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「こちらあみ子」社会性とは何か?無垢とは何か?そして、生きるとは何か?あみ子に答えを提示できるのは誰?

上映が終わってしまう前にやっと観れた。新人監督、尾野真千子が出ていること、子供の視線みたいな要素だけで、観たわけだが、かなり予想とは違ったものが出てきた。

ネット上では、結構勧めてる方が多い印象。確かに映画として、子供の視線が中心になっていて、それも、いろんな社会構造にハマらない女の子が主役なため、なんか無垢の空気感が出ているのは新しいと思う。色々と、てんとう虫や、山椒魚やカエルなどの生き物が挿入されるのは、子供は、そんなものと大して変わらない心象風景の中で生きているんだよというところなのだろうか?最後の方で、カエルを咥えた蛇を手に持って歩く主人公のシーンがあるが。まさに、こんなイメージの残酷性を残した子供が”社会”とか言われるものに戸惑ってる姿が描かれているということなのだろう。

そう、主人公、大沢一菜、演じるあみ子の素の感じは、なかなか面白かった。小学校高学年から中学一年まで、彼女は特に勉強に励むでもなく、のほほんと生活している。クラスに友達はいない。この辺りは明確に描かれている。そして、私の記憶の中にも、こういう独立して、クラスに馴染めない子はいた、確かに。そういう懐かしさみたいなものもある。自分自身にもあみ子の一部みたいなものがあったのかもしれない。

この映画の、重要な事件が、尾野真千子演じる義母の出産がうまくいかず、生まれるはずだった弟の墓を庭に作り、尾野のメンタルを叩きのめしてしまうところ。そう、あみ子にとっては、弟も、虫や金魚と変わらないのだ。この辺りの人間的な気遣いみたいな部分をあみ子は全く学ぼうとはしない。そう、いろんなことが起こる。ずーっと、ただ一人相手にしてくれてた男の子は、最後には、あみ子に殴りかかり、鼻を折られてしまう。あみ子はその理由も結果的は理解できない。

正直、確かにこういう子は存在するだろう。なかなか大人になれず、成長の速度がすこぶる遅い子。そして、映画の中でも成長せずに、親からは捨てられてしまう最後。その先に、それなりの成長はあるのだろうが、人間など、焦らんでもなんとかなる?みたいな、観終わった後の印象。そこには、爽快さはない。現代へのさまざまな風刺が込められているのだろうとは思う。

多分、原作がこういう空気感のもので、映像化すること自体が難しいと思えるものだったのではないか?それを、新人監督が、「こんなのどうですか」と提示できたことは、すごいとは思うし、映画監督としての可能性は感じるが、どうも、映画に内在する暗さみたいなものには、私はついていけないと思った。

あみ子が片道通信のトランシーバーで語りかけることが、この映画の大きなテーマなのだろう。だから、タイトルも「こちらあみ子」。だが、その声に波動に、誰も答えてやろうとしない映画である。あえて言うなら、保健室で歌わせてくれる先生くらいだろう。それだって、あみ子を叱ってくれるわけでもない。あみ子は、ずーっと自分の世界と周囲の拒絶感みたいなものにも気づいていない。だから、弟の霊と話すようになってしまう。「お化けなんかないさ」と叫ぶあみ子。それは、霊に対し歌われてるのではなく、リアルな世界に叫んでいると言うことなのかもしれない。

途中で、一旦、グレて?消えていく兄だが、最後に出てきて、霊を祓ってくれる?ここの意味合いみたいなものは、結構難しい。そう、なんか、あみ子がずーっと何かに取り憑かれているような映画である。でも、人間の本質みたいなものを失わないあみ子に観客はなんか羨ましさを感じたりもするところが面倒臭い感じだったりもする。

最近、観た映画「私は最悪」「WANDA」と、自分に正直にしか生きられず、社会性は全くないにも関わらず、生きていく女の映画2本。どちらも、私的には主人公にシンクロはできなかったが、現代はこういう感覚の人が増えているのかもしれないと思ったりもした。「WANDA」は50年前の映画であり、そういう人は、常に日常の中にいるとも感じた。そして、この映画のあみ子も、同じに社会性など関係なく、生きていく無垢な心の生命体である。つまり、私は同列の映画と感じたのだ。

社会に生きる人々が、組織に組み込まれることを拒む時代であるからこそ、こう言う主人公たちが、好き嫌いは別にして、問題定義をしてきていることは確かだろう。その、なんか、ザワザワした感じ。これが、時代が変わろうとするサインの一つでもあるように、いろんなことを考えさせる。

ラスト、あみ子は海に立って、霊たちの呼びかけには答えずに、通りすがりの人の呼びかけに反応する。そこには、リアルな未来が、私たちが予想だにしない未来があると言うのだろうか?

私はあみ子の心象風景にはシンクロできなかった。だからこそ、途轍もないメッセージ性は感じたし、そこに現代を見出すことで、頭が混乱したことは確かだ。ある意味、現代の日本人のほとんどが、寝込んで起きられなくなってしまった尾野真千子であったりするのかもしれない。


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