名作映画を見直す【11】地球の静止する日
1951年、ロバート・ワイズ監督、マイケル・レニー主演。SF映画としては古典の一本。日本の東宝のSF映画や、「未知との遭遇」に至るまで、様々に影響を及ぼした一本と言っていいだろう。そして、根底にあるテーマが、地球人が争うことへの警告であり、このへんは、手塚治虫などにも大きな影響を及ぼしていると思われる。
ストーリーはわかりやすい。円盤が飛んできて、ワシントンの野球場に着陸する。街は騒然となるが、出てきた宇宙人を撃って怪我をさせる。一緒にいたロボットは人間たちの兵器を溶かす。病院から抜け出した宇宙人は、地球人に自分のきた目的を伝えるために地球人として過ごす。そして、地球人に自分の力を見せるために、地球上のエネルギーを止め、指揮者を集めて声明を出す。そこで言われたことは、「醜い争いは止めろ」という内容だった。
実にシンプルな古典SFである。日本人なら、手塚治虫やそのほかのSF小説などでよく聴かされる話だ。地球人は、戦いをやめないから、宇宙の中では危険な、愚かな生命体と観られていると言う話である。
最近のSFは「スター・ウォーズ」のように宇宙の中で殺し合いを行っているものも多く、日本のアニメも、似たようなものが多い。基本には、作者が戦争の実体験が乏しいこともあるのだろう。そして、この映画に関しては、第二次大戦後6年後の作品で、原水爆に対する危機感も背景にはある。そう言う、基礎概念がなくなっていくと、映画は争いを求めていくのかもしれない。危険である。
ここに出てくる宇宙人は、至って友好的であり、本当に賢い人間を探そうとする。行き着く先の学者が、アインシュタイン的なボサボサ頭だったりするのは、日本のSF漫画にも行き着くスタンダードな感じ。わかりやすい。
宇宙人役のマイケル・レニーも、長身のいい男であるが、表情を変えないと言う点で、「宇宙人とはこう言うものだ」と言う戦後の少年たちの紋切り型の姿である。考えれば、子供の頃の宇宙人観など、自分で想像したものではなく何かのコンテンツに植え付けられたものである。そう考えると、手塚治虫がいなかったら、随分とそれも違ったものになっていただろうと思う次第だ。
宇宙人がリンカーンの言葉を知って「素晴らしい人だ」と言うのは、少し笑えたが、宇宙人の平和感と言うものがわかりやすく示されている。当時の世の中は冷戦下に入っていて、博士が、世界の識者を全て集めるのは難しいと言っているのは、タイムリーな発言なのだろう。そして、世界の中でのアジアの位置もよくわかる。代表がインドしか出てこないのだ。日本など、敗戦国でしかなかったのだ。
そして、ここで出てくるゴートと言うロボットも重要だ。主人のために作業するロボット。目から光を放ち、ものを壊す。そう、これも子供の頃に考えていたロボットの一形態である。主人公が、女にロボットの操作法を教え、自分を救出させるラストのやり方も、どこかで観たような場面であった。
そして、宇宙人が危機に陥るところで、子供が絡んでくるところも、とても安心して観ていられる作りである。そういうSF映画の基本概念が全て詰め込まれている作品である。そういう意味で、今になっても貴重な作品であろう。全てはこの作品から始まったみたいな…。
しかし、その割には、題名にある「地球が静止する日」があまり有効に働いていない気もする。宇宙人の力を示すために、地球人を困らせるという設定だが、あまり困った姿が映らないのだ。そして、このエネルギーがかからない時に宇宙人は演説すれば説得力があったのではないだろうか?と思ってしまった。それを考えると、この宇宙人、技術はともかく、人間を操作する力には長けていないのかもしれない。
そんな、いろんなことを考えさせられる映画ではあります。生活をリセットする今、こういうシンプルな映画の方がいろいろなこと考えられますね。