「福田村事件」人は何故、人を差別してきたのか?人を虐げることに幸せのありかはないのに…。
今年は関東大震災から100年。それに合わせて作られ公開された映画だ。描きたい舞台、事件の現場は関東大震災が起こってから数日後の千葉の利根川沿い村。そこで起こった殺戮事件。大震災のあと、東京からこのあたりまで、朝鮮人が暴れ、水に毒を仕込んだとかの噂が蔓延し、それに合わせ、自警団が作られ、朝鮮人狩りのような状況にあったと言われる時。たまたま、そこに居合わせた、薬の行商人の集団が、朝鮮人だと間違われ大量殺戮事件が起こったという話の映画化。監督がドキュメンタリーを撮り続けた森達也であり、企画、脚本には荒井晴彦が名前をだしている作品。
とても、地味な内容だが、今まで誰もが避けてきた時代の空気感を、観たものに考えさえる問題作になっていた。昨今の極右の歴史修正主義者たちも、自分たちの妄想をこのように映像にしてみればわかることだという感想を私はもった。歴史の記録を開き、それをドキュメントのように繋いでいけば、それなりの仮説がわかってくるし、その時代の空気感も見えてくるということだ。日本会議も歴史を変えたいのなら、桜井よしこを天照大神にでも配役して映画作ったらどうでしょうか?いや、そんなふざけたことを言うレベルの映画ではなかった。私は見事に100年前を擬似体験した。
森監督、初の劇映画だが、脚本がしっかりしてることもあろうが、見事な手腕で映画をまとめていた。とにかく無駄なシーンがほとんどないし、監督が描きたい、被差別問題の全ての要素が入っている。フォーカスが明確なことで、名もなき罪なき行商人たちが殺されていくところを見せられ、もう、世の中に対する怒りというか、脱力感みたいなものをバーチャルだが体現できたことは、最近の映画の中では稀有な体験だった。殺戮の最初のリーダーに斧が降ってくるシーン、その始まりは唐突で過激だった。
ここに示されるのは、100年前の日本だ。その時代において、朝鮮人は日本にとって反逆者、邪魔者であり、単純労働をさせるには欠かせない人員だったのだ。だから、使えない者、逆らうものは殺された。そんな時代に関東大震災があり、その後、昭和20年の終戦までは、こんな雰囲気だったのだろう。この、たかが、100年前の日本の姿をこの映画を通して初めて知る者があるなら、この映画はすごい意味がある。そして、そのDNAはまだ日本人の体内に確実に残ってることも確かで、朝鮮人と日本人がいまだにもう一つ友好的になれない見えないものがそれなのだ。そして、この事件もそうだが、その時代の虐殺に関してしっかり反省する場を持とうとしない国が日本でもある。そういう事実を私は知っているが、やはり、大きな声ではいえなかった今までだったと思う。
そして、それにプラスして、ここで殺された行商人が部落民だったという事実。映画の中で「水平社」ができたという話が出てくる。そう、「橋のない川」の時代だ。そう、デモクラシーも勢いが増し、そこに朝鮮人が混じっていたことも含め、時代は揺れ動いていた。だから、大杉栄がモデルであろうが、殺される社会主義者が印象的に出てくるのも邪魔ではなかった。
そして、新聞記者役の木竜麻生がさらに印象的。ジャーナリズムが国に逆らえずに、事実が書けないのは今と同じである。彼らは100年経っても、なんの進歩もない。この映画さえ、ジャーナリズムは協力していないようだ。ピエール瀧の日和見な編集長ぶりもなかなかリアルな感じがしたし、木竜が朝鮮人の女を庇うシーンも印象に残る。
そのドラマを俯瞰するように、朝鮮から戻ってきた夫婦。井浦新と田中麗奈。この二人が、村の中に溶け込んでいかないことで観客視線として存在する形なのだが、彼らが朝鮮の虐殺現場で何もできなかったという話を聞かされ、シーンとして画がないにもかかわらず、何か観客の脳裏にもそれが残ったままラストに入る感じですごく重だるかったが、それがこの映画の問題定義性の強さにつながっているのは確かである。しかし、田中麗奈、久しぶりに映画のスクリーンで見たが、美しかった。雰囲気変わらないですね。
正攻法で淡々と撮られた映画ではあるが、バックに感じさせられる問題の大きさにただただ唸らされた感じ。多くの日本人に見て、討論していただきたい映画でした。こういう映画が多く作られていけば、阿呆なジャーナリズムは少しは変わっていくかもしれないと思うと同時に、森達也監督のこれからのお仕事にさらに注目していこうと思いました。
良きパッションの映画をありがとうございました。