太平記 現代語訳 32-2 持明院殿、焼失す
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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同年9月27日、京都朝廷(きょうとちょうてい)は改元(かいげん)を行い、年号は「文和(ぶんわ)」に変わった。
10月、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)は、鴨川原(かもがわら)にてみそぎの儀を済ませ、翌月、大嘗会(だいじょうえ)が執行された。
この儀式の執行、スンナリ決まった、というわけでもないようである。
京都朝閣僚A 三種の神器(さんしゅのじんぎ)も無しのまま、ご即位の式までやってしもぉて、ほんまにえぇんかいなぁ。
京都朝閣僚B 同感やなぁ・・・今のままでは、どうにも、形つかんでぇ。
京都朝閣僚多数 ほんま、そうですわ。どだい、ムチャですよ。
京都朝閣僚C そんな事いうたかて、しょうおまへんやろ。幕府の方から、「早いとこ、即位式やってまえー」て、キツウ、言うてきとんですからぁ。
京都朝閣僚多数 ・・・。
京都朝閣僚D まぁまぁ、とにもかくにも、幕府の言う通りに、しときましょいなぁ、ハーア(溜息)。
京都朝閣僚多数 ハーア(溜息)。
このように、「閣議においては異論が多かったのだけれども、結局、執行されることになったのだ」とは、さるスジからの情報である。
京都朝・故実典礼(こじつてんれい)担当者E そもそも、百代の天皇の始めは、ウガヤフキアワセズノミコトの第4皇子・カンヤマトイワアレヒコノミコト、すなわち神武天皇(じんむてんのう)陛下であらせられます。
京都朝・故実典礼担当者F 神武天皇陛下が、大和(やまと:奈良県)の畝傍橿原宮(うねびかしわらのみや)において政治を執り行われてより以来、今上陛下(きんじょうへいか)に至るまで、99代。
京都朝・故実典礼担当者G その間、三種神器無しに帝位を継承される、なんちゅう事は、ただの一度もなかった。
京都朝・故実典礼担当者H 今回のこれはまさに、前代未聞の事ですわなぁ・・・ヒッヒッヒッ・・・。
京都朝・故実典礼担当者I いやはや・・・昨今の世の中はもう、何でもアリの、ムチャクチャでござりまするがな。
京都朝・故実典礼担当者一同 グフフフ・・・。
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後光厳天皇(ごこうごんてんのう) (内心)京都も、やっと静かになったわ。わが帝位も、一応は安泰や。そやけどなぁ・・・。
後光厳天皇 (南方の空を仰ぎながら)(内心)父上・・・叔父上・・・兄上・・・。
後光厳天皇 (内心)みんな、南の山奥に幽閉されておられる・・・きっと、ご苦悩の絶え間の無い事やろなぁ・・・あぁ、自分一人だけが京都でこないにノウノウとして・・・ほんまに心苦しい。
後光厳天皇 (内心)なんとかして、敵の手から、救出させていただきたいなぁ。
陛下も様々に手だてをめぐらしたが、光厳上皇(こうごんじょうこう)、光明上皇(こうみょうじょうこう)、崇光先帝(すうこうせんてい)の周囲は、吉野朝廷側の警護が非常に厳しく、手の出しようがない。その後ようやく、梶井門跡・尊胤法親王(かじいもんぜき・そんいんほっしんのう)殿下のみ、なんとか救出する事ができた。
同年10月28日、皇太后(こうたいごう)・陽禄門院(ようろくもんいん)が亡くなった。
天下一斉に服喪(ふくも)となり、京都中、3か月間の歌舞音曲(かぶおんきょく)一切自粛、御所も皇后宮(こうごうきゅう)もことさらに、ものの哀れのつのる毎日である。
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翌・文和2年2月4日、失火によって、上皇の御所・持明院殿(じみょういんでん)が、あっという間に焼失してしまった。
火事は、しょせん天災で尋常(じんじょう)の事、それでもって、どうこうというものでもない。
しかしながら、近年これほど続けざまに、京都中の寺社や宮殿が焼失してしまい、残っている物はほとんど無し、となると、どう見ても、タダ事とは思えない。これもまた、仏法滅亡(ぶっぽうめつぼう)の因縁(いんねん)、王城衰微(おうじょうすいび)の兆候(ちょうこう)と言う事であろう。
元弘(げんこう)年間の戦、あるいは建武(けんむ)年間の戦からこの方、火災を被った場所をリストアップしてみると:
まずは内裏(だいり)、そして、馬場殿(ばばどの)、准皇(じゅこう)の御所、恒明親王(つねあきしんのう)の常盤井殿(ときわいどの)、兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)の二条(にじょう)の御所、宣光門女院(せんこうもんにょいん)の旧宅、城南離宮(せいなんりきゅう:伏見区)の鳥羽殿(とばでん)、竹田(たけだ:伏見区)近くの伏見殿(ふしみでん)、十楽院(じゅうらくいん:東山区)、梨本(なしもと)、青蓮院(しょうれんいん:東山区)、妙法院(みょうほういん:東山区)の白河殿(しらかわでん)、大覚寺(だいかくじ:右京区)の旧跡、洞院公賢(とういんきんかた)の邸宅、西園寺公経(さいおんじきんつね)の邸宅、吉田定房(よしださだふさ)の邸宅、近衛殿(このえでん)、小坂殿(こさかでん)、為世卿(ためよきょう)の和歌所(わかどころ)、大覚寺の御山荘(ごさんそう)、三条大納言(さんじょうだいなごん)の住み馴れし毘沙門堂(びしゃもんどう)、頼基(らいき)の天の橋立(あまのはしだて)の旧跡、塩釜(しおがま)の浦を模した河原院(かわらいん)、具平親王(ともひらしんのう)の古をしのんで建てた花園(はなぞの)、源融(みなもとのとおる)の跡をしのんで建てた千種宰相(ちぐささいしょう)の新亭。その他、五位以下の人々の家ともなると、もう数えあげようがない。
天皇の御所、上皇の御所、皇族方の屋敷、大臣・公卿の邸宅以下、なんと総計320余箇所もが、この戦乱の期間中に焼失してしまっているのである。
仏閣霊験(ぶっかくれいけん)の地においても同様である。法城寺(ほうじょうじ:東山区)、法勝寺(ほっしょうじ:左京区)、長楽寺(ちょうらくじ:東山区)、清水寺(きよみずでら:東山区)の6僧坊、双林寺(そうりんじ:東山区)、革堂行願寺(こうどうぎょうがんじ:現中京区)、慶愛寺(けいあいじ:位置不明)、北霊山(きたりょうぜん:東山区)、西福寺(さいふくじ:位置不明)、宇治(うじ:京都府宇治市)の平等院(びょうどういん)の経蔵(きょうぞう)、浄住寺(じょうじゅうじ:西京区)、六波羅(ろくはら)の地蔵堂(じぞうどう:東山区)、紫野(むらさきの:北区)の寺(詳細不明)、東福寺(とうふくじ:東山区)、建仁寺(けんにんじ:東山区)内の雪村友梅(せっそんゆうばい)の塔頭(たっちゅう)・大龍庵(たいりゅうあん)、夢窓疎石(むそうそせき)建立の天龍寺(てんりゅうじ:右京区)に至るまで、禅宗寺院、律宗(りっしゅう)寺院、朝廷の祈祷所(きとうしょ)など、30余箇所の仏閣も皆、この間に焼け落ちてしまっている。
かくして、東山(ひがしやま)、嵯峨野(さがの:右京区)、京都中心部、白河(しらかわ:左京区)一帯は、民家もまばら、寺院も数少なくなってしまい、盗賊は巷(ちまた)に満ち満ち、往来の道中にも危険が伴う。
寺院から聞こえてくるホラ貝や鐘の音もかすか、というこのような状態の下では、無明(むみょう)の眠りからは人心醒(さ)め難し、という他はない。
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