太平記 現代語訳 18-2 高野山と根来山の確執
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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(訳者注1)ここに出てくる地名は、最後の「如意が嶽」以外は、滋賀県・大津市内にある。「園城寺の焼け跡」については、15-3を参照。「如意が嶽」は山腹に、送り火行事の「大文字」がある山。
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声A おぉい! 大ニュースやぞぉ! 先帝陛下がなぁ、花山院(かざんいん)脱出に成功され、吉野(よしの)に潜行されたそうやでぇ!
声B エーッ ほんまかいなぁ!
声C よぉし!
かくして、近隣の軍勢はもちろんのこと、方々の寺や神社の衆徒や神官に至るまで、天皇のもとへ馳せ参じるもあり、あるいは軍資金や資材を送る者もあり、あるいは祈祷を始める所もあり。
そのような中、根来寺(ねごろじ:和歌山県・岩出市)からは、一人の衆徒も吉野へ来なかった。
これはなにも、根来寺が足利側に味方して天皇に敵意を含んでいたからではない。「後醍醐天皇は高野山・金剛峯寺(こうやさん・こんごうぶじ)をあつく敬われ、方々の領地を寄付され、あそこの寺に対して、様々に願を懸けておられる」と聞き、それを妬んで不愉快に思ったからである。
そもそも仏教徒たるや、柔和をもって宗(むね)とし、忍辱(にんにく)をもって衣(ころも)とするのが本来のあり方。なのに、いったい何故、根来と高野との間に、これほどまでの確執が生じてしまったのか、その詳細、以下に述べる通りである。
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かつて、高野山の伝法院(でんぽういん)に、覚鑁(かくばん:注2)という名の上人(しょうにん)がいた。
覚鑁は仏門に入って以来、一貫して修行に怠り無く、師の徳化を受けながら、心中深く真理を見極める日々を送り続けた。久しい年月を、このような修行の中に過ごしていったのであったが、
覚鑁 (内心)あぁ、あかんわ・・・「生きながらにして、人間は仏になることができるんや」なんてことを、他人には説きながら、この自分は、いったいなんやねん、未だに煩悩の塊やないかいな・・・あぁ、まだまだ修行が足らん。
そこで覚鑁は、求聞持法(くもんじほう:注3)を7回、修した。しかし、
覚鑁 (内心)あぁ、あかん・・・三品成就(さんぼんじょうじゅ:注4)のうちの、どの段階にも、まだ達せてない。
そこで覚鑁は、覚洞院(かくとういん)の勝賢僧正(しょうけんそうじょう)の門下に入り、僧正から印契(いんぎょう)一つ、真言(しんごん)一つを授けられ、百日間の修行に入った。
百日の後、修行は見事に成就。覚鑁は、自然智(じねんち:注5)を得て、浅・略・深の三段階の教義の全てにわたって、人から習わずして、その最深レベルまでを極め、人から聞かずして、悟りを開いた。
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(訳者注2)新義真言宗の開祖。肥前の人。平将門の後裔で正覚坊と号した。14歳の時、京に上りて仁和寺の寛助に従い、奈良に遊んでは唯識・三論を学び性相学を極め、永久元年(1113)高野山に上って明寂に師事し、大治5年(1130)高野山に伝法院を建て、その翌年、大伝法院を建立した。(仏教辞典(大文館書店刊)より)
(訳者注3)虚空蔵求聞持法ともいう。虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を念じて記憶力の強固ならんことを求むる御修法。(仏教辞典(大文館書店刊)より)
(訳者注4)三品悉地(さんぼんしつじ)に同じ。三品悉地=三密(身・口・意)の行業よく果たし得て、妙果を得る三類。上品(じょうぼん)悉地(密厳国に生る)・中品(ちゅうぼん)悉地(十方浄土に生る、西方極楽をも含む):下品(げぼん)悉地(諸天・修羅宮に生る)をいう。(仏教辞典(大文館書店刊)より)
(訳者注5)誰に教わるともなく、自然に悟りが開けた状態。
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これを見てさっそく、我慢(がまん:注6)や邪慢(じゃまん:注7)の天魔波旬(てんまはじゅん)らが蠢動(しゅんどう)しはじめた。
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(訳者注6)ātmamāna 我を恃(たの)んで自ら高ぶり驕るをいふ。(仏教辞典(大文館書店刊)より)
(訳者注7)七慢の中の一。
七慢(しちまん)とは:
慢心の七種。
1 慢。劣者に対して優越感を懐き、高ぶること。
2 過慢。同格者に対して優越感を懐き、高ぶること。
3 慢過慢。自己より勝れたる者に対し優越感を懐き、高ぶること。
4 我慢。自己の能ある所を恃み他を凌ぐこと。
5 増上慢。自己を価値以上に見ること。
6 卑劣慢(卑下慢)。謙遜して居ながら其事を一の自慢とすること。
7 邪慢。無徳者が有徳者の如く自己を思ひ誤り三宝を軽んじ高ぶること。
(仏教辞典(大文館書店刊)より)
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我慢天魔 ウーン・・・あの覚鑁めを、なんとかして、シマツせねばなるまいて。
邪慢天魔 あやつの心中に入り込み、かの不退転の修行と学問を妨害すべし。
しかし、覚鑁の信心力は極めて堅固、天魔たちのつけいる隙はどこにもなかった。
ある日、覚鑁は浴室に入って、オデキを湯気で蒸していた。
覚鑁 (内心)あぁ、気持ちえぇ・・・もうちょっと、ここにいよか。
我慢天魔 ・・・。
邪慢天魔 ・・・。
覚鑁 (内心)さ、そろそろ、こっから出て、修行に戻らんと・・・あぁ、それにしても気持ちえぇなぁ・・・もうちょっと、もうちょっとだけ、ここにいよ。
我慢天魔 ムムム、覚鑁の心のバリアーフィールドに、些少の乱流、生じおり。
邪慢天魔 よし、今じゃ、ものども、パワードリルの出力、全開!
邪慢天魔の部下ら一同 御意! ウィーン、ウィーン、ウィーン、ウィーン・・・。
覚鑁 (内心)さ、もう出るぞ、修行、修行!・・・あぁ、それにしても気持ちがえぇ・・・。もうちょっと、もうちょっと・・・。
我慢天魔 覚鑁! バリアーフィールド表層に、特異点生じたり!
邪慢天魔 そこじゃ、そこからあやつの心中に、[争源素(注8)]を注入!
邪慢天魔の部下ら一同 キョイ! シュバシュバシュバシュバ・・・。
バリアーフィールド キィーン!
争源素 ブシュ!
我慢天魔 やったぞ!
邪慢天魔 [争源素]、確かに、入りたり!
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(訳者注8)原文では、「造作魔(ぞうさま)の心」。
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その日以来、覚鑁の心中には、高野山に伝法院を建立し、自分の一派を盛大にしていこうという思いが、ムクムクと湧き起こっていった。
覚鑁は、鳥羽法皇(とばほうおう:注9)に「伝法院建立の儀」を願い出て許可を得た後、堂舎や僧坊を建てた。
伝法院が完成するやいなや、覚鑁はたちまちその中にこもって「永遠なる禅定」に入り、56億7千万年後の弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出生の暁をひたすら待ち続けた。
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(訳者注9)1123年に崇徳天皇に譲位後、上皇となり、さらに出家して法皇となった。
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これを聞いた高野山の衆徒らは、
衆徒D あこの伝法院とか言うお堂のお坊さん、あれ、いったいなんやねん!
衆徒E あぁ、覚鑁かいな。ほんまになぁ、いったい自分を何さまやと思うとるんやろ。
衆徒F あれはな、きっと我慢の心に埋もれてしもぉとるんやで。なんせ、弘法大師(こうぼうだいし)様の御入定(ごにゅうじょう:注10)と同じような事をするっちゅうんやから。
衆徒G ほんまに、けしからん!
衆徒H あんな振舞、このまま放置しとけへん! 伝法院なんか、破壊してしまおうや!
衆徒一同 賛成!
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(訳者注10)空海(弘法大師)は高野山奥の院にこもり、禅定の中に遷化されたと、伝えられている。
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衆徒らは伝法院へ押し寄せ、堂舎を焼き払い、御廟(ごびょう:注11)の壁を破って中に入った。
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(訳者注11)ここは原文のままとした。おそらく、覚鑁がこもっている堂を指すのであろう。そこにこもったまま覚鑁が遷化すれば、そこがそく、霊廟となるから、「御廟」としたのであろう。
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衆徒D あれ、おかしいなぁ。覚鑁、どこにもいいひんやん。
衆徒E この室の中には、カルラ炎の光背の中に座すあの不動明王(ふどうみょうおう)像しか、ないなぁ。
ある若い衆徒が走りより、その像を引き倒そうとした。しかし、その身は盤石のごとく、仁王の大力をもってしても動かせそうになく、金剛杵(こんごうしょ)をもってしても砕きがたいように見えた。
衆徒らはこれにも恐れず、
衆徒F いやはや、もったいつけよってからに、覚鑁め! よりにもよって、お不動様に化けたかぁ。
衆徒G そこらの古ダヌキや古ギツネでも、これくらいには化けれるでぇ。
衆徒H よしよし、これがほんまもんの不動明王なんか、それとも、覚鑁が化けよった不動明王なんか、今から識別してみよやないかい。ためしに、石で打って見ようや。
衆徒全員 よっしゃぁ!
彼らは、大きな石を拾って、十方から不動明王像に向かって投げつけた。しかし、投げられた石からは大日如来の真言が発せられ、全く不動明王像に当たらず、途中で微塵に砕けて行くではないか。
この時、覚鑁の心中に、わずかな驕慢の心が起った。
覚鑁 (内心)ははは、君たちが投げる石など、私の体に当たるはずが無い。
と、その時、
石 ヒューーーーン、ビチッ!
覚鑁 (内心)アイタ!
衆徒H ほれ、見てみい、不動明王の額に、血が滲み出できよったぞ。
衆徒G ワーイワーイ、ざまぁ見ろ!
衆徒全員 ウワハハハハ・・・。
これで気がすんだ衆徒たちは、それぞれの房へ帰っていった。
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その後、覚鑁の門徒500坊は、無念やるかた無く、ついに、伝法院の御廟を根来へ移し、そこに真言密教の道場を建立した。
その時の恨みが残っているが故に、高野と根来の両寺の間には、ややもすると確執の心が生じるようになってしまったのである。
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