太平記 現代語訳 34-4 足利義詮、大軍を率いて、吉野朝を攻める

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・延文(えんぶん)4年(1359)12月23日、足利幕府・第2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)は、吉野朝(よしのちょう)征討・大手方面軍を率いて京都を発ち、摂津(せっつ:大阪府北部+兵庫県南東部)方面へ向かった。その軍に所属のメンバーは、以下の通りである。

足利氏親族からは、

細川清氏(ほそかわきようじ)、その弟・細川家氏(いえうじ)、細川業氏(なりうじ)、細川師氏(もろうじ)、細川氏春(うじはる)、斯波氏頼(しばうじより)、仁木義長(にっきよしなが)、その弟・仁木頼勝(よりかつ)、仁木右馬助(うまのすけ)、一色直氏(いっしきなおうじ)、今川範氏(いまがわのりうじ)、その子・今川氏家(うじいえ)、その弟・今川了俊(りょうしゅん)。

足利氏以外からは、

土岐氏:土岐頼康(ときよりやす)、その弟・土岐頼忠(よりただ)、土岐頼雄(よりかつ)、土岐直氏(なおうじ)、小宇津美濃守(こうつみののかみ)、高山伊賀守(たかやまいがのかみ)、小里兵庫助(おさとひょうごのすけ)、猿子右京亮(ましこうきょうのすけ)、厚東駿河守(こうとうするがのかみ)、蜂屋貞経(はちやさだつね)、土岐康行(やすゆき)、今峯駿河守(いまみねするがのかみ)、舟木兵庫助(ふなきひょうごのすけ)、明智下野入道(あけちしもつけにゅうどう)、戸山光明(とやまみつあきら)、土岐頼行(よりゆき)、土岐頼世(よりよ)、土岐頼近(よりちか)、土岐飛騨伊豆入道(ひだいずのにゅうどう)。

佐々木氏:佐々木氏頼(ささきうじより)、その弟・佐々木信詮(のぶあきら)。

河野(こうの)一族。

赤松氏:赤松貞範(あかまつさだのり)、その弟・赤松則祐(のりすけ)、その甥・赤松光範(みつのり)、その弟・赤松直頼(なおより)、赤松範実(のりざね)。

諏訪信濃守(すわしなののかみ)、禰津小次郎(ねづのこじろう)、長尾弾正左衛門(ながおだんじょうざえもん)、浅倉弾正(あさくらだんじょう)。

これらを主要メンバーとして、総勢7万余騎。大島(おおしま:兵庫県・尼崎市)、渡辺(わたなべ:場所不明)、尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)、鳴尾(なるお:兵庫県・西宮市)、西宮(にしのみや:西宮市)一帯に満ち溢れ、その地域の神社仏閣の中にまでも充満。

畠山国清(はたけやまくにきよ)は、カラメ手方面軍の大将として、関東8か国の軍勢20万騎を率いて、翌日午前8時に京都を出立(しゅったつ)、八幡(やわた:京都府・八幡市)から真木(まき:大阪府・枚方市)、楠葉(くずは:枚方)にかけて、陣を取った。これは、大手方面軍が渡辺橋にさしかかった時に、もし相手側が川を防衛ラインとして戦ったならば、左々良(ささら:大阪府・四条畷市)から生駒山地(いこまさんち:大阪府と奈良県県境)西山麓経由のルートをとって、吉野朝軍の背後に回り込んで相手を包囲してしまおう、との作戦である。

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大手方面軍リーダーの赤松光範は、今回のこの戦に対しては、格別の思い入れがあった。

赤松光範 (内心)今度という今度こそはなぁ、あいつらに、痛いメ、見したんねん!

光範は、戦場となる摂津国の守護の地位にありながら、その領域の50%にも及ぶ、吉野朝勢力側の実質的支配を許してしまっていたからである。

光範は、全軍の真っ先切って、500余騎を率いて渡辺橋まで進んだ。そして、川舟100余隻を集め、川面2町に渡ってそれらを引き並べ、柱を川底に打ち込み、舟どうしを繋ぎあわせ、その上に板を敷き並べた。

赤松光範 (内心)さぁ、これで、渡河もスタンバイOKやぁ。この舟橋の上、人馬続いて渡っていったら、一切なんの問題もないぞぉ。

赤松光範軍メンバーA (内心)こんな舟橋作ったん、敵見よったら、あっという間に戦、始まるでぇ。

赤松光範軍メンバーB (内心)和田(わだ)と楠(くすのき)、ほっときよるわけないわなぁ、きっと、ここに馳せ向かってきよるやろうて。

赤松光範軍メンバーC (内心)そないなったら、さぁ、一大激戦の始まり、始まりィーー。

しかし、いかなる深謀遠慮あってか、吉野朝側は、あえて、足利軍の渡河を阻止するような動きを一切見せない。

そうこうするうち、足利軍の大手、カラメ手30万騎は、同日中に渡河を済ませ、川の南方へ軍を進め、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)、阿倍野(あべの:大阪市・阿倍野区)、住吉の遠里小野(うりうの:大阪市・住吉区)に陣を取った。

総大将の足利義詮はあえて川を越えず、尼崎にとどまって守りをかため、赤松貞範と赤松則祐は大渡(おおわたり:場所不明)付近に布陣して、吉野朝側の出方を探る為の陣形を敷いた。

仁木義長は指揮下の3000余を一所に集めて西宮に陣を構えた。

仁木義長 (内心)先陣が戦に負けたとなったら・・・その時こそ、おれの出番がやってくるのよ・・・消耗ゼロのわが兵力を率いて、戦場に乗り込む・・・敗勢となった先陣に入れ替わって戦い、わが軍は、敵をイッキに殲滅(せんめつ)・・・その結果、今回の戦の手柄は100%、おれ一人の独占状態に・・・将軍はじめ、世間の賞賛は、我が一身の上に集中・・・ムフフフフフ・・・ムフフフフフ・・・ムハハハハハハ・・・。

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吉野朝側の最大の関心事は、関東からやってきた畠山国清が率いる大軍の動向であった。

 「城にこもって戦うたんでは、包囲され、そのうち攻め落とされてしまうかもしれへん。今回の戦において有効となる作戦は、深い山と谷のフル活用、これあるのみ。すなわち、敵にこちらの居場所を知られる事なく、機動性を高度に発揮しての戦闘を継続。」

 「いま敵の前にいるかと思えば、次の瞬間、敵の後方に回り込む、たった今、馬に乗って敵前に姿を現したかと思えば、そのすぐ後には、野山に潜伏。このように、こちらの居場所を急激に変化させながら、戦ぉていくべし。」

 「敵がしつこく攻めかかってきよったならば、険阻(けんそ)な場所に誘(おび)き寄せてから、反撃に転ずる。敵が退いたならば、その後を追撃する。このように、大いにゲリラ戦を展開して敵を疲れさせ、消耗戦に持ち込んた末に、勝利を得る。」

ところが、関東勢の動きは、その予想には全く反していた。しゃにむに吉野朝側の陣に突っ込んでくる事もなく、ここに日を経、あちらに時を送り、というように、のらりくらりとしている。

楠正儀 それやったら、こっちも、陣を前に敷き、城を後ろに構えての持久戦、という事に、しようやないかい。

というわけで、和田正武(わだまさたけ)と楠正儀(くすのきまさのり)は急遽、赤坂(あかさか:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)に城を構え、300余騎を率いてたてこもった。

福塚(ふくづか)、川辺(かわべ)、佐々良(ささら)、当木(まさき)、岩郡(いわくに)、橋本判官(はしもとはんがん)以下の武士ら500余騎は、平石(ひらいわ:大阪府・南河内郡・河南町)に城を構えてたてこもった。

真木野(まきの)、酒辺(さかべ)、古折(ふるおり)、野原(のはら)、宇野(うの)、崎山(さきやま)、佐和(さわ)、秋山(あきやま)以下の武士ら800余騎は、八尾(やお:大阪府・八尾市)の城を修理してたてこもった。

その他、大和(やまと:奈良県)、河内(かわち:大阪府南東部)、宇陀郡(うだぐん:奈良県)、宇智郡(うちぐん:奈良県)の武士1000余人は、龍泉峯(りゅうせんがみね:注1)に塀を建て櫓(やぐら)を構えて、虚勢を張った。(注2)

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(訳者注1)龍泉寺(大阪府・富田林市)の付近の場所。

(訳者注2)大兵力がいるかのように、見せかける。
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2月13日、足利軍側は、後陣の勢3万余騎を、住吉、天王寺の先陣と交代させて背後をかためた後、先陣20万騎が、金剛山(こんごうさん)北西の津々山(つづやま:大阪府・富田林市)に登り、陣を取った。

吉野朝軍と足利軍の間隔は、わずかに50余町、にらみあいが始まった。

それから間もなく、丹下(たんげ)、俣野(またの)、誉田(こんだ)、酒匂(さかわ)、水速(みはや)、湯浅太郎(ゆあさたろう)、貴志(きし)の一族500余騎が、弓の弦を外し、兜を脱いで、足利軍側に投降してきた。

足利軍側メンバーD やったやったぁ!

足利軍側メンバーE ざまぁ見やがれ。

足利軍側メンバーF こりゃぁ敵サン、相当、まいっちゃってんじゃぁ、ねぇのぉ?

足利軍側メンバーG 和田も楠も、これから先、いってぇどこまで、もちこたえれるもんだかぁ、ウハハハ・・・。

足利軍側メンバー一同 ウワハハハハ・・・。

しかし、その後も、騎馬の兵どうしが真っ正面から激突して勝負を決するという事も無く、ただただ、両軍互いにゲリラ戦部隊を繰り出しては、矢戦のみに明け暮れの毎日である。

吉野朝側は地理にくわしく、足利側は案内不慣れな地とあって、毎度の戦に、足利側の負傷者、戦死者が増加の一途をたどるのは、自然の勢い。

足利軍側メンバーD ヤベェよぉ、こりゃぁ・・・。

足利軍側メンバーE うーん・・・どうやら、和田と楠の手の内に、ハマッちまったようだなぁ、おれたち・・・。

足利軍側メンバーF このままいったんじゃ、まずいよなぁ、なんとかしなきゃ、なんとかぁ!

足利軍側メンバーG いってぇ、どうしろってんだよぉ?! 遠いとこから、はるばるやってきてんだ、いきなり、戦やめて帰るってわけにも行くめぇ?

足利軍側メンバーH ここに踏みとどまるしか、ねぇやなぁ。

足利軍側メンバー一同 ったくもう、マイッタねぇ。

最初のうちこそは、陣中規律も守られてはいたが・・・メンバーの疲弊の色が次第に濃くなってくるにつれて、それは、「ただ単なる言葉の上だけの事」になっていった。

足利サイドの武士らは、神社仏閣に乱入し、聖なる場所の帳を剥ぎ取り、神宝を奪い合った。

乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)の度は、日を追うにつれて増していき、軍トップからの制止命令をも、もはや、彼らは意に介しない。ついには、社殿の前におかれた獅子や狛犬を破壊して薪にし、寺院から略奪した仏像や経典を売りとばして、その代金でもって、魚肉鳥肉を購入するにまでに至った。まさに前代未聞の悪行としか、言いようがない。

過去に、高師泰(こうのもろやす)が、石川(いしかわ)河原に陣を敷いて楠一族を攻めた時、その軍勢のメンバーたち(悪事という悪事を、徹底的になしてやまぬ連中ら)が、周辺の寺院の塔から九輪(くりん)を外し、それを鋳つぶして茶釜にしまうという、希代の罪業をなした事があったが(注3)、今回のこれは、それを100倍も上回る悪事である。もはや、「あさましい」などというような、なまはんかな言葉では到底表現しきれないほどの、極大レベルの悪事である。

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(訳者注3)26-6 参照。
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世間の声I (ヒソヒソ声で)こないな事、あんまし大きな声では言えませんけどなぁ、わたい、今回の戦、足利幕府側の思うようには、うまいこといかへんのんちゃうやろかなぁと・・・どうも、そないなカンジしますねん。

世間の声J (ヒソヒソ声で)へぇー、そらまたいったい、なんでどすかいな?

世間の声K (ヒソヒソ声で)いや、別にこれといった根拠はあらしまへん・・・そやけど・・・なんとなしぃになぁ・・・。

世間の声L (ヒソヒソ声で)あのっさぁあ、古代中国・春秋時代(しゅんじゅうじだい)にっさぁ、「荘子(そうし)」って人、いたじゃぁん?

世間の声M (ヒソヒソ声で)あぁ、あの儒家(じゅか)の荘子はんでんなぁ、いはりました、いはりました。

世間の声L (ヒソヒソ声で)その荘子がっさぁあ、こんな事、言ってんだよねぇえ。

 人が見ている所で 善くない事を行う者に対しては
 人間が これを処罰する事ができよう
 人が見ていない所で 善くない事を行う者に対しては
 鬼が これを処罰する事ができるのだ

 (原文)
 為不善于顕明之中者
 人得誅之
 為不善乎幽暗之中者
 鬼得誅之

世間の声M (ヒソヒソ声で)ふーん、こらまた、えぇ事、いわはりまんなぁ。

世間の声N (ヒソヒソ声で)あの大悪事を働いた高師泰、天罰受けて、ミジメな死に方しやがったぜぃ・・・「前車の轍(てつ)、未だ遠からず」(注4)って言うじゃねぇかよぉ・・・畠山国清も、もちっとよくよく考えてった方が、いいと思うんだけんどなぁ。

世間の声O (ヒソヒソ声で)高師泰の哀れな結末をもってして、自らの戒めとしないのであれば、まさに、「後車の危うき事、近きに在り」(注5)って事ですわよねぇ。

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(訳者注4)「先の世に生きた者の、その人生の様をよくよく考察し、そこから深く学んで、自分の今後の処世を考えていけ」、の意。「轍(てつ)」は、「わだち」すなわち、地上に残った車輪の跡。

(訳者注5)「後車」は「前車」と対になっている、すなわち、[前車=高師泰 後車=畠山国清]という構図である。前車の残した[轍のルート]は、[寺社に対する略奪行為を行った --> その結果、天罰を受けてミジメな最後を遂げた]である。

後車も今すでに、[寺社に対する略奪行為を行った]という轍のルートに乗り入れてしまっている、ゆえに、そのまま進んでいくと、前車の残した轍のままに行く事になるから、[--> その結果、天罰を受けてミジメな最後を遂げた]となってしまうであろう、との、「世間の声」を借りての太平記作者の未来予測(類似パターンにもとづく推論)である。
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世間の声P (ヒソヒソ声で)なるほどなぁ・・・やっぱし、今回の戦、足利幕府側の思うようには、うまいこといかしませんわいな。

世間の声一同 (ヒソヒソ声で)同感、同感。

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