太平記 現代語訳 31-5 八幡の戦い

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝年号・正平(しょうへい)7年(1352)うるう2月20日、京都での戦に敗れて、足利義詮(あしかがよしあきら)は近江(おうみ:滋賀県)へ落ち、京都朝廷の皇族方、すなわち、光厳上皇(こうごんじょうこう)、光明上皇(こうみょうじょうこう)、崇光天皇(すうこうてんのう)、皇太子・直仁親王(ないひとしんのう)は皆、身柄を拘束され、賀名生(あのお:奈良県・五條市)に移された。

しかし、吉野朝廷(よしのちょうてい)側の後村上天皇(ごむらかみてんのう)はなおも、京都に入る事に危険を感じ、八幡(やわた:京都府・八幡市)に留まっていた。

京都朝廷側の公卿たちは残らず、西山(にしやま:注1)、東山(ひがしやま:東山区)、良峯(よしみね:西京区)、鞍馬(くらま:左京区)の奥等へ逃避(とうひ)してしまい、御所もついに、勇猛な兵が警備に当たる事も無く、朝廷の儀式・大礼の執行もなされないままに、狐の住処(すみか)になり果ててしまった。

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(訳者注1)京都市の西京区から向日市、長岡京市一帯に広がる丘陵地。
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世間の声A ほんまにもう、都も、えらいことになってしもぉたわなぁ。

世間の声B ほんに、そうどす。エライ荒れようですわ。

世間の声C あの恒武天皇(かんむてんのう)陛下が、いったいなんで、この地を都に定めなさったか? それはやな、ここが、四神相応(ししんそうおう)の地形やったからや。

世間の声D おっちゃん、おっちゃん、その「四神相応」って、いったいナンの事や?

世間の声C 「四神」言うたらやな、四匹の聖なる動物、つまり、青い龍に、朱色の孔雀(くじゃく)、白い虎に、玄武(げんぶ)の事やがな。「相応」言うのはな、この京都の地形が、その四匹の聖なる動物に、うまいこと守られるようになったるっちゅうこっちゃ。

世間の声D おっちゃんの言うてる事、よぉわからんわ。京都中どこ見たかて、龍なんか、おらへんやん。

世間の声C いやいや、それはやな、そういうこっちゃないんやがな・・・。

世間の声E あのっさぁ、あんたぁ、教え方がまずいんだよぉ。こんな小さい子どもに、そんな難しい事言たって、わかんないでっしょぉお?!

世間の声C ほなら、あんたが、説明してみぃな!

世間の声E いいよぉ、あたいが教えたげっからねぇ。ボクゥ、京都御所の東側にある、北から南へ伸びてる長ぁいものって、いったいなぁんだ?

世間の声D 長ぁいもん言うたら・・・あっ・・・もしかしたら川か? 鴨川(かもがわ)か?

世間の声E そのトオリィ! 川だよぉ、川ぁ! 川も龍も、長ぁくのびてるでしょ? それに、川には水が流れてる。水と龍さんとは、切っても切れない縁があるんだよぉん。だってさぁ、龍が天から雨降らしてんだもーん。

世間の声D ふうん・・・。ほなら、白い虎は?

世間の声E 御所の西に通ってる広ぉい道よぉ。道って白いでしょ?

世間の声D なるほどぉ。ほなら、孔雀は?

世間の声E 京都の南の方、山無いでしょ、窪地でしょ? 孔雀さんは、そういうとこが好きなのぉお。

世間の声B ふーん・・・よっしゃ、3匹目までは、なんとか分かりましたわ。で、最後の「玄武はん」って、いったい、どないなお方どすか? なんや、岩みたいなカンジの方どすなぁ。

世間の声F あ、それならオイラ、似顔絵(にがおえ)見たことあるぞ。えぇっと、たしか、奈良にある「藤の木古墳(ふじのきこふん)」の中に描いてあんだっけ? 頭から胴体までは亀みたいでさ、尻尾が蛇みたいなの。

世間の声E その聖なる動物・玄武はねぇ、高い山に住むのよ。京都の北の方、高ぁい山つながってるじゃぁん? 三条大橋から見てごらんよ、雪降った日なんか、山とってもきれいだよぉ。

世間の声C 恒武天皇陛下はな、さらに都の防御をかためる為に、東山に、将軍塚(しょうぐんづか)っちゅうもんを、築かはったんや。

世間の声G 都の鬼門(きもん)、丑寅(うしとら)の方角には、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県・大津市)があるしねぇ。

世間の声C まさに、百王万代の皇統を継いで行かれるにふさわしい土地なんや、この京都というとこは。

世間の声A ほんにまぁ、この末世の世といえども、未来永劫に至るまで、この京の都が荒廃するやなんて事、想像もしいひんかったわ・・・そやのになぁ。

世間の声一同 ほんまにもう、情けない世の中に、なってしまいましたわいなぁ。

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足利義詮は、近江の四十九院唯念寺(しじゅうくいんゆいねんじ:滋賀県・犬上郡・豊郷町)での長滞在(ながたいざい)を、強いられていた。土岐(とき)一族、佐々木(ささき)一族の他には、彼に従う者は皆無の状態であった。

ところが、「関東での合戦に、将軍様、勝利!」との報がもたらされるや否や、形勢は激変、次から次へと雲霞(うんか)のごとく、彼のもとに武士たちが馳せ参じてきた。

足利義詮 よぉし、ソク、京都奪回だぁ!

吉野朝年号・正平(しょうへい)7年(1352)3月11日、足利義詮は、3万余騎の軍勢を率いて四十九院を発ち、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市)へ移動、そこで陣営の配置を決した。

漫々たる琵琶湖(びわこ)上に、山田(やまだ:滋賀県・草津市)、矢橋(やばせ: 滋賀県・草津市)の渡しに棹さして、馳せ参じてくる人もあり、あるいは、広々とした砂浜に、堅田(かたた:大津市)、高島(たかしま:滋賀県・高島市)を経て、馬に鞭打ってやってくる者もあり。

軍旗は水煙に翻(ひるがえ)り、龍蛇(りゅうじゃ)たちまち天に上がる。甲冑(かっちゅう)は夕日に輝いて、星座たちまち地に連なる。

吉野朝廷側の中院具忠(なかのいんともただ)は、足利軍を迎撃するために、1,000余騎を率いて大津の付近に陣を展開していたが、足利側のこの大兵力を見て、「これでは、戦ってみてもとてもムリ」と思ったのであろう、足利軍が接近する前に、早々に八幡へ退却してしまった。

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3月15日、足利義詮は京都へ入り、東山に陣を取った。

吉野朝側の大将・北畠顕能(きたばたけあきよし)は、京都から撤退し、淀(よど:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)に陣を取った。

3月17日、義詮は、京都南部に移動し、東寺(とうじ:南区)に陣を取った。

顕能は、淀川付近からさらに後方に撤退して、八幡の山下に陣を取った。

結局のところ、未だ戦わざる前に、吉野朝側の大将はずるずると、三度も退却を繰り返してしまったのである。このような事では、この先いったいどうなることやら、心細い限りである。

とはいうものの、八幡山は、究竟(くっきょう)の要害(ようがい)にして難攻不落、赤井の橋を引き落とし、近畿地方の吉野朝側勢力が7,000余騎も、たてこもっているのである。

足利義詮 さぁてと、これから先、いったいどうしたもんかなぁ? 八幡を強攻すべきか否か・・・。

足利軍リーダーH 八幡山の三方は、淀川(よどがわ)に囲まれてますからねぇ・・・橋も無けりゃぁ、舟も無し。

足利軍リーダーI それに、八幡から宇治街道(うじかいどう)を経由すりゃぁ、我が軍の後方に出れますからなぁ。敵がその手を使ってきたら、我々は、はさみ打ちになってしまう。進退に窮して、ニッチもサッチも行かなくなってしまいますよ。

足利義詮 うーん・・・いったい、どうしたもんかなぁ・・・うーん・・・。

足利軍リーダーJ ま、とにかく、ここで、もうしばらく待ってみません? これからも、援軍は続々来るんでしょうから。

その期待通りに、細川顕氏(ほそかわあきうじ)が、四国の武士たち3,000余騎を率いてやってきた。(注2)

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(訳者注2)細川顕氏の京都からの撤退については、30-6 を参照。
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さらに、赤松則祐(あかまつのりすけ)が、再び足利側に寝返ってきた。彼は、吉野朝廷から親王一人を大将として頂き、アンチ尊氏勢力の一員としての活動を展開していたのであったが(注3)、ここに来て、いったい何の思惑あってかは分からないが、吉野朝廷を背いて京都へやってきたのである。

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(訳者注3)赤松則祐のこの動きについては、30-1 参照。
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義詮は、龍が水を得たごとく、虎が山に跋扈(ばっこ)するがごとく、いよいよ、京都と近畿地方全域に、その威をふるい始めた。

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3月24日、義詮は、3万余騎を率いて、宇治街道を経て木津川(きづがわ)を渡り、洞峠(ほらがとうげ:注4)に陣を取らんとした。河内(かわち:大阪府東部)の東条(とうじょう:大阪府・富田林市)と八幡間の補給ルートを遮断し、吉野朝側を兵糧攻(ひょうろうぜ)めにしようとの作戦である。

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(訳者注4)八幡宮のある男山の、南方に位置する。
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八幡以北エリアの吉野朝側の軍事は、和田五郎(わだごろう)と楠正儀(くすのきまさのり)が担当していた。

正儀は当年23歳、五郎は16歳。いずれも若武者であるが故に、「経験不足が災いして、思慮の無い戦をやってしまうのでは」と、吉野朝側の諸卿はしきりに危ぶんでいた。

和田五郎は、八幡の御所に参内していわく、

和田五郎 私の親類、兄弟はことごとく、度々の合戦にわが身を捨てて、討死につかまつってまいりました。今日のこの合戦もまた、公私の一大事と存じとります。まぁ、見ててください、命がけの戦を展開して、敵の大将一人、必ず討ち取ってみせますでぇ! さもなくば、生きて再び、陛下の御前へ帰って来ません!

きっぱりと言い放って退出する和田五郎の後ろ姿に、列座の諸卿、国々の武士たちは残らず、賞賛の眼差しを送る。

吉野朝メンバーK いやぁ、さすがですわなぁ。

吉野朝メンバーL やっぱしなぁ・・・代々、勇士を産み出してきた家のもん(者)やからなぁ。

吉野朝メンバーM たいしたもんやでぇ!

和田、楠および紀伊国(きいこく:和歌山県)の武士ら3,000余騎は、荒坂山(あらさかやま:八幡市)に向かい、そこを防衛拠点として、足利側の進出を防がんとして待機した。

やがて、細川清氏(きようじ)、細川顕氏、土岐頼康(ときやすより)、その弟・土岐頼里(よりさと)が、6,000余騎を率いて、荒坂山に押し寄せてきた。

山路険しく峯高くそびえたっているので、足利側は山麓で全員、続々と馬を乗り捨て、頭上に盾をかざし、連なって山道を進んでいく。

そこを守る側は、大和(やまと:奈良県)生まれ、河内生れの者たちであるからして、このような地形を利用しての戦には慣れている。

岩の陰、崖の上に走り渡り、矢をサンザンに射る。土岐軍と細川軍の最前線に位置する者たちは、矢を浴びせ掛けられて、一歩も先に進めなくなってしまった。

土岐頼里は当時、日本国中に名前の知れ渡った、大力の早わざの人であった。

太刀を振るえば天下一品、卯の花威し(うのはなおどし)の鎧に鍬型うって、水色の笠標(かさじるし)を吹き流している。5尺6寸の太刀を抜いて引き側(そば)め、左手の袖を振りかざし、遥か遠い山道を一気にかけ登らんと、猪が前進するがごとくに、笑みを浮かべながら斜面を登っていく。

これを見た和田五郎は、

和田五郎 オッ! 戦うに格好の相手が、来よったわい!

五郎は、手に持った盾をガバと投げ捨て、3尺5寸の小さい長刀を短めに持ち、土岐頼里に切り掛っていった。

和田五郎 テヤァーー!

それを見た細川清氏の郎従(ろうじゅう)・関左近将監(せきさこんしょうげん)が、とっさに土岐の脇からツット走り抜け、和田五郎に打ちかかっていく。

関左近将監 待て待てぇ、オレが相手だぁ!

すると今度は、和田の中間(ちゅうげん)が、小松の陰から走り出てそのすぐ近くまで詰め寄り、12束3伏の矢をギリギリと引き絞った後に、パッと放つ。

弓 ビュンッ!

矢 ヒューーー、バシッ!

関左近将監 うぁっ!

矢は、関左近将監の鎧を貫通し、彼は膝をついて伏してしまった。

それを見た土岐頼里は、

土岐頼里 おい、しっかりしろ!

頼里は、倒れた左近将監の側に走り寄って、彼を引き起こそうとした。そこをすかさず、和田の中間は、二本目をつがえて矢を放つ。その矢は、頼里の胴右の鎧の板に命中し、その鏃(やじり)は完全に、鎧の中に没した。

これを見た関左近将監は、

関左近将監 (内心)もうダメだ、オレを助けてくれる人は、もう誰もいやしねぇ。よし、切腹!

左近将監は、腰の刀を抜いて腹に当てた。

土岐頼里 待て待て! 早まって自害なんかすんなよ! 今、助けてやるからぁ。

頼里は、ツボ板に突き立った矢を、鎧の右胴部分もろとも引き切って投げ捨てた。そして、襲いかかってくる相手5、6人を、やにわに切り伏せた後、左近将監を左の小脇にグイと挟んだ。そして、右手で例の太刀を振り回して接近する相手をなぎ倒しながら、3町ほど退却した。

和田五郎 こら、待てぇ! 逃げるな、ヒキョウ者、逃がさんぞぉ!

五郎は、どこまでもどこまでもと、土岐頼里に追いすがっていったが、ついに、彼をとり逃してしまった。

和田五郎 アーア・・・。

しかし、ついに、頼里の運もここで尽きてしまったのであろうか、夕立のせいで深く掘れてしまった溝を飛び越えようとしたとたん、足元の土が、ガサッと崩れてしまった。

土岐頼里 (内心)しまった!

深い溝の底に落ちてしまっては、さすがの頼里もなすすべもなく、そこに走り寄ってきた五郎は、長刀の柄を伸ばして、頼里と左近将監を討ち取った。

和田五郎 やったぁ、やったでぇー!

しかし、今はまさに乱戦のまっただ中、ゆっくり首など取っているひまがない。

和田五郎 しゃぁないな、これだけでも、持って帰るとするか。これが、相手を討ち取った証拠物件っちゅぅわけや。

五郎は、頼里が引き切って捨てた鎧の右胴部分だけを拾い上げた後、引き返した。そして、自分の鎧に突き立った矢を少し折り、後村上天皇の御前へ参って、戦の報告をした。

和田五郎 陛下! 敵の大将、一人討ち取って参りました! あいにく首を取るヒマはありませんでしたけど、これがその証拠です!(例の鎧の右胴部分を、前に置く)

後村上天皇 よぉやったぁ! 今朝の約束、みごとに果たしたなぁ! あれほどの大軍を迎え撃った上に、敵の大将一人討ち取るとは、あっぱれ、見事!

和田五郎 ハハァー!(平伏)

後村上天皇 その上、身に数箇所の傷を受けながらも、つつがなく帰って来るとは・・・前代未聞の高名や!

後村上天皇も、大喜びである。

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土岐頼里を討ちとって、吉野朝側は緒戦を飾れたものの、双方の兵力差は、余りにも大きい。

「このまま、ここに陣取っていても、とても持ちこたえられまい」との形勢判断の下、夜になってから、楠正儀(くすのきまさのり)は八幡(やわた:京都府・八幡市)へ退却した。その翌朝、足利(あしかが)軍はすぐに、和田(わだ)・楠軍団が退却した後の荒坂山を占領した。

それから4、5日の間、戦線は膠着状態(こうちゃくじょうたい)に入った。吉野朝側も攻めかからず、足利側も攻め登ろうとしない。

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そのような情勢下に、山名師義(やまなもろよし)が、出雲(いずも:島根県東部)、因幡(いなば:鳥取県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)三か国の軍勢を率いて、京都にやってきた。

山名師義 そうかぁ・・・荒坂山ってとこで、そんな激戦あったんかぁ・・・あぁ残念、おれもそこにいたかった。遠い道やってきたもんだから、戦場に遅れてしまったよ。かえすがえすも残念だなぁ!

山名師義 よぉし、今すぐ八幡へ押し寄せて、一戦やらかすぜ!

彼は、全軍を率いて、淀(よど:伏見区)へ向かった。

そこには、吉野朝側の法性寺康長(ほうしょうじやすなが)が陣を取って守っていた。淀の橋を3間ほど引き落とし、西の橋詰めに盾をつき並べ、足利側の襲来を待ち受けている。

山名師義 橋を渡るのは、ムリだな・・・筏(いかだ)作って、川を渡せ!

さっそく、周辺の民家を破壊して得た材木を筏に組んではみたものの、梅雨の長雨のため、川の水かさが増しており、筏は全て押し流されてしまった。

数日後、

山名師義 なにぃ! 淀の大明神の前に、浅瀬があるぅ?! エェイモウ、なんでそれを早く言わないんだ! 行け、行けぇ!

2,000余騎一団となり、浅瀬を一気に渡った。

対岸には、法性寺康長がただ一人。川から上がった山名側の3人を、たちどころに切り落とし、反り返った太刀を押し直した後、静かに退いていく。

山名軍3,000余騎は、康長に追いすがっていった。

山名軍メンバーN そこにいるは、一軍の大将と見たぞ!

山名軍メンバーO 敵に背中を見せるとは、卑怯千万(ひきょうせんばん)!

山名軍メンバー一同 逃げるな! 正々堂々と相手しろ!

法性寺康長 フフン、雑魚(ざこ)どもが、ナニを言うか! おもろい、相手になったろやないかい!

康長は、取って返して山名軍をハット追い散らした。返し合わせては切って落し、淀の橋詰めから八幡山に至るまで、17回も返し合わせた。なのに、馬に傷を負わせる事も無く、我が身にも重傷を負う事も無く、鎧の袖のX字形板の上に突き立った矢2、3本を折った後、八幡山へ悠々と帰っていった。

山名師義はその後、財園院(ざいおんいん:八幡市)に陣を取り、法性寺康長はなおも守堂口(もりどうぐち:八幡市)に守備陣をかためて、山名軍の進出を防がんとした。

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4月25日、全方面の足利軍は、しめし合わせて一斉に、総攻撃にうって出た。

吉野朝側は、北畠顕能(きたばたけあきよし)が、伊賀(いが:三重県西部)、伊勢(伊勢:三重県中部)の武士3,000余騎をもって、園殿口(そのどのぐち:八幡市)を防御する。

和田、楠、湯浅(ゆあさ)、山本(やまもと)他、和泉(いずみ:大阪府南西部)、河内(かわち:大阪府東部)の軍勢は、佐羅科(さらしな:八幡市)方面を防御する。

戦が進む中に、やがて、高橋(たかはし:八幡市)のあたりの民家が燃えはじめた。

火は、強風にあおられて四方に広がっていく。吉野朝側は煙にむせび、戦を続行する事はもはや不可能、全員、八幡山上へ退却した。

足利軍2万余騎は、すかさず四方から殺到し、洞峠(ほらがとうげ)まで上って、そこに拠点を確保、土岐(とき)、佐々木(ささき)、山名、赤松(あかまつ)、松田(まつだ)、飽庭(あくわ)、宮(みや)らが数十箇所に陣を取り、垣を築いて、八幡山を五重六重に包囲した。

一方、細川顕氏(ほそかわあきうじ)と細川清氏(きようじ)は、真木(まき:大阪府・枚方市)、楠葉(くずは:枚方市)方面から進み、八幡山西方の尾根上の如法経塚(にょほうきょうづか:八幡市)付近に陣を取り、掘一重を隔てて、吉野朝側を攻撃した。

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5月4日、吉野朝側は、全軍7,000余騎の中から、夜襲のベテラン800人を選抜して、コマンド部隊を編成した。部隊を率いるは、法性寺康長。

康長は、昼過ぎ頃から彼らを自陣へ集め、全員に、共通の笠標(かさじるし)を着けさせた。

法性寺康長 覚悟はえぇか、いよいよ、今夜やぞ!

吉野朝コマンド部隊メンバー一同 分かっとります!

法性寺康長 夜襲において、最も気ぃつけなあかん事、それはいったい何か? おまえ、言うてみぃ!

吉野朝コマンド部隊メンバーP はい、同志討(どうしう)ちです。

法性寺康長 その通り。よって、同志討ちを避ける為に、これから、合い言葉を定める、えぇか、よぉ聞いとけよ。

吉野朝コマンド部隊メンバー一同 ・・・。(耳を澄ます)

法性寺康長 合い言葉はな、「おまえは誰や?」に「進む」。「おまえは誰や」と問いかけられたら、「進む」と答えるんや、分かったなぁ!

吉野朝コマンド部隊メンバー一同 分かりましたぁ!

いよいよ夜も更けて、午後11時、吉野朝コマンド部隊は、移動を開始。宿院(しゅくいん:八幡市)の後ろを回って、如法経塚へ。

法性寺康長 よっしゃ、行くでぇ! トキの声!

吉野朝コマンド部隊メンバーP エェイ! エェイ!

吉野朝コマンド部隊メンバー一同 オォーーーウ!

細川軍メンバー一同 なんだぁ?

法性寺康長 行ぃけ、いけぇー!

吉野朝コマンド部隊メンバー一同 ウォーーー!(ドドドド・・・)

細川軍メンバー一同 あ、あ、あ、夜襲、夜襲!

細川軍メンバーQ 馬、馬は、どこだ?!

細川軍メンバーR 鎧、鎧、早くぅ!

細川軍3,000余は、真っ暗闇の中で、パニック状態に陥ってしまった。

自分がいったい陣中のどこに位置しているのやら、さっぱり見当もつかない。馬は勝手に走り回り、人はただ騒ぐばかり、太刀をも抜けず、弓をも引けない。続出する負傷者、死者、その数さえも定かでない。

遥か彼方の谷底へ、全員一気に追い落とされ、遺棄された馬や鎧の数は何千万・・・。

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「一陣が破れたならば、そく、全軍が崩壊するであろう」との、吉野朝側の期待に反して、細川軍の壊滅の後も、土岐、佐々木、山名、赤松の各陣は微動だにせず、垣を密に結んで用心堅い。夜襲をかけるスキもなく、打ち破るすべもない。

「このままでは、いつまでも、もちこたえれるもんやない。和田と楠を河内へ返して、あっちで兵を召集させ、八幡山の後詰めをさせよ」との決定に従い、二人は、こっそり八幡山を抜け出して河内へ向かった。

その後、八幡山にたてこもる吉野朝側は、二人が後詰めをかけてくるのを、一日千秋の思いで待ち続けた。

しかしながら、「今回の後詰めの任務こそ、わが一大事!」との思い深く、河内へ帰った和田五郎は、にわかに病に倒れてしまい、それから間も無く、死去してしまった。

一方の楠正儀は、父(正成)にも兄(正行)にも似ない、少々ノンビリ屋の人、「今日にも八幡へ」、「明日には八幡へ行くから」とかなんとか、言い続けているばかり、「天皇が、足利側の大軍に包囲されておられるのを、何とかしてお救けもうしあげよう」、との考えは無かったようである。まことに遺憾(いかん)な事である。

世間の声S そらまぁあ、古代中国にかて、似たような事は、ありましたわいな。あの聖君・尭帝(ぎょうてい)の息子の丹朱(たんしゅ)は、父には似ても似つかんような人物でしたわなぁ。あの舜帝(しゅんてい)の弟の象(ぞう)もまた、これが舜帝の兄弟であるとは、とても思えへんような、エゲツナァイ人物やった。

世間の声T そやけどねぇ、この楠正儀いう人はですよ、他ならぬ、あの楠正成(まさしげ)の息子ですよぉ、あの正行(まさつら)の弟ですよぉ。いったいなんでまた、こないにも、親とうって変り、兄にここまで劣る人間が、あの楠家に、生まれてきたんでっしゃろなぁ。

世間の声一同 いやぁ、まったく同感ですねぇ。(注5)

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(訳者注5)以下に、太平記のこの個所の原文を掲載しておく。

 「尭の子尭の如くならず、舜の弟舜に不似(にず)とは乍云(いいながら)、此楠は正成が子也。正行が弟也。何(いつ)の程にか親に替り、兄に是まで劣るらんと、謗らぬ人も無りけり。」

[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注には、以下のようにある。

 「史実として楠木正儀はこの頃和田助氏・淡輪助重を率い、和泉国村松で五月六日、十六日頃戦っていて(和田文書、淡輪文書)、八幡を助ける余地がなかったようである。」

当時、本当にそのような「楠正儀評」が世間に存在したのかどうか、怪しいものである。太平記作者が記述した事を、安易に信じない方がいいと思う。
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