太平記 現代語訳 16-5 新田軍、中国地方へ進軍

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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やがて、新田義貞(にったよしさだ)は病癒え、5万余騎を率いて中国地方へ出発した。

後続部隊の到着を待って、播磨(はりま)の加古川(かこがわ:兵庫県・加古川市)に4、5日逗留しているうちに、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)、城井冬綱(きいふゆつな)、菊池武季(きくちたけすえ)が率いる3,000余騎が到着。その他、摂津(せっつ)、播磨、丹波(たんば)、丹後(たんご)の勢力も思い思いに馳せ参じてきて、新田軍の兵力は6万余騎になった。

その後、赤松円心(あかまつえんしん)がこもっている城を攻めようということで、新田軍は、斑鳩宿(いかるがしゅく:兵庫県・揖保郡・太子町)まで進んでいくと、円心が小寺藤兵衛(こでらとうべえ)を使者として送ってきた。

小寺藤兵衛 わが主、赤松円心より、新田殿に次のように申し伝えよ、とのことですわ。

 「赤松円心、不肖の身とはいいながら、元弘(げんこう)年間の初め、大敵なる鎌倉幕府に抗して立ち上がり、逆徒・北条氏を攻め退けた。ゆえに、自分こそは忠節第一の人間やと、自負しとった。ところが、いただいた恩賞はと言えば、幕府側から降参してきた不義の輩のそれよりも少いやないか! それがどうしても納得いかんかったんで、一時の恨みにかられて足利の味方をしてしまい、それまで積んできた大いなる功績を、帳消しにしてしもぉた。」

 「しかしながら、故・護良親王(もりよししんのう)殿下よりいただいた御恩は、末々までも忘れることはできひん・・・朝廷の敵に与したのも、心底からの恨みがあってのもんやない。」

 「そこで、いっちょ相談したいんやが・・・播磨・・・播磨国の守護職にだけでもえぇから、綸旨(りんし)に任命書を添えて、朝廷から任命してもろぉたら、以前のように朝廷側に帰参して、忠節を尽くそうと、思とぉんやがなぁ・・・どうやろ?」

新田義貞 そっかぁ、そんな事、言ってんのか、赤松は。

新田義貞 播磨の守護職ねぇ・・・うん、まぁ、問題ねっかぁ。

義貞は、すぐに京都へ急使を送り、守護職補任の申請を行い、綸旨を得た。

ところが、その使者が播磨と京都間を往復している10余日の間に、円心は、城の防備をかためてしまった。

義貞から送られてきた綸旨を見て、円心は、

赤松円心 播磨の守護職に任命したるやとぉ・・・ナニ言うとぉ、守護職はおろか、国司職までもなぁ、足利将軍殿から、とっくの昔に任命してもろてるわい。いつひっくりかえるか分からんような、あてにならん綸旨なんか、いらん、いらん! はよ、持って帰れ! ワハハハ・・・。

これを聞いた義貞は、

新田義貞 いってぇなんだと思ってやがる、おそれおおくも陛下からいただいた綸旨だぞぉ! 臣下の分際で、陛下をないがしろにするとは、けしからん!

新田義貞 恨みを抱いて朝敵の身になったってなぁ、天の下に生きながら、天命に逆らえるとでも、思ってんのかぁ!

新田義貞 よぉし、そっちがそのつもりだったら、おれだってなぁ。

新田義貞 赤松の城、落としてやる! 何か月かかったっていい、絶対に落としてやる。あの城、落としてからでないと、おれは先に進まぁん!

義貞は、6万余騎の軍勢をもって、白旗(しらはた)城を百重千重に包囲し、昼夜分かたず50余日、息もつがずに攻め続けた。

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白旗城がある地は、四方すべて険阻な地形で、人間が登っていけそうな所ではない。城中には、水も食料もたっぷりと備蓄がある。そのような所に、播磨、美作(みまさか)の弓の巧者が、800余人もたてこもっているのである。

攻めても攻めても、新田サイドは、徒らに死傷者を出していくばかり、赤松サイドはびくともしない。

脇屋義助(わきやよしすけ)は、義貞に、

脇屋義助 なぁ、アニキィ・・・このままじゃぁ、ちょっと、まずいんじゃぁなぁいぃ?

新田義助 ・・・。

脇屋義助 おれ、なんだかさぁ、数年前のあれが思い出されて、しょうがないんだよなぁ。

新田義助 あれって、なんだい?

脇屋義助 ほら、鎌倉幕府の滅亡寸前の、あの頃の事さ。

新田義助 ・・・。

脇屋義助 楠正成(くすのきまさしげ)が、金剛山(こんごうさん)の千剣破城(ちはやじょう)に、たてこもってたろ? あの城に、日本国中のもんらが総がかりで攻めかかってったけどさ、どうにもならなかったよな。そこからやがて、天下が覆っていったってわけさぁね。

脇屋義助 あの城一つにこだわっちゃったこと、北条サイドの連中らにしてみりゃ、いくら悔やんでも悔やみ切れなかったんじゃぁ、ないかなぁ。

新田義助 うーん・・・。

脇屋義助 おれたちも今、同じような状況なんじゃないかなぁ。わずか小城一つにかかずらって、いたずらに日を送ってたんじゃぁ、そのうち、こっちの食料は乏しくなっていく、赤松サイドは、ますます勢いづいてきやがるよ。

脇屋義助 それにさぁ、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、もうすでに、筑紫はじめ九州全域を支配下に収め、やがて京都へ向かって進軍するってな情報もあるじゃん? だとしたらだよ、あいつがやって来ねぇ先に、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)の足利側勢力をやっつけて、安芸(あき)、周防(すおう)、長門(ながと)の勢力をこっちサイドに引き込んでしまわないと・・・そうでないと、非常に、まずい事になっちまうよ。

新田義助 だよなぁ・・・だけどなぁ・・・。

脇屋義助 うん、だけどなぁ、なんだよね。せっかくここまで攻めた城なのに、落とさないままで引き下がっちゃったんでは、天下の人々の物笑いの種になっちまうよねぇ。

新田義助 ・・・。

脇屋義助 こういうの、どうかな? 軍勢を少しだけここに残した上で、残りの全軍を、船坂山(ふなさかやま:兵庫県・赤穂郡・上郡町-岡山県・備前市)へ進め、まずは山陽道を制圧して、中国地方の勢力を味方につける。その後、筑紫へ軍を進める。

新田義助 いいね、それ!

というわけで、新田義貞は、宇都宮と菊池の軍と共に、伊東大和守(いとうやまとのかみ)、頓宮六郎(とんぐうろくろう)に道案内をさせながら、2万余騎を率いて船坂山へ向かった。

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船坂山は、山陽道第一の難所である。峯が峨々(がが)と聳(そびえ)立つ中に、一本の細い道が通っているだけ。谷は深く、石は滑らか、雲霧が立ち込めて薄暗い中に、羊の腸のごとく曲がりくねった道を上ること20余町。「一夫、怒って道を塞がば、万人、そこを通過すること難し(注1)」と言うべきか。

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(訳者注1)原文:「若(もし)一夫(いっぷ)怒(いかって)臨関(かんにのぞめば)、萬侶(ばんりょ)難得透(とおることをえがたし)」
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このように険しい地形の所に、さらに、岩石を穿(うが)って細橋を渡し、大木を倒して障害物にしている。これでは、たとえ百万騎の軍勢でかかってみても、そこを攻め破れようとは、到底思えない。

さすがの勇猛果敢な菊池、宇都宮の軍勢も、山麓に控えるばかりで前進できず、案内の任に当る伊東、頓宮の者たちも、ただ山を見上げるばかりで、徒に日は過ぎていく。

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