太平記 現代語訳 34-9 平石城・攻防戦

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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今川範氏(いまがわのりうじ)、佐々木氏頼(ささきうじより:注1)、その弟・山内定詮(やまのうちさだのり:注1)は、龍泉峯城(りゅうせんがみねじょう:注2)の攻略に遅れを取ってしまった事があまりにも悔しいので、わざと他家の軍を交えずに500余騎を率いて同日夕、平石城(ひらいわじょう:大阪府・南河内郡・河南町)へ押し寄せた。(注3)

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(訳者注1)32-3 に登場。

(訳者注2)龍泉寺(大阪府・富田林市)の付近の場所。

(訳者注3)吉野朝側の平石城への軍勢配備については、34-4 を参照。
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城を守備する側と、たった一回矢を合わせるやいなや、攻撃側は、城内への突入を試みた。

先に進み行く者の盾裏の横木を踏み、兜の鉢を足がかりにして高い切岸を上り、木戸や逆茂木を次々と切り破り、討たれる者をも構わず、負傷者をもかえりみず、全員、我先に城へ突入。

この猛攻には、吉野朝側も到底、抵抗しきれない。その日の夜半頃、全員、城を脱出し、金剛山(こんごうさん:大阪府-奈良県 境)目指して落ちていった。

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龍泉峯、平石と、吉野朝側の2つの拠点を、次々とあっけなく落とせてしまったので、足利軍側は勝ちに乗って龍が水を得たがごとく、和田(わだ)・楠(くすのき)側は、気力を失い、魚が泥の中であえぐがごとしである。

足利軍メンバーA (内心)このチョウシで行ったら、赤坂城(あかさかじょう:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)が落ちる日も近いぞぉ。

足利軍メンバーB (内心)あっという間に攻め落しちゃってぇ、あっち側の天皇、生け捕りにしちまうんでぃ!

足利軍メンバーC (内心)三種神器(さんしゅのじんき)を取りあげて、京都の朝廷へお返ししようじゃぁないの!

足利軍メンバーD (内心)もう、勝負は決まったね!

世間の声E ついに、天下は静まって、幕府の政治権力、確立ですか・・・。

世間の声一同 どうも、そないなカンジですわなぁ。

龍泉峯城、平石城が落ちてしまった今となっては、もはや、八尾城(やおじょう:大阪府・八尾市)の維持も不可能、和田・楠側に残された拠点は、赤坂城だけになってしまった。

足利軍リーダーF 赤坂城ねぇ・・・あの城の構え、まぁ見てよ・・・どう考えたって、そんな大した防衛力があるとは思えないな。

足利軍リーダーG あれはさ、和田と楠がね、自分らの本拠地をおれたちに簡単に蹂躪(じゅうりん)されてはたまらんってんで、あわててこさえた城なんだ。

足利軍リーダーH イッパツ攻めりゃぁ、あっという間に落ちるぜぃ。

というわけで、足利軍全軍合体して20万騎、5月3日の早朝に、赤坂城へ押し寄せた。

城の西北方向30余町ほどの場所に、全軍を展開して陣を取り、まず、向かい城を築いた。

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楠正儀(くすのきまさのり)という人は、一見思慮深いように見えてその実、敵と激しく渡りあうだけの気力に欠ける所があった。(注4)

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(訳者注4)太平記作者は、楠正儀に対して、あまり好意的ではないようである。他の箇所にも、正儀に対する批判の言葉が記されている。知名度の高い人を親や兄弟に持ってしまった人というのは、いろいろとタイヘンなものだなぁ、なにかにつけ、比較されてしまうから。
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楠正儀 あんな大軍相手に戦うやなんて、とうていムリやがな。ここはとにかく、金剛山の奥へひっこんでで、じっと隠れとくのが得策やろう。

和田正武(わだまさたけ) ・・・。

楠正儀 山奥へじっと身を潜めて、敵にスキあらば、その時に、再び戦うんや。

正武は、正儀とは真逆(まぎゃく)、常に戦う事を先行、謀略を構える事を良しとせぬ性格であった。

和田正武 あかん、あかん! そんな弱気な事で、どないすんねん!

楠正儀 ・・・。

和田正武 敗北は戦の常、負けたかて、別にどうて事ないやんけ。ただただひたすら戦うべき時に、戦わずして身を慎む、そないな事しとったんでは、武士の恥じゃ!

楠正儀 ・・・。

和田正武 そないな事しとったんではなぁ、日本国中の武士らに、笑いもんにされてまうどぉ、「あれ、見てみいや、あいつら! 日本全国の武士らを敵に回しといてやで、いざ戦うとなったら、毎度毎度のゲリラ戦しか、よぉしよらんやんけぇ、ざまぁ、見さらせぇ、ワッハッハァ」! そないな事言われて、おまえ、悔しぃないかぁ?!

楠正儀 なら、どないすんねん? どうやって戦うっちゅうねん?

和田正武 おれなぁ、いっちょ、夜討ちかけたろ、思ぉとんねんやんかぁ。太刀の束(つか)まで微塵(みじん)に砕け散るくらい、思いっきり、敵と切りあいしてな、ほいで、敵が散りじりになって退却しよったら、すかさず、勝ちに乗って追撃やぁ! バァンバン、敵、やっつけてもたんねん!

楠正儀 ・・・(首を左に傾げながら、微かに笑み)・・・もしそこで、敵が退いてくれへんかったら?

和田正武 その時は、しゃぁないわなぁ、ハハハ・・金剛山の奥へ引きこもって戦うわいな。

楠正儀 ・・・(首を右に傾げながら、考え込む)。

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和田正武は、夜襲のベテラン300人を選抜した。

和田正武 えぇな! 今夜、夜襲を決行や!

和田コマンド部隊メンバー一同 オィッス!

和田コマンド部隊メンバーI で、タイショウ、合言葉(あいことば)は、なんやぁ?

和田正武 合い言葉は・・・問われたら、そく、「タケシ(武)」と答える。

和田コマンド部隊メンバー一同 オィッス!

彼らはじっと、夜の到来を待った。

時は5月8日の夜、月は宵頃に没してしまい、あたりは暗闇に包まれた。

和田正武 よぉし、行くぞ!

和田コマンド部隊メンバー一同 オィッス!

彼らは、一団となって夜陰の中を進み、足利サイド・結城(ゆうき)軍が築いた向城の木戸口に忍び寄った。

和田正武 エェーイ! エェーイ!

和田コマンド部隊メンバー一同 ウオーーー!

和田部隊のトキの声を聞いて、他の軍の陣は大騒ぎを始めたが、結城軍は少しも騒がず、なりをひそめて、和田部隊の襲撃を待ち構えた。

結城軍リーダーJ よぉし、撃てぇーッ!

結城軍メンバーの弓 ビュンビュンビュンビュン・・・。

結城軍の射手たちは、櫓(やぐら)の矢狭間(やはざま)を一斉に開き、さしつめ引きつめ、和田軍の頭上に、矢の雨を浴びせた。

刀を取る者たちは、垣盾(かいだて)や逆茂木(さかもぎ)を隔て、着実なる防衛戦を展開、上がってくれば切って落し、越えてくれば突き落し、ここが勝負の分かれ道と、必死の戦闘。

和田正武は、全軍の先頭切って、しゃにむに城に切り込んでいく。

和田正武 おまえら、いつも言うとるわなぁ、「命なんか、100でも200でも、ポンポン捨てたるわい」てぇ! その言葉、忘れんと、全員、おれについて来いよぉ!

和田コマンド部隊メンバー一同 オゥィーーッスゥーー!

正武は、結城軍の垣盾を切って引き破り、一枚盾を身に引き付けながら持ち、城の中へ飛び込んだ。

コマンド部隊メンバー300人も続々、正武の後を追って城内へ突入していく。

兜の鉢を傾け、鎧の袖をゆり合わせゆり合わせ、そこかしこで、結城軍と壮絶な切り合いを展開、天地を揺るがし、火花を散らす。

互いに、おめき叫んで斬り合うこと、およそ1時間、結城軍700余人はついに戦い屈し、敗色濃厚となってきた。

その時、細川清氏(ほそかわきようじ)率いる500余騎が、和田部隊の後方につめよってきた。

細川清氏 おぉい、結城の諸君! 退(ひ)くなよぉ! 退いちゃいかんぞぉ! この清氏が今、敵の後に攻めかかったからなぁ! もう大丈夫だ、退くなよぉ、退くなよぉ!

これに力を得て、結城軍の鹿窪十郎(かのくぼじゅうろう)、富澤兵庫助(とみさわひょうごのすけ)、茂呂勘解由左衛門尉(もろのかげゆざえもんのじょう)の3人が、そこに踏みとどまって戦った。

和田部隊の側も、既に数十人が戦死、負傷者多数の状態である。

和田正武 (内心)限界やなぁ・・・。

和田正武 よぉし、退却!

和田コマンド部隊メンバー一同 オィッス!

和田部隊は、城の一方の垣盾を踏み破り、一斉に退却を開始した。

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結城軍・若党集団中に、物部次郎(もののべじろう)他、うでのたつ者ぞろいの4人のグループがあった。

かねてより、この4人は、「もしも敵が夜襲をしかけてきたら、4人そろって、退却する敵の中にまぎれ込み、そのまま、赤坂城の中へ入ってしまおう。それから後は、和田、あるいは楠と相打ちして死ぬか、それがダメなら、城に火をかけて焼き落とすかだ。」と、約束していた。

4人はその約束通りに、退いて帰る和田部隊に紛れ込み、赤坂城内へ入る事に成功した。

夜討ちや強盗から帰ってきた時には、「立勝(たちすぐ)り居勝(いすぐ)り」という事を行う。これは、あらかじめ決めておいた2個の合言葉をリーダーが任意に発し、それに応じて、メンバー全員がサッと立ったり、サッと座ったりするのである。このようにして、紛れ込んできた敵を発見する事ができるのだ。(注5)

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(訳者注5)紛れ込んできた者は、その2個の合言葉を知らないから、リーダーの発する合言葉に対して、正しく対応できない。
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赤坂城に帰還の直後、和田コマンド部隊は、四方に松明(たいまつ)をかざして、その「立勝り居勝り」を行った。

紛れ込んできた結城サイドの4人は、このような事に馴れてはいなかったので、簡単に見破られてしまった。大勢の中にとりこめられて、哀れ、4人共に討死、歴史の中に名を留める事になった。

世間の声K 「天下一の剛の者」とは、まさに、彼らの為にある言葉でしょうなぁ・・・。

世間の声一同 同感、同感。

和田正武のこの夜襲をもってしても、足利軍側はただの一陣も退かず、もはや、赤坂城の維持さえも不可能と思えてきた。

楠正儀 なぁ、もうムリやろぉ?

和田正武 ・・・。

楠正儀 これ以上、ここにこもって、敵を防ぐのん、もうムリやでぇ。

和田正武 そうやなぁ・・・。

というわけで、その夜半、和田と楠は、赤坂城に火を放ち、金剛山の奥へ退いた。

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