳の地図」のロードショーと映画の正月。
とにかくも、この頃の名画座は、まだまだ賑やかな感じで通うのが楽しみでしたね。
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そして、正月から観たのが親子の話の二本の映画。「チャンプ」は感動編のボクシング映画と聴いて観たが、「あしたのジョー」で育ったものとしては、ボクシングに親子の話を混ぜられても、甘ったるすぎた記憶しかない。そう、ボクシングシーンをあまり覚えていないのだ。昨今、話題にもならない映画ですね。
そして「クレイマー、クレイマー」アカデミー賞を獲得しただけの映画ではありました。この後、ビデオで見ることもないので、細かい内容なあまり覚えていないが、ダスティン・ホフマンがフレンチトーストをうまく作れない話があり、「フレンチ・トースト」って何?と調べた記憶がある。まあ、いろいろ今のようにお洒落なものもあまりなく、美味しいものもよく理解できていなかった頃のお話です。
まあ、この2本、正月から観てよかったという印象ではなかったと思う。そして、最初に洋画を観ているのは、「今年は洋画もいっぱい観ましょうね」という気持ちだったと思うのだが、結果的にはまたもや邦画ばかりの1年になって行ったりしたわけです。この年、大学2年。一番自由を感じながら映画館にいたかもしれませんね。
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