太平記 現代語訳 38-7 和田正武と楠正儀、摂津国を制圧

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷サイドの和田正武(わだまさたけ)と楠正儀(くすのきまさのり)は、かねてより、細川清氏(ほそかわきようじ)と相い謀(はか)り、四国地方と近畿地方同時に、合戦を始めようとの計画を、定めていた。

ところが、「7月24日、細川清氏が討たれ、四国、中国の大半は、細川頼之に靡き従うようになってしまった」との報が、もたらされた。

綿密に積み上げてきた計画も、これで、崩壊してしまった。

和田正武 ほんまにもう・・・ガックリくるわなぁ・・・。

楠正儀 アーア・・・。

和田正武 ・・・。

楠正儀 そやけどな、そうそういつまでも、落ち込んどるわけにもいかんやろが。徒(いたずら)に日を送っとったら、敵はますます、ずに乗ってしまいよるやんけ。

和田正武 そうやなぁ。こっち側についとる諸国の連中ら、いつなんどき、あっち側に寝返りうってしまいよるかもなぁ。

楠正儀 とにかく、ここで、一戦やらかして、全国の味方の士気回復といこうなぁ。

和田正武 よぉし、やろやろ。

和田正武と楠正儀は、自軍800余騎と野伏(のぶせり)6,000余人を率い、摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)の神崎川(かんざきがわ)の橋詰(大阪市・西淀川区)へ、軍を進めた。

この時の摂津国守護は、佐々木道誉(ささきどうよ)であったが、彼は京都に常在の身であったので、箕浦次郎左衛門(みのうらじろうざえもん)を守護代理に任命し、140~150騎を付けて、現地に駐留させていた。

正武と正儀の動きを見て、箕浦次郎左衛門は、摂津全域に動員をかけたが、集まってきた国人は、わずか500余騎だけであった。

彼らは、神崎川の橋を2、3間焼き落とし、和田&楠軍が川を渡ってきたら、橋の途中で全員、射落としてしまおうと、鏃をそろえて待ち構えた。

正武と正儀は、箕浦サイドを撹乱するために、神崎の橋詰めと杭瀬(くいせ:兵庫県。尼崎市)の2箇所に、全軍を集結した。

箕浦次郎左衛門 絶対に、あいつらには、川を渡らせへんぞ!

箕浦彌次郎(みのうらやじろう)、箕浦四郎左衛門(しろうざえもん)、塩冶六郎左衛門(えんやろくろうざえもん)、多賀将督(たがのしょうげん)、木村泰則(きむらやすのり)以下50余騎が、杭瀬に向かった。

守護代理・箕浦次郎左衛門、伊丹大和守(いたみやまとのかみ)、河原林弾正左衛門(かわらばやしだんじょうざえもん)、芥川右馬允(あくたがわうまのじょう)、中白一揆(なかじろいっき)武士団300余騎は、神崎の橋詰へ臨んだ。

箕浦次郎左衛門 橋桁は、もう焼き落としてしもたるし、杭瀬の方は、相当の水深や。まぁ、大丈夫やろ、いくら、和田、楠らが勇み立ってみたところで、川を渡ってくるのは、不可能っちゅうもんやでぇ。

8月16日夜半、正武と正儀は、陣中にカガリ火を、ことさら焚かせた。これは、全軍なおも陣地に止まっているかのように装う、カモフラージュであった。

彼らは、そこから20余町ほど上流に移動し、三国の渡(にくにのわたし:大阪市・東淀川区)で川を越え、昆陽(こや:兵庫県・伊丹市)、富松(とまつ:尼崎市)、河原林(兵庫県・西宮市)へも部隊を送り込み、箕浦軍を川へ追いつめてしまわんと、包囲網を敷いた。

箕浦サイドは、こんな事とは夢にも知らずに、「敵は絶対に、川向うにいる」と、確信しきっている。

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箕浦軍メンバーA ちょっと、ちょっと、あれ見てみいな・・・昆陽、富松の辺に、なんやら火の手、上がってますよぉ・・・気になりますなぁ。

箕浦軍メンバーB あ、ほんまや・・・いっちょ、にちょう、さんちょう、よんちょう・・・けっこう燃えてるなぁ・・・煙の下に旗の先っぽ、よぉけ、見えたる。

箕浦軍メンバーC ひょっとして、敵?

箕浦次郎左衛門 それはないやろぉ。敵が川を越えとるはず、ないやん。

箕浦軍メンバーD 味方の連中らの、火の不始末原因の火事ですやろ。

箕浦次郎左衛門 そやそや、きっとそやでぇ。

箕浦軍メンバー一同 ま、そんなとこですやろぉ。

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夜が明けて、一同ビックリ、

箕浦軍メンバーA エェーッ! わしらの背後そこら中、敵の軍勢だらけやん!

箕浦軍メンバーB あぁ、ほんに・・・いっちょ、にちょう、さんちょう、よんちょう・・・じゅういち、じゅうに、じゅうさん・・・うわぁ。

箕浦軍メンバーC どこの連中らや、旗の紋はぁ?

箕浦軍メンバーD うわぁ! 菊水(きくすい)やぁ!

箕浦軍メンバー一同 菊水やぁ! 楠やぁ! 来よったぁ!

箕浦次郎左衛門 ムムム! さては、夜の間に、川渡ってしまいよったか! あかん、平場の懸け合いは不利や、はよ、城へこもれ、城、かためて戦うんじゃ!

箕浦軍メンバー一同 ウワワワ・・・。

彼らは、浄光寺(じょうこうじ:大阪府。豊中市)の要害へ、退却していった。

しかし、そこも既に、和田&楠サイドの手中のものとなってしまっているようで、勝ちドキの声が、浄光寺の中に響いている。

ここにきて、中白一揆武士団の300余騎が、いつの間にか、一騎残らず、箕浦軍中から消えていた。彼らは在地の国人ゆえに、地理をよく分かっており、逃走するに何の困難も無かったのである。

今となっては、箕浦のもとに留まっているのは、守護・佐々木道誉の家来たちだけ、わずか50余騎。覚悟定めきった様子で、2箇所に集合した。

2つのグループは一つに合流しようとしたが、すでに、和田&楠の大軍が、両者の間を隔ててしまっているので、それもかなわない。

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箕浦次郎左衛門は、東の方へ逃走していった。

左右は深田、その中に、細い道が続いているのみ。

和田&楠軍は、彼らの退路を断ち切り、殲滅(せんめつ)してしまわんと、行くてに立ち塞がり、道を遮断し、彼らを包囲する事、たびたびであった。

次郎左衛門たちは、懸け破っては通り、取って返しては戦い続けた。

まず、河原林弾正左衛門が討たれた。

これを見て、芥川右馬允はすげなく、次郎左衛門と分かれ、一人、落ち行かんとした。

箕浦次郎左衛門 ほんまに、おまえっちゅう人間はなぁ・・・日頃言うとる事と、戦場での行動と、まるっきり、食い違ぉとるわのぉ。

芥川右馬允 ・・・。

右馬允は馬を返して、再び、次郎左衛門と合流した。

次郎左衛門は、右馬允に道案内をさせながら、数箇所の敵軍の中をかいくぐり、ひたすら、京都を目指して進んだ。

杭瀬に陣取っていた方の箕浦軍メンバーらは、孤立状態となってしまい、逃げ場を失って呆然自失状態になった。

木村泰則 あのなぁ、こんな事はみんな、百も承知の事やろけど・・・戦の場における兵の鉄則っちゅうもんが、あるわなぁ、「戦、難儀なる時、死なんとすれば生き、生きんとすれば死ぬる」。

箕浦軍メンバー一同 ・・・。

木村泰則 今、この局面でのベストの方法は、敵がいよらへん方へ退く事やないぞ。敵が大勢ひかえとる所へ、懸け入って戦うんや、何度でも何度でもな。

木村泰則 そうやって、もし、討たれたら・・・そらもう、しかたないわなぁ、武士やねんから・・・討死にしてモトモトっちゅうもんや・・・で、もし、討たれへんかったら? その時は、そのまま懸け抜けて、西の方へ落ちるんや。敵もさすがに、命捨ててまでも、そうそう、深追いはしてこんやろうて。

箕浦軍メンバー一同 ・・・。

木村泰則 と、まぁ、おれの見解は、そんなとこや。「木村の言いよる事、もっともや」と思うもん、おれの後に、続いてこいやぁ!

言うが早いか、泰則は、浄光寺の前にひかえた100騎ほどの敵軍の方へ、馬を返して歩ませていった。

これを見た相手側は、「きっと、降伏してくるのだろう」と、少し油断した。

徒歩の石津行泰(いしづゆきやす)に命じて、矢を2、3本射させ、和田&楠軍の馬の足が少しもつれたのを見澄まし、木村泰則ら3人は、ワァっとおめいて、突っ込んでいった。

相手の100騎は、とっさに左右に分かれて靡き、あえて、泰則らに、立ち向かおうとはしない。ただ、前面に射手を進め、矢を射るのみである。

箕浦彌次郎が、矢に当たって死んだ。

箕浦四郎左衛門が、重傷を負って、田んぼの中に倒れた。

塩治六郎左衛門と木村泰則も、馬の首と胸を矢で射られてしまい、深田の畔に下り立った。

二人とも、もはやこれまでか、と思われたが、ちょうどそこに、主を失った離れ馬がやってきた。

泰則は、それに飛び乗った。

泰則は、馬上から徒歩の六郎左衛門の手を引き、二人そろって、尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)へ落ちのびた。

和田&楠サイド・メンバーが、後を追ってはこなかったので、木村泰則と塩治六郎左衛門は、とある道場の中に一夜潜伏してすごし、翌日の夜、京都めざして逃走した。

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かくして、和田正武と楠正儀は、たった1回の戦いで、摂津から幕府側勢力を追い落とし、勝ちに乗った。

しかし、これで摂津国中に、幕府側勢力が皆無になったわけではない。

和田正武 赤松光範(あかまつみつのり)と範実(のりざね)の兄弟が、目ざわりやわなぁ。

楠正儀 兵庫(ひょうご:兵庫県・神戸市・兵庫区)の北の多々部城(たたべじょう:神戸市・中央区)にたてこもって、兵庫、湊川(みなとがわ:神戸市・中央区)一帯を押さえとるっちゅう情報、入ってきてるでぇ。

和田正武 あいつら、早いとこ、しまつしてまわんとな。

楠正儀 よぉし、行くかぁ。

9月16日、石塔頼房(いしとうよりふさ)、和田正武、楠正儀は、3,000余騎を率いて、兵庫、湊川へ押し寄せ、家々を、一軒残らず焼き払った。

この時、赤松兄弟は、多々部と山路(やまじ:神戸市・中央区)の2城にこもり、敵がかかってきたら篭城戦でしのごうと、待ち構えていた。

しかし、楠正儀は何を思ったのであろうか、すぐに、兵庫から兵を退いてしまったので、赤松側も、あえて出会うに及ばず、野伏を少々、城から出して遠矢を射たくらいで、大した戦も無いままに、終わった。

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9月晦日に、京都朝廷は改元を行い、年号を、「貞治(じょうじ)」と改めた(注1)。

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(訳者注1)貞治元年=1362。この改元が行われたのは、康安2年9月23日である。
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これは、「改元でも行えば、その効力でもって、吉野朝側の蜂起も収まってくれるかも」との、諸卿申し合わせの結果であった。

実際に、改元の効験あらたかであったのだろうか、「京都より、幕府執事・斯波高経(しばたかつね:注2)、大軍を率いて摂津に向かう」との情報に、和田正武と楠正儀は、尼崎と西宮(にしのみや:兵庫県・西宮市)の陣をたたみ、河内国(かわちこく:大阪府東部)へ引き上げた。

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(訳者注2)師守記によれば、大将として摂津に向かったのは、義種(高経の子)であるようだ。
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和田&楠軍・退却の情報をキャッチして、丹波(たんば:京都府中部+兵庫県東部)の和久(わく:京都府・福知山市)に駐留していた山名時氏(やまなときうじ)も、因幡(いなば:鳥取県東部)へ退却してしまった。

今年、日本中同時一斉に戦乱状態に突入、吉野朝廷側、ついに愁眉(しゅうび)を開くかと思われたが、程無く、どこもかもが、静穏になってしまった。

「吉野朝側の天皇の運、未だ至らず」と、言ってしまえばそれまでだが、やはり、このような結果になってしまった最大の要因は、細川清氏が軽率な戦の末に、言うかいもない戦死をしてしまった事にある。

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