太平記 現代語訳 31-6 吉野朝廷、八幡より撤退
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)攻防の戦いが3月15日に始まってから、はやすでに50余日が経過、山中にたてこもる吉野朝(よしのちょう)側は、ついに食料が底をついてしまった。救援軍がやってきてくれそうな気配も全く感じられない。
「このままでは、どうなることやら」といったようなササヤキ声が、聞こえ始めた。このような言葉は、あっという間に人間の気持ちを一変させてしまうもの、やがて、山中残らず全員、逃亡の準備以外に余念無しの状態になってしまった。
そしてついに、防衛陣の一角が崩壊した。
吉野朝が頼りとするメンバー、伊勢(いせ:三重県中部)の矢野下野守(やのしもつけのかみ)、熊野(くまの:和歌山県・熊野地方)の湯川荘司(ゆかわのしょうじ)ら、合計300余騎が、東西の陣を放棄して、足利側へ降伏してしまったのである。
吉野朝閣僚A こらぁ、えらいことになってしもたわいな。
吉野朝閣僚B ついに、裏切り者が出てしまいましたなぁ。
吉野朝閣僚C 極めて、やばい事態ですよ。あの両人、わが陣営の事、隅から隅まで知りつくしてまっから。あいつらの手引きで、敵が攻め寄せてきよったら、もうとても、逃げるに逃げれんように、なってしまいますやんか。
吉野朝閣僚D 早いとこ、今夜にでも、陛下をお逃がし申し上げんと!
吉野朝閣僚A 事は急を要する! すぐに取りかかるんや!
というわけで、5月11日の夜半、後村上天皇(ごむらかみてんのう)を馬に乗せ、その前後を武士たちが護衛し、大和(やまと:奈良県)方面へ脱出した。
数万の足利軍は、天皇を逃すまじと、前を塞ぎ、後に追いすがって、襲いかかってくる。
義を重んじ、わが命を軽んずる吉野朝軍メンバーたちは、返し合わせては防ぎ、打ち破っては前進。傷を受けては腹を切り、踏み留まって討死にする者、その数300人に及んだ。
その乱戦のさ中に、石見宮皇子(いわみのみやおうじ)は落命、四条隆資(しじょうたかすけ)、一条内嗣(いちじょううちつぐ)、三条雅賢(さんじょうまさかた)が討死にした。
護衛の武士たちの中に紛れ込ませんがために、天皇は山本判官(やまもとはんがん)が奉った黄糸の鎧を着し、栗毛(くりげ)色の馬に乗っていた。それを見つけた一宮有種(いちのみやありたね)が、天皇に追いすがっていわく、
一宮有種 おい、そこを行く男、止まれ! おまえは、軍の一角を守るしかるべき大将と見たぞ。そんな立派な男が、ザマもなく敵に追い立てられ、ただの一度も返し合わせる事も無く、ただノウノウと逃げて行くだけでいいのかい!
このように呼ばわりながら、有種は、天皇まで弓3本ほどの至近距離にまで迫った。
法性寺康長(ほうしょうじやすなが)は、後ろを振り返り、有種をキッと睨み付けていわく、
法性寺康長 なんやとぉ・・・言わしといたら、えぇ気になりおって・・・ほんまに、憎たらしいやっちゃ! よぉし、おまえに、わしのウデ見せたろかい。
康長は、馬から飛び降り、4尺8寸の太刀でもって、有種の兜の鉢を、割れよ砕けよとばかりに猛打。さしものツワモノの有種も、あまりに激しい打撃に尻餅をついてしまい、目がくらんで呆然自失(ぼうぜんじしつ)状態になってしまった。暫(しば)し、心を静めようと目を塞いでいるその間に、後村上天皇は、はるか彼方に逃走。
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木津川(きづがわ)べりを西方向に馬を早めていくその前に、備前(びぜん:岡山県東部)の松田(まつだ)と備後(びんご:広島県東部)の宮(みや)が率いる2、300騎が立ちふさがった。
十方から射かけられる矢は雨のごとく、「もはや、とても遁(のが)れるすべなし」と思われたが、これも天地神明(てんちしんめい)のご加護であろうか、天皇の鎧には、袖と草ずりに2本矢が当たっただけ、それも鎧を貫通せず、であった。
法性寺康長はたった一人で、常に天皇の側を離れず、守った。後方から相手がかかってくれば引き返して追い散らし、相手が前を遮ればそこを懸け破って、天皇の前に血路を切り開いていく。
やがて、どこからともなく、援軍が現われた。その数は100騎ほど、全員、新田家の中黒(なかぐろ)の笠標(かさじるし)を着けている。彼らは、天皇の前後を守りながら、接近してくる足利軍を右に左にと追い散らす。
ようやく、天皇は安全な場所に到達した。それと同時に、謎の援軍は、かき消すように姿を消してしまった。
かくして、後村上天皇は、身体つつがなく、河内国(かわちこく:大阪府東部)の東条(とうじょう:大阪府・富田林市)へ逃れることができた。
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三種神器(さんしゅのじんき)の一つ、ヤタノカガミも、無事であった。
最初にヤタノカガミを持っていた者は、それを、田んぼの中に捨ててしまった。その場にいあわせた名和長重(なわながしげ)が、すぐに、ヤタノカガミを拾い、鎧を脱ぎ捨てて、カガミを自らの背中にかつぎ、必死に走った。
後から追いすがってくる足利軍は、長重を狙って、蒔(ま)いて捨てるように、矢を浴びせかけてくる。
矢 ビュンビュンビュンビュン・・・ポッポッポッポッ・・・。
ヤタノカガミが入っている櫃(ひつ)の蓋(ふた)に矢が当たる音は、まるで板屋を過ぎるにわか雨のようである。しかし、名和長重の身体に、矢は一本も当たらず、彼はようやくの思いで、賀名生(あのう:奈良県・五條市)の御所にたどりついた。
名和長重 いやぁ、なんとか、持ってはこれましたけど・・・矢ぁバンバン当てられたからねぇ・・・きっと、ムチャクチャになってしまってるだわ。あぁ、情けなや。
ところが、担当の者が、櫃を点検してみてびっくり。矢の跡は13箇所もあったのに、いずれも貫通していない。実に薄い桧(ひのき)の板製なのに、それを射とおす矢が一本も無かったとは、まことに不思議な事である。
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ここで、話の筋は少し時間を遡(さかのぼ)る事になるが・・・。
京都攻めの前、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)に滞在中のとある日、後村上天皇は、児島高徳(こじまたかのり:注1)を呼び寄せた。
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(訳者注1)原文では、「児島三郎入道志純」となっている。
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後村上天皇 おぉ、高徳、よぉ来た、よぉ来た。
児島高徳 ハハァッ!(平伏)
後村上天皇 今日、おまえを呼び寄せたんは、他でもない、おまえに、重大な任務を果たしてもらおう、思うてな。
児島高徳 ハハッ! なんなりと、お申しつけくださいませ!
後村上天皇 うん・・・あのな、これから急ぎ、関東と北陸へ向かえ。現地に着いたらな、新田義貞(にったよしさだ)の甥や息子らと接触して、朝廷のみ旗の下に、挙兵させよ。
児島高徳 はい、分かりました!
後村上天皇 それから更にな、小山(おやま)、宇都宮(うつのみや)といった、こっちサイドに傾きそうな有力武士にも接触してな、天下の大功を即時に致すように、とにかく智謀(ちぼう)を回(めぐ)らしてみい。
児島高徳 ハハァッ!(平伏)
高徳は、夜を日に継いで、関東へ急いだ。
しかし、関東では、既に戦の決着がついてしまっており、新田義興(にったよしおき)、脇屋義治(わきやよしはる)は、河村(かわむら)氏の城にたてこもり、新田義宗(よしむね)は、越後(えちご:新潟県)に引きこもってしまっていた。
高徳は、関東や北陸を巡り、新田勢や他の有力武士たちに、説いて回った。
児島高徳 天皇陛下は今、大敵に包囲されておられる。陛下を守っとるもんらも、もう力つきかけてしもとるわ。万一、陛下が足利軍の囚われの身になってしまわれたら、この先、わしらは、いったいどなたの為に戦ぉてったらえぇんじゃぁ?
児島高徳 人間、なんちゅうても、義の心を中心に生きて行くことが、カンジンじゃ。義の前には、命を軽んずるべきじゃ。
彼の説得工作は功を奏し、小山五郎(おやまごろう)、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)は、「これからは、陛下の御命に従う」と回答、関東での吉野朝側勢力の一大反攻作戦に協力する事を約束した。
「新田義興、脇屋義治は、なおも関東に止まって、足利尊氏(あしかがたかうじ)との戦いを続行、新田義宗、桃井直常(もものいなおつね)、上杉憲顕(うえすぎのりあき)、吉良満貞(きらみつさだ)、石塔義房(いしどうよしふさ)は、東山道(とうさんどう)、東海道(とうかいどう)、北陸道(ほくりくどう)の勢力を率いて、2手に分かれて京都へ上り、八幡の後詰めをして、足利軍を千里の外に退けよう」と、諸方、手はずを定め、まずは、高徳が先行して京都へ向かった。
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4月27日、新田義宗は、7,000余騎を率いて、越後の妻有(つまり:新潟県・十日町市-新潟県・中魚沼郡・津南町)を出発し、放生津(ほうじょうづ:富山県・新湊市)に到着。そこへ、桃井直常が率いる3,000余騎が、加わってきた。
5月11日(注2)、新田・桃井連合軍1万余騎の先陣は、能登(のと:石川県北部)を目指して出発した。
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(訳者注2)原文には、「九月十一日」とあるのだが、どう考えても不合理なので(いったいなんで、5か月も長滞在する?)、訳者の判断で、「5月11日」に変えた。
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一方、吉良満貞、石塔義房は、4月27日に駿河(するが:静岡県中部)を出発。道中、方々からの軍勢を吸収しながら、6,000余騎の勢力でもって、5月11日、その先陣が、美濃(みの:岐阜県南部)の垂井(たるい:岐阜県・不破郡・垂井町)、赤坂(あかさか:岐阜県・大垣市)に到着。八幡にたてこもる吉野朝側勢力を元気づけようと、大々的に篝火(かがりび)を燃やした。
信濃(しなの:長野県)に滞在の宗良親王(むねよししんのう)も、神家、滋野(しげの)、友野(ともの)、上杉(うえすぎ)、仁科(にしな)、禰津(ねづ)等の軍勢を率いて、同日、信濃を出発。
四国の伊予(いよ:愛媛県)からは、土居(どい)、得能(とくのう)が、軍船700余隻をそろえ、瀬戸内海上を京都へ攻め上る。
このように、八幡山にこもっている吉野朝側勢力が待ちに待っていた救援軍が、東山、北陸、四国、九州のそれぞれの根拠地を一斉に出発し、京都へ向かっていたのである。
京都からのそれぞれの距離によって、その到着に5日や3日ほどの差は出るにしても、「吉野朝側救援軍の大勢力、京都に接近中!」との情報が、八幡山周辺に伝わってさえいたならば、そこを包囲している足利軍もおそれをなして、みな退散してしまっていたであろうに・・・「もうあと、4、5日待てば、形成は一気に逆転」という、まさにこのタイミングに、後村上天皇は八幡から逃走してしまったのであった。
「天皇はもはや、八幡にはおられない」との情報に、吉野朝側救援軍勢力メンバーは、みなガックリ、なすすべもなく、本拠地へ引き返していった。
これもただただ、「天運の時至らず、神のご思慮によって起った事」と、言ってしまえばそれだけのことだが・・・まぁそれにしても、何事も裏目裏目と出てしまう吉野朝側の運の程、これで思い知られよう、というものである。
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