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Tar, 怪物

今日は、最近見た映画二作について感じたことをまとめておく。

二作を共通して感じた重み

同時期に見たというのもあって、ワクワクとどんよりのバランスが似ている作品だと感じた。
見終わった時に、すごい映画を見たという喜びと、どきどきがある一方で、現在進行形の決して人ごとではない課題を容赦なく突きつけられたことによる、どんよりとした閉塞感と、恥ずかしさ、申し訳なさを感じた。
決定的なネタバレはしないように心がける。

Tar 監督: Todd Field

あらすじとしては、Cate Blanchettが演じる世界の第一線で活躍しているマエストロ Tar、芸術という面での彼女の貢献は疑う余地がなく、フェミニズム、性的少数者の立場向上というアピールにもつながっている。
彼女は、マエストロとしての集大成といえるライブリハーサルを控え、パートナー、エネルギッシュな新星チェリスト、音楽的にも有能らしい若い秘書たちと、オーケストラを作り上げようとするのだが…

物語序盤のTarは、芸術的センスは疑いようがなく、作曲者の意図を深く理解し、彼女の指揮、指導によって、オーケストラがみるみる良くなっていく場面が描かれる。
人間としてもとても素敵で、成功者でだからといって驕らず、パートナーと娘を大切にしているように見える。
しかし、切り取り方を少し変え、別の視点で見てみると、彼女のコントロール欲の強さ、見境のなさが明らかになり、それが確実に周りの人間を傷つけている。
序盤であんなにカッコ良かった彼女が、終盤では、自分コントロールできず、弱く、しかしとても人間的な存在に見えてくる。

結果的に彼女が第一線を退くことになる決定的な場面はあるのだが、怖いのは、その場面に至る前にすでに取り返しのつかない事態に陥っていた。
しかし、なぜそうなってしまったのか、どこでどうしていればそれを防げたのか、というのが少なくとも物語上、私には見出せなかったことだ。
もう一人の人、一対一の関係性、一つの楽団内の話ではなく、業界、ひいては社会全体として、この不合理が避けられないものとして存在してしまうのではないか。

才能という言い訳で全てが許されてしまう、その価値観をどうすれば異常だと突きつけられるのか、本人は悪気はなく、周りも気づかぬふりでそれが普通だと感覚が麻痺している。
この映画ではオーケストラが舞台だが、多かれ少なかれ、そのようなことはどんな業界でもあるのではないだろうか。
才能や権力、魅力を理由に、普通の人間がしたら許されないことが、許されてしまうことが。

怪物 監督:是枝裕和

あらすじはシンプル。
どうやら先生が子どもに暴力を振るったらしいが学校の対応は要領を得ず、実はいじめがある…? さて本当のところ何が起こっていたのか。
しかし本質はそこではなく、どうやら二人の少年には特別な繋がりが生まれているよう、子どものことは大人には理解できず、大人の言葉は子どもに届かない。
そして嵐の夜、少年たちは…

大人には見えない、子どもの精一杯の生きることが美しく描かれていると思った。
いじめ、虐待、組織の持つ暴力性など、物語上多くの社会問題が背景にはあるが、子どもにとって、一人ひとりの人間にとって、そんなことは関係なく、ただそこに存在する。
ただシンプルにその存在を認めていることが伝われば良いだけなのに、それがとても難しい。
良かれと思ってかけた言葉が傷つきを生み、見方は誰もおらず、誰も救ってくれないと錯覚してしまう。

大人の世界と子どもの世界は、同じ現実世界に生きているはずなのに、とても違っていて、分かり合えない。
だからこそ子どもの世界がキラキラして美しいのだが。
悲しいが、現実の世界で彼らが不必要な苦しみから逃れる術はなかったのか、こちらも物語上から希望を見いだせない。

改めて、二作を見てみて

普通に生きている日常だが、少し視点を変えて傷ついた、傷ついている人たちに寄り添ってみてみると、なんとおぞましく残酷な世界かと考えてしまう。
そして私も傷つきを生み続ける社会に対して、そこに加担してしまっていることがない、と胸を張って言えない。
自分には何ができるのか、どうすれば自分なりに納得できるのか。
知識を蓄え、共感を持てるように備え、やっぱり一ひとりの人間を理解できるようにトライしたいと思う

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