太平記 現代語訳 10-6 討幕軍、稲村ヶ崎を経由、鎌倉へ
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田軍伝令A 極楽寺坂切り通し(ごくらくじざかきりどおし:鎌倉市)へ向かわれた大館宗氏(おおたちむねうじ)殿、本間山城左衛門(ほんまやましろざえもん)という者に討たれて戦死。大館殿率いる軍は、片瀬(かたせ:神奈川県・藤沢市)、腰越(こしごえ:鎌倉市)まで退却!
新田義貞(にったよしさだ) ナニッ! 宗氏が! ううう・・・(涙)。
義貞は、再度その方面からの攻撃を期して21日夜半、勇猛の2万余騎を率いて、片瀬、腰越を経由、極楽寺坂へと進んだ。
やがて、高天に輝く月の光の下、義貞の眼前に、幕府軍の防衛陣が見えてきた。
新田義貞 (内心)敵陣のどっかに、弱点ねぇもんかなぁ・・・(じっと目をこらす)。
北方の切り通しに至るまで、山は高く路は険しく、幕府側の守備陣営は木戸を構え盾を並べ、その兵力はざっと数万、守りは極めて堅い。
南方は、稲村ヶ崎(いなむらがさき)の海浜(かいひん)。砂浜の中を通る路は極めて狭く、そこには波打ち際まで逆茂木(さかもぎ)がびっしりと設置されていて、倒幕軍の進入を食い止める強固な障害物となっている。しかも、その沖合い4、5町ほど隔たったあたりには幕府軍の大船多数が浮かび、その船上には櫓(やぐら)が築かれている。
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(訳者注1)
鎌倉は、西方、北方、東方の三方向に山、南方に海、という、攻めにくい地形になっている。
討幕軍は、関東地方の様々な場所からやってきた武士で構成されていたであろうから、海上の戦には不慣れである。よって、鎌倉の南方の海からの、[由比ヶ浜上陸作戦]は遂行不可能であり、極楽寺坂切通、巨福呂坂等の、陸上の[進入可能ポイント]を経由して、鎌倉へ軍を進めるしかない。
[稲村ヶ崎]は、そのような[進入可能ポイント]のうちの一つであったろう。
[地理院地図]を使用して、[稲村ヶ崎]の付近を見ていただくと、状況を良く理解していただくことが可能であろうと思われる。
[地理院地図]にアクセスし、[稲村ヶ崎駅]で検索すると、[江ノ電(江の島電鉄)]の[稲村ヶ崎駅]の付近が表示されると思う。
[稲村ヶ崎駅]の南東方向に、少し海に突き出た陸地がある場所、そこが、[稲村ヶ崎]である。
[稲村ヶ崎]より西側にある海浜が、[七里ヶ浜]である。
鎌倉は、[稲村ヶ崎]より東方にある。
[稲村ヶ崎]のあたりの等高線を見ると、そこが、海岸よりも高くなっている場所であることが分かると思う。
[七里ヶ浜]に立ち、[稲村ヶ崎]の方向にレンズを向けて、訳者がかつて撮影した画像が、下記である。
このような地形なので、[七里ヶ浜]から[稲村ヶ崎]を経由して鎌倉へ軍を進めることは、容易な事ではないと思われる。
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新田義貞 (内心)うーん・・・ここを強行突破して鎌倉へ進むのは、相当難しいぞ。あんな逆茂木だらけの狭い道だ、あそこを通過するには相当手間どるだろうよ。そんなこんなでゴチャゴチャしている所を、海上の船から、矢の雨ビュンビュンか。
新田義貞 (内心)ドウリで、こっち方面に向かった連中らが、敵陣突破できずに退却したの、ムリもねぇやなぁ。
新田義貞 (内心)ウーン・・・いったいどうしたもんだべ・・・。
新田義貞 (内心)よぉーし!
義貞は、馬から下りて兜(かぶと)を脱ぎ、稲村ヶ崎の砂浜の上に伏した。そして、はるか彼方の沖合に目を注ぎ、一心に祈り始めた。
新田義貞 伝え聞くところによりますれば、伊勢神宮(いせじんぐう)に鎮座(ちんざ)まします日本開闢(かいびゃく)の主・アマテラスオオミカミノミコト様は、その本体は大日如来(だいにちにょらい)、しかして、時には龍神(りゅうじん)に化身(けしん)して、我ら人間界に降臨(こうりん)したまい、その威神力(いじんりき)を示現(じげん)したもうと。
新田義貞 わが日本国の主君なる先帝陛下は、ミコト様のご子孫であらせられます。しかるに陛下は、今や逆臣(ぎゃくしん)のために、西海(さいかい)の波間に漂泊(ひょうはく)のおん身の上でございます。
新田義貞 この義貞、陛下の臣としての道を全うせんがため、陛下よりのお許しを得て、大敵・北条(ほうじょう)氏に対して、まさに今、立ち向かわんとしております。その目的はといえば、ひとえに朝廷の統治を助け奉り、わが国家全土の人民の生活を安泰(あんたい)ならしめんがためであります。
新田義貞 仰ぎ願わくは、内海(ないかい)、外海(げかい)の龍神八部衆(りゅうじんはちぶしゅう)、私のこの忠義の志を、なにとぞお汲み取りいただき、わが眼前に満つるこの潮(うしお)を、万里のかなたへと遠ざけ、わが軍の前に、一筋(ひとすじ)の進路を開かしめたまえーーっ!
義貞は、至心に祈念込め、腰に佩(は)いている黄金作りの太刀を手に取った。
新田義貞 エェーーイ!
彼は、その太刀を海中へ投じた。(注2)
太刀 ヒューーーー、ザバン!
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(訳者注2)大事な太刀を、龍神にささげたのである。古来から龍神は、「水」に関係する様々の現象をコントロールすると、信じられてきた。
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義貞の志が、龍神に納受(のうじゅ)されたのであろうか、その夜、月が没する頃、
討幕軍メンバーB おい、見ろ見ろ、あれ!
討幕軍メンバーC オオオ・・・。
討幕軍メンバーD 潮が・・・。
討幕軍メンバーE グイグイと・・・。
討幕軍メンバーF 引いていくぅ・・・。
討幕軍メンバー一同 ウオオオ・・・。
それまで干上がる事が全く無かった稲村ヶ崎の海浜底が、20余町にわたって、にわかに海中より現われた。まさに、たぐいまれなる不可思議現象としか、いう他は無い。
義貞の眼前に延々と続く、広い砂浜・・・海上から矢を射かけんと待機していた幕府側の数千の船は、引き潮に押し流されて、沖合いはるか彼方に隔たってしまった。もう、矢は届かない。
義貞は叫んだ、
新田義貞 オオオ・・・海が動いたぁ!
新田義貞 こんな話を聞いたことがあるぞ、「古代中国・後漢(こうかん)王朝の貳師(じし)将軍、城中に水尽き、兵が渇に悩まされるに至り、刀を抜いて岩石に突き差すやいなや、そこから水がにわかに吹き出し」・・・。中国だけじゃぁない、わが国だって・・・神宮皇后(じんぐうこうごう)が新羅(しらぎ)を攻められた時に、自ら珠を取って海上に投げられたとたん、潮が遠く退き、その結果、ついに勝利を納めることができたという。
新田義貞 なぁ、みんな! 今、おれたちの目の前に現れてるこの超常現象(ちょうじょうげんしょう)、和漢の佳例(かれい)、古今の奇瑞(きずい)に、実にまぁよく似てるじゃねぇかよぉ! こうなったらこっちの勝利、もう間違い無しでぃ!
討幕軍メンバー一同 そうだそうだ、勝利、間違い無ぁし!
新田義貞 ついに今、おれたちの前に、道が開けたんだぁ! 鎌倉(かまくら)への道がなぁー!
討幕軍メンバー一同 ウオオーーー!
新田義貞 さぁ、みんな、行けー! 進めぇー、進めぇー、進めぇー!
討幕軍メンバー一同 ウオオオーーー! ウオオオーーー! ウオオオーーー!
新田義貞 鎌倉だぁー!
討幕軍メンバー一同 ウオオオオーーーーー!
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江田(えだ)、大館(おおたち)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、田中(たなか)、羽川(はねかわ)、山名(やまな)、桃井(もものい)家の人々をはじめ、越後(えちご:新潟県)、上野(こうづけ:群馬県)、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、相模(さがみ:神奈川県)の軍勢ら6万余騎は、一団となって稲村ヶ崎の遠干潟を真一文字に駆け抜け、鎌倉の中に突入、幕府側防衛陣の背後に回り込んだ。
敵軍に稲村ヶ崎を突破されて、背後に回り込まれる、というような事態など、想像だにもしていなかった幕府側の大軍勢は、パニック状態に陥った。
彼らは、背後から攻めこんできたこの軍勢に立ち向かおうと、全軍一斉に向きを変えた。そこをすかさず、つい先ほどまで幕府軍の前面に位置していた倒幕軍側の別の勢力が、攻撃をしかけていく。
背後の敵を攻めんとすれば、前方の敵が襲いかかってくる。前方の敵を防がんとすれば、背後の大軍が道を塞いで幕府軍を殲滅(せんめつ)せんと迫ってくる。挟み撃ちになってしまった幕府軍側は進退窮まって東西に迷走し、とてもまともに、防衛戦を展開できないような状態になってしまった。
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幕府軍サイドに、嶋津四郎(しまづしろう)という武士がいた。大力の持ち主にして才能、体格ともに優れた人物。「これは、イザという時に頼りになる男だ」ということで、北条家執事(しつじ)・長崎円喜(ながさきえんき)が烏帽子親(えぼしおや:注3)となり、「嶋津四郎こそは、一騎当千の勇士なり」と、北条家からの信頼が厚かった。
このような人であるがゆえに、「ここが戦の分かれ目という大事な局面になった時に、出陣させよう」というわけで、未だに鎌倉の周囲の口々の守備陣へは派遣されず、北条高時(ほうじょうたかとき)の館の周辺に、待機させられていた。
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(訳者注3)若者が元服(成人式)をする時に、烏帽子親となる者は、若者に烏帽子をかぶらせ、烏帽子名(自分の名の一字)を与えた。
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やがて、「海岸方面の防衛線を敵は突破、すでに若宮小路(わかみやこうじ)にまで、侵入!」との情報が飛び交いはじめ、北条高時(ほうじょうたかとき)の周辺もいよいよ、騒然となってきた。
高時は、嶋津四郎を呼び寄せ、自ら手酌をして彼に酒を勧めた。そして、嶋津が盃を三杯傾けた後、三間四方の厩(うまや)に飼っていた白浪(しらなみ)という名の関東一の名馬に白鞍を置いて、彼に与えた。これを見た者は皆、嶋津をうらやんだ。
北条高時 頼むぜ!
嶋津四郎 ハハッ!
嶋津は、高時邸の門前でこの名馬にひらりとまたがった。
嶋津四郎 ヘヤーッ!
白浪 ヒヒーン!
嶋津四郎は、由比ヶ浜(ゆいがはま:鎌倉市)の浦風に真紅の笠印を吹き翻(ひるが)えし、鎧を着し、七つ武器をきらめかせて当たるを払い、敵陣の真っ只中へと突き進んでいく。これを見る幕府軍の大勢のメンバーたちは、口々に彼を褒め称える。
幕府軍メンバーK あぁ、一騎当千のツワモノとは、まさにアイツのことだなぁ!
幕府軍メンバーL 長崎殿が彼に大いに目をかけてたのも、ムリもない。
幕府軍メンバーM それをカサに着て、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の振る舞いが目についた嶋津だったけど・・・。
幕府軍メンバーN イザって時にゃぁ、これだけの働きすんだもんなぁ、さすがだよ。
倒幕軍メンバーたちも、これを見て、
倒幕軍メンバー一同 ウオオ、すげぇヤツが、出てきやがったなぁ!
栗生(くりふ)、篠塚(しのづか)、畑(はた)、矢部(やべ)、堀口(ほりぐち)、由良(ゆら)、長浜(ながはま)をはじめ、新田一族中の大力の評判高い猛者(もさ)たちが、嶋津と組んで勝負を決しようと、われ先に馬を進めて前線へ出てきた。
「あれを見よ、大力の誉れ高い者どうしの、他人を交えずの一騎打ち」と、両軍もろとも、かたずを呑み、手に汗握り、じっと彼らを凝視する。
ところが何としたことか、嶋津四郎は、馬から飛び下りて兜を脱ぎ、静々と身づくろいを始めた。
幕府軍メンバー一同 なんだ、なんだ?
倒幕軍メンバー一同 いったい、どうしたんだい?
全員いぶかしげに見守る中に、彼は、恥ずかしげもなく降服し、倒幕軍側に加わってしまった。
幕府軍メンバーK なんだ、なんだぁ!
幕府軍メンバーL テヘッ!
幕府軍メンバーM ふざけやがって。
幕府軍メンバーN アイツってヤツぁ、モォ!
その場に居合わせた者は一人残らず、先ほどまでの賞賛の言葉を翻(ひるがえ)し、思う存分、島津の悪口を言いあった。
この嶋津四郎の降服を皮切りに、次々と倒幕軍側への投降者が続出。長年恩顧(おんこ)の郎従、先祖代々奉公の家人たちが、主を棄てて降人(こうにん)となり、親を捨てて敵に付く、いやはや、まことに目も当てられない有様。
およそ源平(げんぺい)威を振るい、互いに天下を争う事も、今日を限りで終結と思われる、今日(こんにち)この場の状況である。(注4)
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(訳者注4)新田氏は清和源氏の流れに連なり、北条氏は桓武平氏の流れに連なる。ゆえに太平記作者は、両者の闘争を「源平の闘争」と表現しているのである。
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付記 稲村ヶ崎について
(1)参考文献
まず、以下の記述内容を考案する際に、参考にした文献を紹介する。
[文献1]:[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]
[文献2]:[中世の村を歩く 石井進 朝日新聞社(朝日選書 648)]
(2)史実なのか、フィクションなのか
新田義貞が太刀を海に投じた後、稲村ヶ崎の海岸に大きな干潮が起こった、という、この超常現象的なできごと、これは、いったい史実なのであろうか、それとも、太平記作者の手になるフィクションなのであろうか?
「干潮の時にタイミングを合わせれば、稲村ヶ崎近くの海中を徒歩で通過して鎌倉へ向かうことは、もしかしたら可能なのでは? 新田義貞率いる討幕軍もそのようにして,
稲村ヶ崎を突破したのでは?」、と考える人もいるだろう。
[文献2] に、明治時代に、坪井九馬氏、大森金五郎氏が、そのような考えに立っての実地検証を行った、とある( 140ページ )。
[文献1]の補注(「巻十」の分)にも、以下のように記述されている。
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「稲村崎の潮流の実況とこの時の戦闘との関係については、早く坪井九馬博士の考察があり、藤田精一博士は「新田軍の進撃は、闇夜中に成功せしに相違なし。・・・二十二日午前三時、四時頃の干潮を利用せしものならんか」といわれた(藤田博士著「新田氏研究」)。また大森金五郎氏がこの稲村崎を実地踏査して、義貞が潮を退けたという太平記の記事の真実性を証明されたことは有名である。」
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また、[文献2] には、最近の研究事例として、磯貝富士夫氏(東京学芸大学付属高校)の、海に足を踏み入れての(4度もの)フィールドワーク調査研究が紹介されている( 148ページ ~ 149ページ)。
(3)石井進氏の考察
では、太平記に記されている[元弘3年(1333)5月21日(旧暦)夜半]の海の潮位は、実際にはどうだったのか?
石井進氏によれば([文献2])、この問題に取り組んだ一人の天文学者がいたのだそうである。小川清彦氏は、相模湾沿岸東部(稲村ヶ崎はこの域内に位置している)の当時の潮位の変動を科学的に算出した。(その研究が行われたのは、「大正の初め」なのだそうである)。[文献2]の145ページに、小川氏の算出による、5月15日 ~ 25日 の潮位変動がグラフ表示されている。
ここで、石井進氏は([文献2])、5月21日の3日前、5月18日(旧暦)の潮位差に注目する。なぜならば、当時の歴史を記した「梅松論(ばいしょうろん)」には、5月18日午後に、新田軍が稲村ヶ崎を突破し、鎌倉の浜に到達した、との記述があるので。
以下、[文献2] 141ページ ~ 144ページ よりの引用である。
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「十八日と二十一日、大した違いはないと思ってはいけない。理科の授業などで習っていると思うが、満月の日の一、二日あとが大潮になる。当時の暦はいわゆる陰暦だから、毎月十五日が満月の日、十八日はまだ大潮に近いのである。天文学者小川氏の計算の図表を見よう。十八日の昼過ぎには平均水位より約七五センチも潮が引くことになっている。だから『梅松論』のいう十八日午後、新田義貞勢が稲村ヶ崎にできた干潟を通過して鎌倉の浜に火をかけた、というのと実にピッタリ一致するのだ。」
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([海上保安庁 潮汐予測] でネット検索することにより、[海上保安庁]のサイトの中にある[潮汐予測]というページにアクセスすることができると思う。1333年の旧暦5月の頃の様々な日付をインプットすると、その日の潮位の変化のシミュレーション値を見ることができる。日付に関しては、旧暦の日付から、ユリウス暦の日付に変換した値を、インプットする必要がある。)
石井進氏は更に、当時の第1級の史料をもとにして、「5月18日」にスポットライトを当てていく。その史料とは、「軍忠状(ぐんちゅうじょう)」である。
(当時、戦の後に武士たちは、「自分はいついつ、これこれのごとくに奮闘いたしました。」という自己申告書、すなわち、軍忠状を、司令官に提出し、恩賞を期待した。)
石井氏によれば、現存するそれら7通のうち、実に5通までもが、「自分は、5月18日に、稲村ヶ崎から鎌倉の前浜で戦った」との申告内容になっているのだそうである。[文献2]の145ページには、それらのうちの1通(新田義貞のサイン入り)の、ナマナマシイ実物写真が掲載されている。
しかし・・・「21世紀の今、歩いて渡れるとしても、当時は不可能だったかも」との疑問を持たれる方もおられると思う。海面の高度は、時代によって変化するから。
全地球規模での温度の長期的な変化とそれに伴う海水面の高さの変動、関東大震災による海底の隆起、等、様々な事を考察しながら、石井氏はこの問題に対しても、真正面からの回答を与えているのであるが、ここではそれを紹介する余裕がない。関心がある方は、[文献2]をご参照いただきたい。
かくして、
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「新田義貞の鎌倉攻め、稲村ヶ崎沖合の干潟からの進撃の物語について、何人かの歴史家や科学者の積み重ねてきた調査研究の跡を私なりにたどり直してみた。その結果、現代人にとっては信じがたい物語だが、意外にもかなりの程度まで事実を伝えた話であることがわかってきた。」
([文献2] 150ページ よりの引用)
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との結論に、石井氏は到達されたのである。
(4)幕府軍側の防御
[文献2]に記されているこれらの内容を読み、積年の疑問が解決された思いがして、私としては実にスッキリした。
しかし、よくよく考えているうちに、これで問題が全て片付いたとは、思えなくなってきた。
その時、鎌倉幕府軍側は、いったい何をしていたのであろうか?
幕府軍側が稲村ヶ崎を完全無防備の状態で放置していた、などとは、いくらなんでも考えがたい。一定量の軍勢を配置していたのでは、と思われる。
配置場所として考えられるのは、稲村ヶ崎近くの海上、そして、稲村ヶ崎の鎌倉側・根元部分(陸上)である。
(4-1)海上の防備
海上の防備については、太平記には([文献1])、
「沙頭(しゃとう)路(みち)狭(せば)きに、浪打涯(なみうちぎわ)まで逆木(さかもぎ)を繁(しげ)く引懸(ひきかけ)て、澳(おき)四五町が程(ほど)に大船(たいせん)共(ども)を並べて、矢倉(やぐら)をかきて横矢(よこや)に射させんと構(かまえ)たり。」
と書かれている。
その後、海に異変が起こり、その防御体勢が無効になってしまった、と書いている。
「其(その)夜の月の入方(いりがた)に、前々(さきざき)更に干(ひ)る事も無(なか)りける稲村崎、俄(にわか)に二十余町干上(ひあがっ)て、平沙(へいしゃ)びょうびょうたり。横矢(よこや)射んと構(かまえ)ぬる数千(すせん)の兵船も、落行(おちゆく)塩(しお)に被誘(さそわれ)て、遥(はるか)の澳(おき)に漂(ただよ)えり。」
元弘3年5月18日(石井氏の説のごとく、21日ではなく18日としてよいと思う)の引き潮は上記に書かれているように、「大船」をも沖に移動させてしまうほどの力を持っていたのであろうか?
「激しい潮流」といえば、鳴門海峡、関門海峡、あるいは、来島(くるしま)海峡を思い起こす。あのような激しい流れであれば、「大船(当時の)」も流されてしまうのかもしれない。しかし、稲村ヶ崎のある場所は海峡ではない、あそこは相模湾である。だから、引き潮の潮流は、とてもゆったりとしたスピードになるのではないだろうか? (長時間かけて、潮がジワジワァ、ジワジワァと引いていく、というイメージ)。
となると、幕府軍側の「大船」は、引き潮の流れに逆らって(人力で船を漕いで)、稲村ヶ崎の海浜近くに依然として陣取り、稲村ヶ崎の海中を徒歩で、あるいは騎馬のまま渡っていく討幕軍側軍勢に対して、激しく矢を浴びせかけることが可能だったのでは?
稲村ヶ崎突破が行われたのが、太平記の言うように夜であったならば、討幕軍側の個々のメンバーの動きを海上からは把握しにくく、揺れる船上から放つ矢は、その多くが無効となり(当たらない)、という状況であったかもしれない。しかし、石井氏の説に従うならば、稲村ヶ崎突破が実際に行われたのは、夜ではなく、午後である。霧がかかっていない限り、幕府軍側からの視界は良好であろう。
討幕軍側は、幕府軍側から射られる矢を、どのようにして防ぎながら、海を渡っていったのだろうか? 盾をずらりと敷きつめて防御壁を造り、その内側を進んでいったのだろうか? 徒歩のメンバーはそのまま歩いて(走って)いくとして、騎馬メンバーは、馬に乗ったままそこを行ったのだろうか、それとも、馬から下り、馬と共に徒歩で行ったのであろうか?
討幕軍側・後方部隊から幕府軍側への、すなわち、陸上から海上へ向けての、(討幕軍側・先鋒部隊を援護するための)援護射撃もあったのかもしれない。ビュンビュン矢が飛んでくる状況下では、幕府軍側も船を陸に接近させることも難しくなり、討幕軍に対しては遠方からの射撃しかできないから、命中率は低くなるだろう。
(4-2)陸上の防備
稲村ヶ崎の鎌倉側・根元部分(陸上)に、幕府軍側の軍勢が配備されていたのだろうか?
もしも配備されていたのであれば、これは相当な防御力があったのでは、と思われる。隘路(狭くなっている場所)を塞ぐような形で陣取れば、大軍の進撃を食い止めることも可能だろうから。(テルモピュライに陣取って、アケメネス朝ペルシア軍に対抗したギリシア軍のように。)
稲村ヶ崎の鎌倉側・根元部分(陸上)が、「隘路」というにはふさわしくないような、防御しにくい地形であるのかどうか、私にはよく分からない。
(5)稲村ヶ崎を突破したのは、何人か?
倒幕軍が稲村ヶ崎を突破して鎌倉に攻め込んだ、というのは、おそらく史実としてよいのだろう。しかし問題は、そこを突破した人数である。下記の2ケースが考えられる。
大軍団編成 : 稲村ヶ崎に集結した倒幕軍の全員が、海を渡った。
コマンド部隊編成 : 稲村ヶ崎に集結した倒幕軍の中から選ばれた少数精鋭のコマンド部隊のみが海を渡り、その他のメンバーたちはそのままそこに待機、あるいは、極楽寺坂切り通しの方面に移動。コマンド部隊は、極楽寺坂切り通しに陣取る幕府軍側の背後に回りこみ、幕府軍を急襲。それに合わせて、倒幕軍は極楽寺坂切り通しを西方から攻撃し、そこを突破し、鎌倉へ。
太平記の記述では([文献1])、[大軍団編成]となっている。
「越後・上野・武蔵・相模の軍勢共、六萬余騎を一手に成(なし)て、稲村が崎の遠干潟(とおひかた)を真一文字に懸通(かけとおり)て、鎌倉中(じゅう)へ乱入(みだれい)る。」
稲村ヶ崎の狭い進軍路を、6万人もの大軍が行ったのでは、全員が通過するにはいったい何時間かかったろうか?
(6)義貞は刀を投げたのか?
太平記にあるような、刀を海に投じて祈願する、というような事を、新田義貞は実際に行ったのだろうか?
これについては、石井氏は、太平記の創作(フィクション)であり、実際にはそのような事は行われていない、としている。([文献2] 150ページ)
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「また海神に剣を捧げて祈ったところ、間もなく海が干上ったというのも、やはり創作に違いない。大潮の干潮時には、稲村ヶ崎沖合に広く岩盤が現れて通行可能になることを、義貞か、あるいは攻撃軍の誰かが知っていて、その時間を見はからって総攻撃をかけ、見事に成功したというのが本当のところであろう。」
([文献2] 150ページより引用)
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しかし、義貞は、パーフォーマンスを行ったのでは、という考え方も、ありうるだろう。例えば、下記のような。
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義貞は実際に、刀を海に投じたのであろう。ただし、それは実のところ[祈願]ではなくて、[演出]、[パーフォーマンス]だったのだ。数時間後に潮が引いて稲村ヶ崎一帯が干上がることを事前に知っており、その自然現象を、全軍の士気を高めるためにうまく利用したのである。「祈願込めて刀投ぜしこの義貞の誠心、みごと海神に通じ、稲村ヶ崎に奇跡起これり! 我々は人間を越える存在、すなわち神の援護をいただいている。かくなるうえは、この戦に我々が勝利すること間違い無し!」とのストーリーを演出したのであろう。
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上記の説が成り立つかどうかには、ある[人数]が大いに関係してくると思う。その[人数]とは、討幕軍中の、[大潮の干潮時には、稲村ヶ崎沖合に広く岩盤が現れて通行可能になる]、ということを知っている人の数である。
もしもその人数が多かったならば、かりに義貞がそのようなパーフォーマンスをやったならば、逆効果になってしまうだろう。
オイオイ、義貞さんのあの刀投げてんの、みえすいたパーフォーマンスやってるだけのことだよぉ! 大潮の干潮の時に、稲村ヶ崎が干上がること、おれたちが知らねぇとでも、思ってんのかねぇ?
こうなると、「あれは、祈願込めてるようで、ジツは単なるパーフォーマンス」という情報は、あっという間に全軍に伝わってしまい、みんな、シラケきってしまい、士気はガタ落ちになってしまうであろう。
しかし、そのような後先の事を一切考えずに、パーフォーマンスをやってしまう、義貞とはまさにそういう人なんだ、との見方も一応はありうる、ありうるのだけど・・・。
ここまで来ると、[新田義貞・性格論]の議論となってしまい、もうこれは収拾がつかなくなってしまうだろう。義貞は、パーフォーマンスなんてやるような人ではない、という考えだって、ありうるだろうし。
磯貝富士夫氏の実地調査によれば、稲村ヶ崎の海底には、中世に通行されていた古道の跡があるという。([文献2]の149ページの地図中に、それが示されている)。
だから、鎌倉やその近辺に住んでいる人々の間では、「大潮の干潮時には、稲村ヶ崎が通行可能となる」という事は、周知の事実であったと考えられる。
そのような人々が、討幕軍側にいったいどれほど参加していたのだろうか?
さきほど紹介した太平記の記述では([文献1])、
「越後・上野・武蔵・相模の軍勢共、六萬余騎を一手に成(なし)て、稲村が崎の遠干潟(とおひかた)を真一文字に懸通(かけとおり)て・・・」
とある。
「相模の」とあるので、もしかしたら、鎌倉の近辺に住んでいる人々も多数、討幕軍側に参加していたのかもしれない。しかし、太平記に書かれている事だから、これも史実としてよいのかどうか、よく分からない。
義貞は実際に海神(龍神)に対して祈願をこめ、刀を投げた、ただし、それは、海神に対して、「どうか、目の前の海を干上がらしてください」との、具体的な願いを込めてではなく、「我々討幕軍がなんとか、目の前にある稲村ヶ崎を突破し、鎌倉へ突入できるよう、どうかよろしくお願いします」、と、(抽象的に、漠然と)祈ったのである
とするセンも、ありうるだろう。
干潮で海水面の水位が低下しても、海が荒れていたのでは、そこを渡ってはいけない。そのような、自軍の進撃の障害となるモロモロの事を全て取り除きたまえ、と海神へ祈りこめたのでは、とも考えられる。
とにかく、この問題を考えれば考えるほど、解決のゴールから遠のいていってしまう感が濃厚である。
現地の海底を、くまなく探査してみる、というのもアリかもしれない。(どこの誰が、どこからどれほどの予算をゲットしてきてやるのか、という問題はさておき)。上等な刀の残骸でも見つかったら、大ニュースになるだろう。でも、その発見は、極めて見込み薄だ。台風が来た時なんかに、どこか他の場所に移動してしまっているかもしれない、あるいは、過去のいつか(例えば戦国時代)に、誰かに拾われてしまっているかもしれない。
(7)更に謎は深まってしまった
以上のように、いろいろと考えてみたが、出口は全く見えてこない。[文献2]を読んで、スッキリしたと思ったが、それはツカノマのことであった。
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