太平記 現代語訳 37-4 後光厳天皇、京都へ帰還

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝廷・後光厳(ごこうごん)天皇は、未だに近江の武佐寺(むさでら:滋賀県・近江八幡市)に滞在、しきりに気をもんでいた。

後光厳天皇 (内心)京都の方の戦況、いったい、どないなってるんやろかいなぁ・・・ただじっと待つより他ないっちゅうのんは、精神衛生上、ほんま、よぉないでぇ・・・うーん・・・。

京都朝年号・康安(こうあん)元年(1361)12月27日、待ちに待った足利義詮(あしかがよしあきら)からの早馬がやってきた。

転奏役・公卿A 陛下! 朗報ですわ!

後光厳天皇 うん!

転奏役・公卿A 将軍から、以下のメッセージが、

 「何の苦も無く、賊徒たちを京都から追い払う事に成功いたしました。つきましては、急ぎ、御所へご帰還下さいませ。」

京都朝廷・閣僚B 言うてきたかいな!

京都朝廷・閣僚C やったぁ!(パチパチパチ・・・拍手)

京都朝廷・閣僚メンバー一同 やったぁ!(パチパチパチ・・・拍手)

後光厳天皇 うん! うん! うん!(満面に笑み)

この情報に、天皇はじめ、お伴する公家、奴婢下僕に至るまで、喜びあう事、この上なしである。

翌朝さっそく、天皇は随行メンバーらと共に武佐寺を発ち、まずは、比叡山(ひえいざん)東山麓の坂本(さかもと:滋賀県。大津市)へ到着、そこで年を越した。

 さざなみ寄せる 志賀浦(しがのうら)
 荒れて久しい 跡といえども
 昔ながらの 花園は
 春の来るのを 待ちこがれ(注1)

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(訳者注1)原文は、「佐々波よする志賀の浦、荒て久しき跡なれど、昔ながらの花園は、今年を春と待顔なり」。

「さざ波」は、琵琶湖(びわこ)の波である。

これに類似する和歌がある、平家物語にもある平忠度の詠んだ歌、

 さざ浪や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
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京都朝廷・関係緒卿一同 (内心)もうここまで帰ってきたら、都へ帰ったも同然、ここは首都圏やわいな!

とは思いながらも、慣れぬ旅寝のつらさに、緒卿はみな口々に、

京都朝廷・関係緒卿一同 一日も早い、陛下の首都ご帰還を!

しかし、

京都朝廷・閣僚B そないに、簡単に行くかいなぁ。

京都朝廷・閣僚C そうやでぇ。御所は荒れ放題やもんなぁ。

京都朝廷・閣僚D そうですわなぁ・・・元からただでさえ、ろくに諸官庁もなにも整うてへん、里内裏(さとだいり:注2)でしたもんねぇ。

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(訳者注2)仮設御所。后の実家等に天皇が住み、そこを御所とした。
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京都朝廷・閣僚E あの、昨年12月8日の、京都脱出の大騒動で、垣根も格子戸も、破れ失せてもうてますわいな。

京都朝廷・閣僚B 御簾(みす)や畳まで、無(の)ぉなってしもてる、いうやん?

京都朝廷・閣僚E そうだす、そやから、まずは、修理せんと・・・ご帰還は、それからですわなぁ。

というわけで、そのまま、春の終わり頃まで、坂本に滞在することになった。

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昨今は、どのような細かい事であっても、朝廷の意向だけでもって、決めるわけにはいかない・・・万事、足利幕府におうかがいを立て、幕府から了承されてからでないと、事が運ばない。

朝廷はさっそく、里内裏修理の件を、足利幕府に打診してみた。

幕府からは、「オーライ(All Wright)、了解です」との返答が、もたらされた。

ところが、そこから先へ、一向に話が進んでいかない・・・ただ、時間ばかりが過ぎていく。

京都朝廷・閣僚B そうそう、いつまでも、京都の外でのお住い、陛下にしていただくわけには、いかんやろう。

京都朝廷・閣僚メンバー一同 そうですねぇ。

というわけで、3月13日、後光厳天皇は、西園寺実俊(さいおんじさねとし)の旧宅・北山殿(きたやまどの)へ、入った。

ここは、后妃らが遊宴を催したり、先の天皇たちが訪れた場所、かつては、楼閣(ろうかく)玉を鏤(ちりば)め、客殿は雲に聳(そびえ)る、まことに美麗な所であった。

しかし、昔の面影、今やいずこ、きらびやかに彩色された妙音堂も、瑠璃(るり)を展(の)べた法水院も、年々荒れ果てる一方で、以前とは全く、様変わりしてしまっている。

岩下(がんか)の松風は、まるで雨の音のよう、門前の柳は、乱雑に細枝を伸ばし放題、かの中国・東晋(とうしん)王朝時代の陶淵明(とうえんめい)の旧跡、あるいは、唐王朝時代の鄭薫(ていくん)の幽棲(ゆうせい)場所もかくやと思わせるほど、さびしい限りの状態である。

春の間ずっとここで住んでいるうちに、諸役所の修理も、なんとかかっこうだけはつき、4月19日に、もとの里内裏へ、天皇は帰還した。

随行の公家達の様子に、さしたる美麗さが見られなかったのにひきかえ、辻々を警護する護衛の武士たちは皆、周囲に輝きを発するかのように、感じられた。

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細川清氏(ほそかわきようじ)の吉野朝サイドへの転身は、吉野朝廷にとっては、まことに歓迎すべき出来事であったといえよう。

後村上天皇(ごむらかみてんのう) 細川清氏は、近年、幕府・執事(しつじ)職の地位にあった人間や。彼に従ぉてる武士は、それこそ幾千万人っちゅう、ものすごい数やと、聞いてるが。

吉野朝廷・閣僚F リーダーとしての統率力に優れてるっちゅうだけや、おまへんわなぁ。彼本人もまた、武芸の達人、無双の勇士やとの、もっぱらの評判ですわ。

吉野朝廷・閣僚G そのような人物が、わがサイドへ降参してきたっちゅう事はですな、これはひとえに、陛下の帝徳が天の意にかのぉ(叶)てるっちゅう事の、何よりの証拠ですやん。

吉野朝廷・閣僚H 細川清氏の武徳をもってするならば、天下平定、新たなる時代の展望が、確実に開けてこようというものですよ。

このように、天皇はじめ諸卿こぞって喜び、軍門に下ってきた清氏に対してそく、大将の位を与えたのであった。

しかし、その期待も空しく、清氏への厚遇は、全く何の実効をも、もたらさなかった。

去年の冬の、あの吉野朝勢こぞっての京都進出、足利義詮を首都から追い落とし、暫くの間、勢威をふるったあの時においてさえも、清氏のもとに新たに馳せ参じてくる勢力は、皆無であった。

それから程無く、吉野朝勢は京都から撤退。清氏は河内国(かわちこく:大阪府東部)に居を構えたが、旧交を慕ってたずねて来る者は、ほとんどいなかった。

まさにかの、古代中国・前漢(ぜんかん)時代の李(り)将軍(李広)の、失脚後の逸話そのものの状態である。(注3)

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(訳者注3)司馬遷著の「史記・李将軍列伝」に以下のような記述がある。([史記 下 司馬遷 著 野口定男 訳 平凡社]より引用。【】内の記述部分は、訳者が補ったものである。)

「【李広は】ある夜、一騎を従えて外出し、人々と野外で酒を飲み、帰途、覇陵(陝西省)の亭にさしかかると、覇陵の尉(盗賊係の役人)が酔っていて、広【(李広)】をどなりつけて止めた。広の従者が、「この方は、もとの李将軍だ」と言ったが、尉は、「現職の将軍でさえ、夜間の通行はできない。まして、もとの将軍などなおさらのことだ」と言って、広を亭に留置した。」
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細川清氏 (内心)あぁ、もう、どうしようもないなぁ・・・。

細川清氏 (内心)よぉし、四国へ渡ろう。あちらには長年、わが細川家に仕えてきた連中らが、おおぜいいるからな。おれのもとに、参集してきてくれるかも。

1月14日、清氏らは、小舟17隻に分乗して海を越え、阿波国(あわこく:徳島県)へ移動した。

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