太平記 現代語訳 30-5 足利直義、死去す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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鎌倉へ到着の後、足利直義(あしかがただよし)は、付き従う者誰も無しの、幽閉状態になってしまった。

荒廃久しい牢屋同然の館の中に、警護の武士に取り囲まれてすごす毎日、耳に入ってくる事何もかもが、悲しみを催し、心を傷ましめる。

足利直義 (内心)あぁ、なんて空しい人生なんだろう・・・このような憂き世の中に、命ながらえてみたところで、それでいったいどうなるっていうんだ?

足利直義 (内心)あぁ・・・もう、生きがい完全に無くなってしまった・・・自分なんてもう、この世にとっては無用の存在、いてもいなくても、どうでもいいんだよなぁ・・・。

このような嘆きの日々を送っていたが、それから程無く、京都朝年号・観応(かんのう)3年(1352)2月26日、直義は、突然死去してしまった。

足利幕府からの公式発表によれば、「急に、黄疸(おうだん)という病気になられ、死去された」。しかし、「実際の所は、鴆毒(ちんどく)を盛られて、殺害されたらしい」とのうわさが、人々の間でささやき交わされた。(注1)

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(訳者注1)この部分は極めて重要と思われるので、以下に原文の記述を掲載する。

 (原文)「俄(にわか)に黄疸と云(いう)病に犯(おか)被(され)、墓無(はかなく)成(なら)せ給(たまい)けりと、外には披露ありけれ共(ども)、実(まこと)には、鴆毒の故に、逝去(せいきょ)し給(たまい)けるとぞささやきける。」

上記からも明らかなように、太平記作者は、ここではただ単に、「かくかくしかじかのうわさがあった」とだけしか、言っていないのである。

にもかかわらず、太平記作者(もしかしたら複数? 太平記は複数の人の手になる作品?)は、次の文章において、いきなり「毒殺」を前提に据え、それ以降に、強引な意見陳述を展開している。

こと、「毒殺」という事に関しては、太平記作者は史実に反する記述を、既に1回行っている(19-4 の末尾の訳者注を参照)。故に、読者の皆様は、足利直義の死去に関しての太平記の記述を、「それが史実である」とは思われない方がよいと思う。なお、この点についての訳者の見解を、この章末の「付記」に記載しておいたので、そちらをもあわせてご参照いただきたい。
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一昨年の秋には(注2)、高師直(こうのもろなお)が上杉重能(うえすぎしげよし)を亡ぼし、昨年の春には、足利直義が高師直を誅した(注3)。そして、今年の春には、足利直義もまた、怨を持った敵により、毒を呑んで死去してしまった・・・まことに哀れなるかな。「三過門間(さんかもんかん)の老病死(ろうびょうし)、一弾指頃去来今(いちだんしこうきょらいいま)(注4)」とは、まさにこのような事を言うのであろう。

因果応報(いんがおうほう)歴然の理(れきぜんのことわり)は、何も今に始まった事ではないが、たった3年の間に、次々とこのような果が現われた事は、まことに不可思議としか言いようがない。(注5)

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(訳者注2)正しくは、3年前の貞和5年(1349)である。

(訳者注3)観応2年(1351)。

(訳者注4)「ある人のもとをたった3回訪問する間にさえも、その人の身の上に「老病死」の3苦が襲ってくる事だってある。過去、未来、現在と言うと、とても長い時間のように感じるかもしれぬが、そんなものは指を1回はじくくらいの短い間の事である。その間の人生の転変は計り知れない。」の意。

(訳者注5)上記の部分は原文では、以下のようになっている。

 (原文)「去々年の秋は師直、上杉を亡し、去年の春は禅門、師直を誅せ被(られ)、今年の春は禅門又怨敵の為に毒を呑て、失(うせ)給(たまい)けるこそ哀なれ。三過門間老病死、一弾指頃去来今とも、加様(かよう)の事をや申べき。因果歴然の理は、今に始め不(ざ)る事なれども、三年の中に日を替え不(ず)、酬(むく)いけるこそ不思議なれ。」
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それにしても、この足利直義という人、随分と政治に心を砕き、仁義の道をもわきまえた人であったといえよう。なのにいったい何故、このような自滅の最期を迎えなければならなかったのであろうか? いったい何の罪故に?

この問題をつらつら考察してみるに、私、太平記作者の見解は、以下の通りである。

罪その1:直義の提案を容れて、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、鎌倉において偽りの告文(こうぶん)を書いた(注6)。その、神を欺いた罰により、兄弟の仲が悪くなり、その結果、直義は死を招いたのである。

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(訳者注6)原文では、「此(この)禅門(訳者注:直義のことである)申(もうさ)被(るるに)依(よって)、将軍(訳者注:尊氏のことである)鎌倉にて偽て一紙の告文を残されし故に其(その)御罰にて、御兄弟の中も悪(あし)く成(なり)給て、終に失(うせ)給(たまう)歟(か)」。

この「告文」がいったい何を指しているのか、訳者には分からない。

[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注には、

 「巻十七、自山門還幸事に見える尊氏が告文を奉って御醍醐天皇に還幸を請うた事を指す・」

とある。

上記中の「巻十七、自山門還幸事」は、本現代訳中の、17-7 に相当するのだが、この時、尊氏は、鎌倉ではなく、京都にいるように、太平記では記述されている。よって、「鎌倉において偽りの告文を書いた」事にはならない。
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罪その2:護良親王(もりよししんのう)を殺害し、成良親王(なりよししんのう)を毒殺したのも、この人のしわざである(注7)。故に、被害者側の憤り深く、そのために、このような最期を遂げねばならなかったのである。

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(訳者注7)原文では、「又大塔宮を殺(ころし)奉(たてまつり)、将軍宮を毒害し給(たもう)事、此人の御態(わざ)なれば、其の御憤深して、此(かくの)如く亡(ほろび)給う歟(か)。」

大塔宮(護良親王)の最期については、13-5 参照。護良親王殺害を指示したのが直義である、というのは史実なのかどうか、訳者には分からない。

成良親王の最期については、19-4 参照。この「成良親王を直義が毒殺した」とする記述については、複数の歴史学者(高柳光寿 、森茂暁)が、これが太平記作者の捏造であり、史実ではない、という事を断定している。(19-4末尾の訳者注を参照。)
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「災患(さいかん)の種などというものは本来、存在しないのだ、悪事がその種となるのである」と言う、古来からの名言がある(注8)。

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(訳者注8)原文では、「災患本種無、悪事を以て種とすといえり」
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まったくもって、その通りである。

武士たる者は、武勇の家に生れ、戦をもってその家業とするといえども、慈悲を常に心がけ、悪事の業報(ごうほう)を恐れるべきである。いくら自分に威勢があるからといって、神のご照覧(しょうらん)をも憚(はばか)らず、他人の辛苦(しんく)にも心痛(こころいた)めず、思うがままの振舞いを重ねていくならば、楽も尽きて悲み来たり、我が身を責める結果となるは必定(ひつじょう)。そのような真理に気がつかなかったとは、まったくもって哀れにして、愚かなる事であったと言えよう。

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(訳者注9)
「足利直義は、兄・足利尊氏によって毒殺された、尊氏は弟・直義を殺害した」との言説が、21世紀も4分の1に達しようという今日においても、まだ、存在しているようだ。インターネット上にもそのような記述が存在する。(興味のある方は、インターネット検索エンジンを用いて、キーワード:[直義 毒殺]等で検索するとよいだろう)。

これらの言説の源はいったいどこにあるのか? 訳者が様々に調べてみたところ、どうやら歴史関係の書物に、その源はあるようだ、ということが分かってきた。例えば、

[太平記の群像 森茂暁 著 角川選書 角川書店 1991刊] の 136P

 「直義は観応二年(一三五一)七月政務を返上し、自派を率いて越前に去った。直義はこののち関東に下り、京都から攻め寄せた尊氏軍と戦ったが敗れ、翌三年二月尊氏によって毒殺された。」

[室町時代政治史論 今谷明著 塙書房 2000刊] の 14P

 「二月末に没した直義の死因を「太平記」は尊氏による毒殺の噂として伝え、それが通説となっている。頼朝と義経、三好長慶と安宅冬康等、権限を共有する兄弟の悲劇がここでも現出したのである。」

この、「兄(尊氏)が弟(直義)を殺した」という説が「通説」になったのは、いったいいつ頃の事なのか、訳者には分からない。もしかしたら、第二次大戦前の[皇国史観の時代]に、「朝敵にして悪者・足利尊氏」のイメイジを広く一般に植え付けるために、「通説」としての形成が、誰か(個人あるいは複数の人?)によって為されたのだろうか?

[足利尊氏 高柳光壽 著 春秋社 昭和30 初版第1刷 昭和41 改稿第1刷 昭和62 新装第1刷]の 416P には、以下のようにある。

 「二月二十六日直義は突然死んでしまった、時に四十七歳であった(「公卿補任」による。四十六、四十五とする説もある。)「常楽記」には、鎌倉円(延)福寺において円寂とあるが、「太平記」には、直義は牢のような荒れ果てた屋形に警護の武士の下に置かれたが、急に死んだ、外には黄疸で死んだ、と披露したが、実は鴆毒で浙去したとささやくものがあった、と書いてある。」

「常楽記」の記述内容について、訳者は未だ確かめてはいないので、「常楽記」そのものについては何のコメントもできないが、「太平記」の記述に関する、高柳氏の上記の説明そのものに対しては、訳者には全く何の異論も無い。太平記にはたしかに、その通りの事が書かれている。

そして、「太平記」には、それ以上の事は何も書かれていない。

すなわち、「太平記」には、以下のような記述は、どこにも全く無い。

 「足利直義殺害の張本人(あるいは黒幕)は、足利尊氏である。」

しかし、高柳氏の記述は以下のように続いていく。

 「二月二十六日といえば、師直が死んだ日である。ちょうど一周忌になる。尊氏が殺さなくとも、師直の一類が殺したかも知れない。しかし尊氏がその殺したものをどう処分したという記事が見えないばかりか、葬儀を行ったという記事も何も見えていない。それは関東のことであるので、文献が残っていないためだといえば、それまでであるが、疑えば疑える。そこで、「諸家系図纂」などは、尊氏が殺したとしているのである。「臥雲日件記」に、”錦小路殿(直義)死後すこぶる神霊あり、故にこれを祭って、大蔵明神(延福寺は大倉にあった)となす”とあるは、この間の事情を物語るものといえよう。」

この記述の段階において既に、高柳氏の脳裡には、「尊氏が直義を殺したのではないかな?」との思考が、濃厚なる渦を巻いているように、訳者には感じられてならない。なぜならば、「尊氏が殺さなくとも」とか、「尊氏がその殺したものを」といったような記述があるからである。

実は、この前の箇所(412P)にも、以下のような記述がある。なお、文中「親房」とあるのは、前後の文脈から見て、吉野朝側の重臣・北畠親房の事を指すとみて間違いないだろう。

 「十月の末になって、南朝の使者が上京し、十一月の三日この使者が義詮と会って”元弘一統の初めに違わず聖断を仰ぎ申すことを承知した、もっとも神妙である。このうえは天下安全の道を講じて無二の忠節を致せ”という後村上天皇の綸旨を尊氏に与え、また義詮にもほぼ同様の綸旨を与え、さらに尊氏には直義追討の綸旨を与えた。・・・(途中略)・・・それはともかくとして、後村上天皇の綸旨に直義を誅罰せよ、とあるのは注意すべきである。これで尊氏は直義を殺す名義を得たのであった。この綸旨の内容は親房の考えそうなことでもあるが、尊氏の方から和睦の条件として申し入れたものであったかも知れない。」

このように、上記の文中に、「これで尊氏は直義を殺す名義を得たのであった」との記述がある。

以上見てきた事により、高柳氏は、確かな証拠が一切存在しないにもかかわらず、足利尊氏の心中を様々に推理し、「足利直義殺害の犯人=足利尊氏」説を形成していっている、と、訳者にはそのように思えてならない。

このような、「他人の心理状態をあれやこれやと推理し、状況証拠だけでもってその人を犯罪者として断定、もしくは、それらしい事を匂わせる」というような行為を、現代の日本において誰かが行った時には、その行為者は、相手から、「名誉毀損」の提訴を起されるおそれが大いにあるだろう。

犯罪捜査のプロ(つまり、警察官)が行う捜査をもってしても、冤罪が発生し、無実の人が有罪とされてしまう事があるのだ。ましてや、犯罪捜査のプロでない人が、犯罪・加害者探しを始めた場合、それが錯誤に陥る確率は、極めて高いのではないだろうか?

以下に、この問題に関する訳者の考えを述べたい。

1 太平記の記述は信用できない

すでに何度も書いてきた事であるが、「太平記に書いてある事は、うのみにしてはならない」。太平記はどこまでが史実で、どこからがフィクションなのか、分からないのだ。その判別は、専門家にすら困難、あるいは不可能である。[岩波古典文学体系34 太平記1 後藤丹治、釜田喜三郎 校注 岩波書店 昭和35年 第1刷]の「解説」22P ~ 23P には、以下のようにある。

 「要するに久米博士の如く史学に益なしというのも公平な議論では勿論ないが、さりとて虚構や先行作品の襲用の多い太平記に対して、その史料的価値を実質以上に買いかぶるのも禁物である。太平記に近い時代の今川了俊が、「此記は十が八九はつくり事にや」(難太平記)と評したのは味わうべき言葉である。太平記の作者から見れば、面白く読ませればそれで十分で、それが歴史に一致するかどうかは問題ではなかったのであろう。太平記の記載のみを、唯一の、もしくは主な史料として、南北朝時代の歴史を描こうとするのは、余程の傍証のない限り、危険であることを断言したい。」

2 人のうわさだけでもって、「毒殺」と決め付けてはならない

仮に、上記の太平記の記述が史実であったとしても、太平記作者が「事実」として主張しうる事は、
 
 「俄に黄疸と云病に犯被、墓無成せ給けりと、外には披露ありけれ共、実には、鴆毒の故に、逝去し給けるとぞささやきける。」

と、いう事だけである。その後に記述してある、

 「去年の春は禅門、師直を誅せ被、今年の春は禅門又怨敵の為に毒を呑て、失給けるこそ哀なれ。」

は、太平記作者の勝手な思い込みに過ぎない。

「世間の人々のうわさ」ほど、あてにならないものはない。

3 仮に、毒殺されたとしてみても、犯人の記述は一切なし

「毒殺された」という事が正しいと、百歩、いや、千歩、1億歩譲歩して、仮定してみたとしても、太平記中には、その犯人、あるいは殺害行為を指示・教唆した人の名は、一切記述されていない。

 「直義殺害の犯人は誰々である」というような記述は、太平記中には無い。従って、当然の事ながら、「直義殺害の犯人は尊氏である」というような記述は、太平記中のどこにも無い。

以上、1~3 の考察を踏まえてみるならば、訳者は、以下のように考えざるをえない。

 足利直義の死因は不明である、ただそれだけ、それだけだ。

確かな証拠が得られないような歴史関連の事柄に対しては、いくら考えてみても、どうしようもないだろう。分からないものは、どこまで行っても分からない。

最後に、「このように考えているのは、訳者一人だけではない」という事を述べておこう。下記をご参照下さい。

[日本の歴史11 太平記の時代 新田一郎 講談社 2001] の 174P ~ 175P から引用。

 「・・・これをうけて尊氏は、京都の留守を義詮に託し、鎌倉を指して進発した。尊氏は駿河・伊豆、ついで相模国早河尻(現 神奈川県小田原市)で直義方の軍勢を破り、直義を伴って翌年正月五日に鎌倉に入った。屋敷に軟禁された直義は、二月二十六日に急死する。これについては毒殺との噂が流れたようだが、尊氏の関与の有無は明らかではない。」

[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書 2443 中央公論新社] の 174P ~ 175P から引用。

 「直義は尊氏に毒殺されたとする説が、古くから有力である。しかし、筆者はこの見解には懐疑的である。

 古今東西、政争に失脚した政治家が失意のうちに早世することは頻繁にある。四六歳という享年も、当時としてはよくある年齢である。甥の義詮も三八歳で死去している。史料的にも、毒殺を記すのは『太平記』くらいしか存在しない。
 
 直義の暗殺に用いられたとする「鴆毒」なる毒物についても、謎が多い。これは鴆という南方に生息する鳥の羽の毒だとも言われている。しかし、鴆の実在は確認されず、存在自体が疑問視されてきた。

 ところが一九九二年、ニューギニアできわめて強い毒性を持つ鳥が発見された。有毒な鳥が実在する以上、同じく毒鳥である鴆が存在した可能性も出てくるが、だとすれば尊氏がいかなる径路で鴆毒を入手したかなど新たな疑問も出てくる。日本に本格的な毒殺文化が入ってきたのは織豊期以降であるとする見解もある。

 管見の限りでは、筆者以外に毒殺説を否定する論者に峰岸純夫氏がいる。峰岸氏は、黄疸が出たとする『太平記』の記述に基づいて、直義の死因を急性の肝臓ガンであったと推定する(『足利尊氏と直義』)。」

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