太平記 現代語訳 34-3 吉野朝側、着々と迎撃の準備を整える

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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その当時、吉野朝廷(よしのちょうてい)の帝(みかど)・後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、河内国(かわちこく:大阪府東部)・天野(あまの:大阪府・河内長野市)の金剛寺(こんごうじ)を皇居としていた。

楠正儀(くすのきまさのり)と和田正武(わだまさたけ)は、皇居に参内し、奏上していわく、

楠正儀 畠山国清(はたけやまくにきよ)率いる関東からの軍勢20万騎は、既に、京都に到着しました。

後村上天皇 ・・・。

楠正儀 それのみならず、播磨(はりま:兵庫県西南部)以西の山陽道(さんようどう)、丹波(たんば:京都府中部+兵庫県東部)以西の山陰道(さんいんどう)から、さらには、東海道(とうかいどう)、東山道(とうさんどう)、四国、北陸からも、膨大な数の敵勢力が続々と京都に終結しとりますから、敵側の兵力は、雲霞(うんか)の如くでございましょう。

後村上天皇 ・・・。

吉野朝・閣僚一同 

楠正儀 とはいいましても、今回の戦、結局は、我が方の勝利になるものと、私は確信しとります。その根拠を申し上げすに。

楠正儀 戦においては、三つの重要な要素がございます。いわゆる、「天の時、地の利、人の和」です。これら3要素の中、どれか一つでも欠けた時には、兵力がいくらあっても、勝利は絶対に得られないのであります。

楠正儀 まず、「天の時」、これについて、陰陽道(おんみょうどう)の原理に則(のっとっ)て考察してみますれば・・・明年からは、大将軍(だいじょうぐん)は西方に在り、故に、東方から西方への軍勢移動は、今後3年間の禁忌(きんき)。しかるに、畠山が関東を発進したのは、冬至を過ぎた時点。ゆえに、敵側は、「天の時」を外してしもとるわけです。(注1)

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(訳者注1)原文では、「先づ天の時に付て勘候へば、明年よりは大将軍西に在て東よりは三年塞たり。畠山冬至以後、東国を立て罷上て候。是已に天の時に違れ候はずや」。

ここは明らかに太平記作者の記述ミスである(というよりは、「演出ミス」と言うべきかも)。34-2 には、畠山国清の関東出発を、10月8日としているのだから、彼らが関東を出発したのは、冬至より以前である。
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楠正儀 次に、「地の利」について、見てみましょう・・・我々の陣は、背後には深山が連なっておりまして、敵側は一帯の地理には不案内。しかも、我が陣の前には、大河(注2)が流れとります・・・それを越えるルートは、たった一つだけ・・・そうです、たった一本だけかかっとるあの橋・・・あの橋を越えてくる以外に、敵の進軍ルートはありません。

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(訳者注2)この「大河」が、どの川を指しているのか、訳者には分からない。
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楠正儀 そのような、地の利を確保できる場所であるが故に、過去、度重なる攻撃をことごとく、退けてくる事ができました・・・あの元弘(げんこう)年間の千剣破(ちはやじょう:注3)攻防戦は言うまでもなく、建武年間以降も・・・。

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(訳者注3)7-2 参照。
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和田正武 (指折り数えながら)まずは、細川直俊(ほそかわなおとし)、ほいで、細川顕氏(あきうじ)、さらには、山名時氏(やまなときうじ)、高師直(こうのもろなお)、高師泰(もろやす)・・・今回の遠征軍の大将・畠山国清も、過去に一度、攻めこんできた事があります。

楠正儀 実に、過去6度までも、敵はこの地に攻め寄せ来たって猛勢を振るい、我々に対して戦いを挑んできました。しかしついに、敵は勝利を得る事ができませんでした。寄せ来たるその都度、敵は屍(しかばね)をこの河内の地にさらし、その武名を敗北の陣中に失い・・・。

楠正儀 そのような結末を敵にもたらしめた要因、それはいったい何であったかといいますと、まさに、我々の依拠(いきょ)しておるこの一帯が、防衛戦にとっては極めて適した地形であって、難攻不落の所となっているからであります。

楠正儀 最後に、「人の和」ですが・・・今回の遠征に当たっての畠山の魂胆(こんたん)は、見え透いております・・・ただ単に、幕府の威勢を借りて、恩賞を一人占めしてしまおうというだけの事。故に、仁木(にっき)家や細川家の連中が彼の権威を嫉(そね)むようになっていくのは、当然の成り行き、土岐(とき)や佐々木(ささき)の一族も、畠山の忠賞を妬(ねた)まずにはおれませんでしょう。従って、敵側は、「人の和」をも欠いているという事になります。

楠正儀 天、地、人の三つの要素を、三つ全部欠きながらでは、たとえ数百万の軍勢があったとて、敵側に何ほどの事ができましょうや。敵、恐れるに足らず・・・ただし・・・我が方にも、気がかりな事が一点・・・。

後村上天皇 ・・・。

吉野朝廷閣僚一同 ・・・。(息を呑む)

楠正儀 ここの皇居は、戦場想定地から、余りにも近すぎます。

和田正武 そうです、もうちょっと、奥の方に移ってもろた方が、よろしですわ。

楠正儀 金剛山の奥に観心寺(かんしんじ:大阪府・河内長野市)という寺があります。そこでしたら、皇居にするには絶好でしょう。

和田正武 陛下にそこに遷座(せんざ)していただいたら、もう安心、わてら二人は、心おきのぉ戦う事ができるようになります。まぁ、見といとくなはれ、和泉(いずみ:大阪府南部)、河内の勢力を伴ぉて、千剣破、金剛山にひきこもり、龍山(りゅうせん:注4)、石川(いしかわ:注5)あたりに懸け出て、懸け出て、日々夜々に、敵と戦いまっせぇ!

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(訳者注4)龍泉寺(大阪府・富田林市)の付近の場所。

(訳者注5)大阪府・富田林市、大阪府・南河内郡・河南町の付近の場所。
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楠正儀 湯浅(ゆあさ)、山本(やまもと)、恩地(おんぢ)、贄河(にえかわ)、野上(のがみ)、山東(やんとう)らは、紀伊国(きいこく)守護代の塩治中務(えんやなかつかさ)に付けて、龍門山(りゅうもんざん:和歌山県・紀の川市)と最初峯(さいしょがみね:和歌山県・和歌山市)に陣取らせます。さらに、紀川(きのかわ)べりの学文路(かむろ:和歌山県・橋本市)あたりには、野伏(のぶせり)をくりだして、ひっきりなしのゲリラ戦を展開。そないなったら、あの極めて気短の関東勢の事です、いっぺんに、ネを上げてしまいますでしょう。

和田正武 ネぇ上げて退却しはじめよったら、勝に乗じて、それを追撃。

楠正儀 敵を千里の外に追い散らし、陛下の御運を一気にお開き申し上げたてまつる、今回の戦はまさに、願ったりかなったりの合戦でございます!

このように、事もなげに言い放つ二人の言葉に、

後村上天皇 (内心)うん!

吉野朝閣僚A (内心)いやぁ、たのもしい事、言うてくれるやないかいなぁ。

吉野朝閣僚B (内心)こら、いけるでぇ!

吉野朝閣僚一同 (内心)よーし!

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二人の提案を受け入れて、「すぐに、皇居を観心寺へ遷座」と、決したが、

吉野朝閣僚C 無用の人々を、徒(いたず)に引き連れていかれるっちゅうのんも、ちと、考えもんですわなぁ。

吉野朝閣僚A そやなぁ。

吉野朝閣僚B 随行メンバーは、最小限に絞り込むべきでしょう。

というわけで、伝奏(てんそう)役の上席公卿3人、事務を司る蔵人(くろうど)2人、護持僧(ごじそう)2人、衛府(えふ)の官4、5人のみが、天皇に随行する事になった。

吉野朝閣僚A それ以外の人間は、どこへなりとも暫(しばら)く身を潜(ひそ)め、敵が退散する時を待てと、いうこっちゃ。

かくして、摂政関白(せんしょうかんぱく)、太政大臣(だじょうだいじん)、左右の大将、大納言(だいなごん)、中納言(ちゅうなごん)、七弁(しちべん)、八史(はっし)、五位、六位、後宮の女性方、新参の公卿、内侍(ないし)、更衣(こうい)、上級女官、門跡寺院(もんぜきじいん)僧侶、事務僧に至るまで、あるいは高野山(こうやさん:和歌山県・伊都郡・高野町)、粉川寺(こかわでら:和歌山県・紀の川市)、天川(てんかわ:奈良県・吉野郡・天川村)、吉野(よしの:奈良県吉野郡・吉野町)、十津川(とつがわ:奈良県・吉野郡・十津川村)方面に落ちて、身分低い里人らの元に憂き身を寄せる人もあり、あるいは、志賀(しが)の旧都(滋賀県・大津市)、奈良(なら)の古都(奈良県・奈良市)、さらには京都、白河(しらかわ:京都市・左京区)に立ち帰り、敵勢力の中に紛れこんで魂も消え入らんばかりの生活をしていく事を、選んだ者もいる。

「諸々の苦しみの根本原因は、貪欲(どんよく)にあり」との、み仏の貴いお言葉、今まさにその通りであると思い知られて、まことに哀れな有様である。

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