太平記 現代語訳 11-1 北条高時の子・邦時のその後

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田義貞が鎌倉を攻略して後、その威は周囲に振るい、関東八か国の有力武士や身分の高い者たちは残らず、彼に対して、手を束(つか)ね膝を屈(かが)むばかりである。

長年、源氏の側につき従い、その忠義を頼みにされてきた人々でさえこの有様である。

ましてや、これまでの北条氏よりの恩顧に順(したが)い、今回の戦で源氏側勢力と敵対することになった者たちは、生きるかいもなき命をただひたすら繋ぐために、汲汲(きゅうきゅう)としている。何とか縁故を頼って降人となって出て、義貞の馬前の埃を浴びてでも、彼の館の門外の地を清掃してでも、自らの咎を償おうと考えている。

ゆえに、現世の望みを捨てて出家してしまった北条一族の者をも、寺々から引きずり出して、その僧衣を血に染める。あるいは、二夫には決してまみえずと、髪を下ろして尼僧姿になりはてた未亡人を方々から探し出してきては、その貞女の心を失わしめる。

悲しいかな、義を重んじて幕府滅亡と共に死んでいった人々は、修羅道に落ちて永劫の苦しみを受ける。痛ましいかな、恥を忍んでいやしく生きる者らは、たちどころに衰窮の身となり下がり、万人の嘲笑を受ける身となる。

中でも、五大院宗繁(ごだいのむねしげ)は、故・北条高時から極めて厚い恩顧を受けていた人物。しかも、高時の嫡子・邦時(くにとき)は、彼の妹が産んだ子ゆえ、彼にとっては甥である。いずれにしても、二心あらじと深く信頼したのであろう、

北条高時 宗繁、この子をお前に預けおくからな、何としてでも、隠まい通してくれよ。時至れりと見た時にはな、この子を先頭に押し立てて、これから死んで行くおれの恨み晴らすための復讐戦、いっちょやらかしてくれよな!

五大院宗繁 分かりました、おまかせ下さい。

というわけで、宗繁は、邦時を隠まって保護するために、鎌倉合戦の最中に新田側に降服して出た。

それから2、3日たつうちに、北条一族の者らはことごとく滅んでしまい、関東中が新田の命令に服する事となった。さっそく残党狩りが開始され、ここかしこに潜んでいた北条の者らを多数発見、彼らを捕えた者は領地を与えられ、匿った者はたちまちに罰を受ける、というような毎日。

この状況に、宗繁は、

五大院宗繁 (内心)こりゃぁマイッタよなぁ・・・。高時さまにあぁ言われて、あの子を養うために拾ったような、我が命だけどさぁ・・・。

五大院宗繁 (内心)もう運が尽き果てちゃってる子供のために、今ここでわが命を失うよりはだ、邦時の居場所を知ってるぞと、新田側に申し出てだな、あちらサイドに逆らう気持ちが毛頭もない事を表して、領地の一つくらい安堵してもらうってセンが、いいんじゃぁねぇのぉ。

そこである夜、宗繁は、邦時に対していわく、

五大院宗繁 ここに若様がおられる事、どこの誰も知らねぇと思ってたんですがねぇ、いったいどこから漏れちゃったんでしょうか、あの舟田がね、明日ここへ押し寄せてきて、若様を捜索しようとしてるって、たった今、ある人が教えてくれたんです。

北条邦時 エェ!

五大院宗繁 とにかく、今夜のうちに、若様の居場所、変えなきゃ! 夜陰に紛れて急ぎ、伊豆山(いずやま:静岡県・熱海市)の方へ逃げられませ。

北条邦時 ・・・。

五大院宗繁 宗繁も、若様のお供したいんですけどね、一家そろって逃げ出しちゃったら、舟田に感づかれちゃいますでしょ、そうなったら、どこまでも捜索かけられちゃうでしょ。だからね、わざとお伴しないようにしますんでね。

まことしやかな宗繁の言葉に、

北条邦時 そうだよな、もうここには、おれないよね。

5月27日の夜半、邦時は、人目を忍んで鎌倉を脱出した。

昨日までは、天下の主・北条高時の嫡子、ちっとした社寺参拝や方違えの時でさえも、身内や外様の有力武士たちが良馬にくつばみをかませて、500騎、300騎が前後を囲んで護衛して行ったというのに、時の経過と共に転変著しい世の有様、同行するは、太刀を持つ召し使い一人のみ。

宿場の常備馬にさえ乗れずに、破れた草鞋に編み笠をかぶり、方角も分からないままに泣く泣く伊豆山を尋ね、足のまにまに歩み行く、その心中こそ哀れなり。

このようにして宗繁は、この若い人をだまして家から出したのである。

五大院宗繁 (内心)あの子を、おれが討って差し出したんじゃぁ、世間の人から後ろ指さされちまう。長年、北条家に奉公してきたってのに、その義理を忘れて、とかなんとか、言われてな。

五大院宗繁 (内心)だから、新田側の誰か適当なヤツに、あの子を討たせりゃ、いいんだ。そいつと手柄を山分けにして、領地をゲットだぁ。

宗繁は、舟田義昌のもとへ急いだ。

五大院宗繁 北条高時の嫡子のね、邦時の居場所の、詳細な情報を得ましたよぉ!

舟田義昌 ほぉ。

五大院宗繁 他の家の手を借りずにですね、今すぐに彼を討って差し出されたら、きっと、あなたの勲功抜群ってことに。

舟田義昌 ・・・。

五大院宗繁 んでですね、その情報をあなたに教えてあげるかわりにね、私の領地の安堵をして頂けるように、新田殿に、うまくお話ししていただけませんでしょうかねぇ?

舟田義昌 (内心)コイツ・・・ほんと、ワルよのぉ。

舟田義昌 よぉし、おまえの希望通りにしてやろう。

舟田義昌は五大院宗繁とともに、北条邦時が落ち行く道を先回りして、彼を待ち構えた。

自分を待ち構えている敵がいようとは思いも寄らず、5月28日の早暁、邦時は、みすぼらしい姿にて相模川を渡らんと、渡し守を待って岸の上に立った。

五大院宗繁 あれですよ、あれが、邦時ですよ!

舟田の郎等3人は馬から飛び降りて、逃げ出す隙間もなく取り囲み、邦時を生け捕りにした。

急な事ゆえ輿もないので、馬に乗せ、船の縄できつく縛りあげ、中間(ちゅうげん)2人に馬を引かせて白昼、鎌倉へ護送した。

これを見る人、聞く人ことごとく、その哀れさに涙した。

この人は未だ幼い身、生かしておいても別段どうこういう事も無いだろうに、と思われた。しかし何といっても、朝敵・高時の嫡子、そのままにしておくわけには行かない、ということで、翌暁、密かに、首を刎ねられてしまった。

古代中国において、程嬰(ていえい)が、わが子を殺して幼い君主の命に代え、豫譲(よじょう)が、容貌を変じて旧主の恩に報じた、それらの事例にならえ、とまでは言わぬ。

しかしながら、年来仕えてきた主を敵に討たせ、欲に転んで義を忘れる、五大院宗繁の心の程、なんとたぐいまれなる不道の輩であろうかと、見る人ごとに爪弾きして、彼を憎む。

新田義貞も、皆が非難するのはもっともな事と考え、五大院宗繁、誅すべし、と内々に定まった。

これを伝え聞いた宗繁は、ここかしこに、隠れ潜んだ。

しかしながら、極悪の罪はその身を責める、という事であろうか、三界(さんがい:注1)広しといえども、一身をも置く所無く、旧友は多しといえども一飯を与える人も無し、ついに乞食のごとくに成り果てて、路傍にて飢え死にしていったのだそうである。

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(訳者注1)我々が生きている三つの世界の事。「欲界(よくかい:欲望)」、「色界(しきかい:物質)」、「無色界(むしきかい:精神)」。
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