「朝が来る」河瀨直美監督の世界ですね。いろいろしんどい映画ですよね。長いです。
観終わってからネットの感想をあさってみると、結構評判がいい。まあ、こういう映画はコアな人しか観に行かないということもあるだろう。映画のコンテンツとしてはしっかりできていると思う。だが、なかなか題材に救いがない感じがする。こういう事象は日本のあちこちにあるだろうし、それを真摯に映画に仕立てているのもわかる。小説は読んでいないが、結構忠実であるという評があった。ということは、小説の中身が見えてくる。
みょうに最初から出演者のアップが多い。ロングになると有機的な自然の風景。多分、人間の個々の心情を明確にするため(他の風景に観客の気が散らされないようにそうしている感じがした。)そういう演出なのだろう。監督の提示したいものはよくわかる気がする。その演出に沿って役者陣もみんなとても役柄を深みを持って表現している。
命の大事さ、恋のはかなさ、子供というものが思うように授からないこと、そしてそして育てることの素晴らしさと、つらさ、切なさ。様々なものが脳裏に降ってきた。だが、それは観ている中で断片的にくる感じだった。正直、映画の尺が138分というのは長い。映画としての引き算は大切なことだ。そして、映画として作り手の意思がもっとデフォルメされるように構築し直すべきだと思った。
最初に養子として子供を迎え入れた夫婦の今の生活が描かれ、子供の理解しきれない世界のことで心が萎える。そして、子供ができないで受け入れた経緯。その後に、若くして子供を産んだ母親の話、そして現実に戻ってくる。時間軸が行ったり来たりすることが、観ている方に最善とは思えなかった。映画の中で投げられた命題がすぐに帰ってこない連続はストレスになる。
そして、監督の得意なドキュメント風の演出がある以上、時間軸はもう少し考えて、提示すべきではないか?シーンごとの役者の表情や演技はそれなりに完成度が高い。だからこそ、何かこの映画全体の流れに違和感を覚えたのだ。
映画制作には正解はない。だから、この方法論がよかったという人もいるだろう。小説も同じ流れなのかもしれない。小説でこういう流れのものはよく観たことがある。だが、この作品は映画だ。映画を観ながら観客は、何度も同じ時間軸を繰り返す感じで、いちいちそれらを最後に縫合していかなくてはいけない。それはやはり不親切だ。
確かに、親と子は再開できる。だが、どうもそれぞれの最後の感情が深く見えてこないのだ。それは、映画としての世界の広がりが弱い感じがしたからかもしれない。アップの多い映画にはそういうデメリットが確実にある。
ラストで、それぞれの気持ちが読めないところが今風?という気もしない。難解でも、映画としてのコンテンツの骨子がしっかりするものには風格がある。いろいろと中途半端に感じるのは、河瀨作品に私が昔から感じるところだ。
別にハッピーエンドにして欲しいわけではない。観た後に吐きそうになってもいいから、もう少し、テーマを映像にうまく乗せて欲しい。タイトルは「朝が来る」。この作品の最後にそれを思った人がどれくらいいるのだろうか?結果的に子供を産んだ少女には朝が来ていない。
あくまでも、映画を有機的な表現として形にしたいという意思はわかる。だからこそ、役者たちの好演があるのだと思う。でも、私の観賞後の気分はただ混沌としたままであった。
永作博美が今日も、そのままの永作博美であったことだけが印象深かった。
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