太平記 現代語訳 39-12 光厳法皇の葬儀、執行される

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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光明上皇(こうみょうじょうこう)、梶井宮(かじいのみや)・承胤法親王(しょういんほっしんのう)は、共に禅宗僧侶となり、伏見殿(ふしみでん)に住んでいたが、光厳法皇が亡くなられたとの知らせを聞いて、急ぎ、法皇の住んでいた山間の寺院(注1)へ赴き、ダビの事等を取り営み、背後の山中に遺体を埋葬した。

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(訳者注1)常照皇寺(京都市・右京区)。
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仙洞御所(せんとうごしょ)の中での崩御であったならば、百官、涙をしたためて葬車の後に従い、天皇も悲しみを呑んで虞附(ぐつ)の祭を営んだであろう。

しかし、世間に知られる事もなく、山中でひっそりと営まれる葬儀であるから、ただ徒(いたず)に鳥啼(な)いて挽歌(ばんか)の響きを添え、松(まつ)咽(むせ)んで哀慟(あいどう)の声を助けるばかり。

何もかもは、ただ一片の夢に過ぎなかったのであろうか・・・。

光明上皇 (内心)今日は、7月7日か・・・かつての華やかなりし時、、兄上と共に長生殿(ちょうせいでん)で、七夕祭をやったなぁ・・・。

後宮の美人らひしめき、宮殿の両階段に楽人たちが調べを奏でる中、二星一夜の契りを惜しみながらの乞巧奠(きっこうてん)の七夕行事が、ついこの間の事のように、なつかしく思い起こされてならない。

光明上皇 (内心)悲しいかな、当年の今日7月7日、閑静な山深いこの地において、三界八苦(さんがいはっく)の別離に逢わんならんとは・・・。

光明上皇と承胤法親王、山中に棺を担(にな)っての葬送の儀・・・あずまやから眺める月は、生滅変転(しょうめつへんてん)の雲に隠れ、万年樹(まんねんじゅ)の花は、無常の風に散る・・・寺の庭を回(めぐ)る山川も、法皇との別離を悲しんで、雨となり雲となるか、心無い草木も、法皇の死を悼(いた)んで、葉は落ち、花しぼむか・・・。

光厳法皇よりの恩を感じ、その徳を慕ってやまぬ旧臣の数は多かったが、あらかじめ言い含められていたがゆえに、そこに参集してくる者は稀であった。

わずかに、籠僧(こもりそう)3、4人が勤行を行い、四十九日までの仏事を、とり行った。

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その後も、光厳法皇の祥月命日毎に、様々の作善(さぜん)の仏事が毎年行われていった。

特に、三回忌法要の時には、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)が、てずから、一字三礼(いちじさんらい)紺紙金泥(こんしきんでい)の法華経(ほけきょう)写経を行って奉じ、5日間、朝夕2座の八講十種(はっこうじゅっしゅ)の経典講義が行われた。

楽人の奏でる音楽は、かの帝釈天(たいしゃくてん)・眷族八部衆(けんぞくはちぶしゅう)中の音楽神・キンナラの琴の音を思わせるかのよう、法要導師(ほうようどうし)が故人の徳をほめたたえるその言辞はまさに、釈尊(しゃくそん)・十大弟子(じゅうだいでし)中の弁舌第一(べんぜつだいいち)・プンナのごとくである。

法要の最終日、薪を採り雪を担う五位蔵人(ごいくろうど)は、千載給仕(せんざいきゅうじ)の昔の跡を重くし、水を汲み月を運ぶ殿上人(てんじょうびと)は、八相成道(はっそうじょうどう)の遠い縁を結ぶ。

これまた、かの善性童子(ぜんしょうどうじ)、あるいは、サンダイラン国に仕えた宝蔵(ほうぞう)の孝をも越え、浄蔵(じょうぞう)と浄眼(じょうげん)が父・妙荘厳王(みょうしょうごんおう)を仏道に導いた功をも、しのぐものである。

十方の諸仏がこの追善供養(ついぜんくよう)に随喜(ずいき)したもうた事は、言うまでもなく明らか、六道(ろくどう)に生きる諸々の存在もさだめし、その余薫(よくん)に預かった事であろうと思われるような、まことにすばらしい追善の仏事であった。

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