悪口と環境
最近、今までの人生と比較して、悪口とか文句を聞く場面がよくある。
「Aさんって何をするのももったりしているよね。」「なんであの選手はこんなこともできないのか、なんでプロをしているんだ。」「(被害者のカミングアウトに対して)なんで死んだ人を陥れるんだ。」などなど。
自分のことを言われているわけではないが、特にその意悪口の内容と私の考えが一致しない時、それなりにストレスを感じている気がする。
ただ、悪口を言える関係性がないと、悪口って言えない。
そう考えると悪口を言える場を持っている彼らはすごい、とも思う。
悪口をよく聞くのは、私の場合飲み屋の常連さん同士の会話であったり、アルバイト先の従業員たちの会話だ。
話のきっかけだったり、会話の潤滑油として機能しているように見える。
でもテレビを見ながら結構どぎつい内容を聞くこともあり、こういう話は私だったら絶対的に自分を受け入れてくれる相手に小声でしか話せない、と感じる。
それは悪口にはリスクがあるからだ。
単純に悪口を言う人は嫌われやすいし、飲みの場で政治と宗教の話はしてはいけない、というように思想が強く出る内容については大げんかやいざこざに発生する可能性がある(もちろん相手は選ぶが私は慎重にこの手の話をするのは好きで困る)。
相手の思想と強くぶつかる会話は避けるのが無難、これが社会通念、マナーと呼ばれるものと思う。
でも彼らは私がどいういう考えを持っているか知らないはずで、そういう第三者がいる場面においても、どぎつい内容の会話を今日の天気の話と同じ軽さで語っているように見える。
きっと日常の会話の中に悪口は根づいていて、その悪口が肯定された(場を盛り上げた)経験を幾度もしているのだと想像する。
私が同じ場にいる時も、悪口を中心に場は盛り上がり、そこに居心地の悪さを感じている私だけが異物のようで、全ての物事は悪口を含めてうまく回っているようにも見える。
それはおそらく、彼らが今までの仕事のメンバーとの関係性も含めて、培ってきた、悪口を習慣として許容できる環境がある程度出来上がっていると言うことなのだろう(どこまでなら許されるかの境界線を知っていることもきっと大事)。
きっとその環境がないと、悪口を言う人はそのコミュニティから排除されたりするはずだ。
冒頭に書いた通り、少しストレスだが、今まで逃げていたところに直面している感じもして、まだ不思議なものに対するワクワク感がある。
悪口の流れで話を振られたら、笑って無難な返ができないかもしれないが、もう少し悪口とは何か、どういう環境がそれを可能にし、その環境はいかにして構成されるのかについて、考えて見たいと思う。