太平記 現代語訳 11-5 九州においても、幕府側勢力、消滅

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都と鎌倉はすでに、足利高氏(あしかがたかうじ)と新田義貞(にったよしさだ)の武功によって静まった。

次は筑紫(つくし:注1)へ軍を向けて、九州庁長官(注2)・北条英時(ほうじょうひでとき)を討つべし、ということになり、二条師基(にじょうもろもと)を太宰府長官(注3)に任命し、まさに進発させようとしていた時、6月7日、菊池(きくち)、小弐(しょうに)、大友(おおとも)よりの早馬が同時に京都に到着、九州の北条方は残す所無く退治した、と奏上してきた。

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(訳者注1)福岡県内のエリア。筑前国と筑後国。

(訳者注2)原文では、「九國の探題」。

(訳者注3)原文では、「太宰師」。
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その経過を後日、詳細に尋ねた所、以下のような展開であった。

後醍醐先帝がいまだ船上山にあった時、小弐妙慧(しょうにみょうえ)、大友具簡(おおともぐかん)、菊池寂阿(きくちじゃくあ)の三人が心を同じくして、先帝方につきたい由を申し入れて来た。先帝はさっそく、倒幕命令書に錦の旗を添えて彼らに与えられた。

彼らは、その計画をそれぞれの心中に秘め、口外しなかったが、さすがに隠れようもなく、やがて、九州庁長官・北条英時の察知する所となった。

英時は、彼らの反逆の心の存否をさらに深く確認するために、まず、菊池寂阿を博多(はかた:福岡県・福岡市)へ呼び寄せた。

寂阿は、その裏に隠れている英時の真意にたちまち気付いた。

菊池寂阿 (内心)うーん、どうやら、おれたちの陰謀は、露見してしもとるばい。わしばぁ討とぉ思うて、博多へ呼び寄せよるんだな、英時は。

菊池寂阿 (内心)あちらに先ばぁ制されては、どうにもならなか。こっちから先に博多へ押し寄せて、直接対決で勝負ば決するかぁ。

そこで寂阿は、かねてからの約束を頼りに、小弐妙慧と大友具簡に、それを知らせた。ところが彼らは、未だ、天下の行方いかがなるべしとも見定める事ができないので、明瞭な返事を返して来ない。

当時、京都からは、六波羅庁側が毎度の合戦に勝利、との情報がもたらされていたので、小弐妙慧は自分の咎を償おうと思ったのであろう、以前からの約に背き、菊池側の使者の八幡宗安(やわたむねやす)を討ち、その首を九州庁に差し出した。

これを聞いた菊池寂阿は、大いに怒った。

菊池寂阿 日本一の無法者どもばぁ頼りにして、こぎゃん(こんな)一大事ばぁ思い立ったわしが、ばかものやったということよ。よしよし、そぎゃん(そんな)連中らに加勢してもらわんでも、ちゃぁんと戦えるばい。

かくして、元弘3年3月13日午前6時、菊池軍はわずか150騎にて、九州庁の庁舎へ押し寄せた。

寂阿が櫛田神社(くしだじんじゃ:福岡県・福岡市)の前を通り過ぎようとした時、そこの神がその戦の凶であることを示そうとされたのであろうか、あるいは、馬に乗ったまま前を通過していく無礼を咎められたのであろうか、寂阿の乗馬がにわかに立ちすくんでしまい、前へ一歩も進めなくなってしまった。寂阿は大いに腹を立て、

菊池寂阿 どんな神様か知らんが、今、こん(この)寂阿が戦場へ向かう道中だぞ、馬に乗ったまま通り過ぎていくのばぁ、なして(なぜ)咎める! そっちがそうゆうつもりならば、矢、一本進呈しようとよ。受けてご覧じろ!

彼は、エビラから鏑矢を抜きだし、神殿の扉に向けて二本も射た。その矢を放つやいなや、馬の立ちすくみは直った。

菊池寂阿 分かってくれたようだな、はははは。

こうして菊池軍は、その神社の前を通過していった。

その後、社壇のあたりを見るに、2丈ほどの大蛇が、寂阿が放った鏑矢に当たって死んでいたのが、まことに不思議である。

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九州庁側は、かねてから用意怠り無く、準備万端整えて待ち構えていた。大勢を城の木戸の外へ繰り出して、菊池軍に当たらしめた。

菊池側は小勢ではあったが、全員わが命を塵芥のように軽んじ、義を守る心は金石のごとし、勇猛果敢に攻めかかっていく。かくして、九州庁側の損害多数、本丸へ引きこもってしまった。

菊池軍メンバーは、勝に乗じて塀を乗り越え木戸を切り破り、続々と九州庁内に攻め入っていく。北条英時もさすがにこれを防ぎかね、あわや自害か、というその時、小弐と大友の6,000余騎が戦場に現われ、菊池軍の後方から、後づめの戦をしかけてきた。これを見た菊池寂阿は、嫡子・武重(たけしげ)を呼んでいわく、

菊池寂阿 わしは今、小弐と大友に裏切られてしもうて、こん(この)場で死ぬ事になるとよ。ばってん(しかし)、義の心ばぁかたく持ってやり抜いてきた事やけん、命ば落とす事になんの悔いも無かとよ。さぁ、北条英時の城ば枕に、討死にやぁ!

菊池寂阿 おまえは急いで菊池の館へ帰ってな、守りばかため兵ばぁ起こし、わしの恨みを死後に晴らせ。

このように言い含め、若党50余騎を自軍から分けて武重に付けた。

故郷に留め置いた妻子らは、菊池の地を出立した時がこの世の永遠の別れになるとも知らずに、自分の帰りを今か今かと待っているだろうと、哀れに思い、寂阿は、鎧の袖から笠標を引きちぎり、それに歌一首を書いて、故郷へ送らせた。

 故郷(ふるさと)に 今夜(こよい)許(ばかり)の 命とも し(知)らでや人の 我を待つらん

(原文のまま)

菊池武重 40有余歳になられた父上が、たった今から討死覚悟で大敵に向かって、戦ばぁしかけられようゆうに、どうしてわし一人だけ、故郷に帰れましょうか。たとえどうなろうとも、父上と運命ば共にしますき。

菊池寂阿 なんば言うとね(なにを言うか)! おまえの命ばぁ、天下の為に取っとこういう、わしの心、分からんか!

このように、父にかたく言い含められ、武重も仕方なく、これが最後の別れと、父をじっと見つめた後、泣く泣く肥後へ帰っていくその心中、哀れなるかな。

その後、菊池寂阿は、次男の三郎と共に100余騎を前後に従え、後づめの軍勢には目もくれず、九州庁内に攻め入り、一歩も後に引かず、敵と刺し違え刺し違え、一人残らず討死にしてしまった。

專諸(せんしょ)、荊軻(けいか)の心は恩の為に仕われ、侯生(こうせい)、豫譲(よじょう)が命は義に依って軽しと、言うべきか。

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「小弐と大友の今回の行為、とても人間のする事とは思えないぞ」との、世間の人々からの謗(そし)りをものともせず、知らん顔をしながら世間の情勢を窺っていた両人であった。

ところがなんと、5月7日、六波羅庁すでに滅亡、千剣破城(ちはやじょう)攻めの軍は全員奈良へ退却、との情報に、小弐妙慧はびっくり仰天。

小弐妙慧 (内心)こりゃマイッタね・・・どげんしょうか。こげん事になるんやったら、菊池ばぁ攻めるんやなかったねぇ。えらい咎ばぁ、背負いこんでまったもんや。なんとかして、帳消しにせにゃいかん。

妙慧は秘かに、菊池武重と大友具簡のもとへ使者を送り、連合しての九州庁攻めを持ちかけた。

武重は、先般の事に懲りて、妙慧を相手にしようとしない。具簡は、自分も咎ある身ゆえ、自らの咎を解消せんと、この話に乗ってきた。

九州庁攻め、今日が良いか、明日が良いか、と、妙慧が吉日を選んでいるうちに、北条英時はその陰謀をかぎつけ、事の真否をうかがい見るために、長岡六郎を妙慧のもとへやった。

長岡六郎はすぐに、小弐の館に出向き、面会を申し込んだ。しかし妙慧は、「折り悪く病気してもて」と偽り、面会を謝絶。

仕方なく長岡六郎は、妙慧の子息の小弐頼尚(よりひさ)の舘へ行った。

六郎は、用向きを告げながらさりげなく、館の中をあちらこちら見まわした。

館内は、出陣カウントダウン開始といった雰囲気、今まさに盾を用意し、鏃を砥ぐ、といった有様である。門の側の守衛所には、先端部を白くした青竹の旗竿が置いてある。

長岡六郎 さては、船上山から錦の旗ばもろぉたとかゆう、うわさ、まことやったな。よーし、頼尚が出てきよったら、そく、刺し違えじゃ。

しばらくしてから、頼尚は、何食わぬ顔をして六郎に対面した。席につくやいなや六郎は、

長岡六郎 こん(この)悪人どもめ、謀反ばくわだてよって!

刀を抜き、頼尚に飛び掛かる。しかし、頼尚は極めて敏捷な男、側にあった将棋盤をさっとつかんで、刀を受け止める。

長岡六郎の刀 ガキッ!

将棋盤 グァシ!

次の瞬間、頼尚は六郎に飛び掛かった。

上になり下になり格闘する二人。すぐに、小弐家の郎従ら多数が走り寄り、上になっている六郎に3刀さして、下になっている頼尚を助けた。

かくして、長岡六郎は、本意を達せぬままに、たちまち落命。

この報告を受けた妙慧は、

小弐妙慧 うーん、こい(こちら)の謀反の企ては、もう九州庁に知られてしもてたか。こうなりよったらもう、ぐずぐずしてはおれんとよ!

小弐妙慧は大友具簡と共に、7,000余騎の軍兵を率いて、5月25日の正午ごろ、九州庁へ押し寄せた。

世も末の世間の風潮ゆえ、義を重んずる者は少なく、利に走る人間のみ多し。たった今まで付き従っていた九州の武士たちも、長年の恩を忘れて逃亡し、名を惜しまずに寝返りしていく。

短時間の戦いの後に、北条英時は敗北して自害、一族郎従340人、彼に続いて腹を切った。

あぁ、なんとあさましい事であろうか、昨日、小弐と大友は北条英時に従って菊池を討ち、今日、小弐と大友は、倒幕側陣営に属して英時を討つ。

 行路の難 山道にはなし 水路にもなし ただ 人情の反覆(はんぷく)の間に在り

と、白楽天が書いたその筆の跡、今まさに思い知られるではないか。

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