太平記 現代語訳 25-3 楠正行、決起す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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湊川(みなとがわ:神戸市・兵庫区)での楠正成(くすのきまさしげ)の死の後の、その子・正行(まさつら)の人生は、「父の遺志の実現」というただ一点のみに捧げられてきた、と言っても過言ではない。

楠正行 (内心)あの時、父上は言われた・・・。

 「わしは思う所あって、今度の戦に必ず討死にすることになるやろ。おまえは河内(かわち:大阪府東部)へ帰って、陛下(注1)に忠誠を尽くせ! この先々、陛下がたとえどのような状態になられようとも、最後の最後までご奉公したてまつれ。」

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(訳者注1)後醍醐天皇。
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楠正行 (内心)父上のそのお言葉、おれは、今日まで片時も忘れた事はない。

楠正行 (内心)父上のそのご遺志にお応えせんがため、自分が一人前の武士になる日をじっと待ちながら、おれは今日まで生きてきた・・・湊川で討死にしたもんらの子孫のめんどうを見ながらな。

楠正行 (内心)なんとしてでも、父上の仇(かたき)を滅ぼし、陛下の憤りを休めたてまつろう! 明けても暮れても、そればっかし思い続けてきたわ、肺や肝が痛ぉなってしまうほどな。

楠正行 (内心)「光陰(こういん)矢のごとし」とは、よぉ言うたもんや・・・今年はもう父上の13回忌・・・おれも25歳(注2)に・・・。

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(訳者注2)楠正行の生年については諸説あり、ここにある年齢が史実かどうかは、定かではないようだ。
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楠正成の13回忌法要を営み、仏への供養、僧への布施など、諸々の作善(さぜん)を念願のごとく了(お)えた後、

楠正行 よぉし、もうこれで、思い残す事は何もの(無)ぉなった! わが命も惜しぃない! さぁー、いぃよいよ、父上の弔い合戦、始めたろやないかい! やるでぇ、やるでぇぃー!

正行の活動が始まった。

楠軍500余騎を率い、しばしば、住吉大社(すみよしたいしゃ:大阪市・住吉区)や天王寺(てんのうじ:天王寺区)周辺にうって出ては、中島(なかじま:北区・中之島)の家を少々焼き払い、といった風に、足利幕府への挑発を繰り返した。

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その報告を受けた将軍・尊氏(たかうじ)は、

足利尊氏 ・・・ふーん・・・あの楠正成の遺児、正行がなぁ・・・。

幕府リーダーA はい、幕府への挑発を繰り返しております。いかがいたしましょう?

足利尊氏 ・・・それほど大した勢力でもないんだろう?・・・楠は・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・楠勢に辺境部を侵略されたまま放置しておいたんでは、京都の住民らもパニックに陥ってしまうだろう・・・だいいち、あんな連中らひとつシマツできないようじゃぁ、我らは天下のワライモノ、武将の恥、という事になるよなぁ・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・よし・・・急ぎ馳せ向かって、退治しろ。

幕府リーダー一同 ハハ!

というわけで、細川顕氏(ほそかわあきうじ)を大将とし、宇都宮貞綱(うつのみやさだつな)、佐々木氏頼(ささきうじより)、長左衛門(ちょうのさえもん)、松田次郎左衛門(まつだじろうさえもん)、赤松範資(あかまつのりすけ)、その弟・赤松貞範(あかまつさだのり)、村田(むらた)、楢崎(ならさき)、坂西・坂東(ばんせい・ばんとう)の者たち(注3)、菅家(かんけ)一族ら、計3,000余騎が、河内国へ派兵されることになった。

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(訳者注3)徳島県・板野郡の武士たち。
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京都朝年号・貞和3年(1347)8月14日正午、足利幕府軍は藤井寺(ふじいでら:大阪府・藤井寺市)に到着した。

幕府軍リーダーB ここから楠の館までは、まだ7里もあるよなぁ。

幕府軍リーダーC 楠が急にこちらに向かってきたとしてもさぁ、着くのは明日かあさってくらいになるんじゃぁねえの?

幕府軍リーダーD 今日は、ゆっくり休んどっても、大丈夫ということやわな。

幕府軍リーダーE 今のうちに、鋭気をたっぷり養うとするかい。

このように油断して、ある者は鎧を脱いで休息し、ある者は馬から鞍を下ろして休んでいたところに、いきなり誉田(こんだ:大阪府・羽曳野市)の八幡宮の後方の山陰から、700余騎ほどが現われた。全員、兜をかぶり、しずしずと馬を進めて接近してくる。

幕府軍リーダーB あっ、あれは・・・。

幕府軍リーダーC 菊水(きくすい)の旗!

幕府軍リーダーD 楠軍や!

幕府軍リーダーE 敵が押し寄せてきよったぞ、早ぉ馬に鞍つけんかい!

幕府軍リーダーF なにボヤボヤしてやがる、みんな早く、鎧つけろい!

パニック状態に陥っている幕府軍をみすました正行は、

楠正行 行くぞぉー!

楠軍メンバー一同 ウォーッ!

全軍の真っ先かけて、正行は幕府軍陣中に突入。

幕府軍大将の細川顕氏は、今ようやく鎧を肩にかけた状態、上帯もまだ締めれてなく、太刀を佩く余裕もない。

何とかして大将を守ろうと、村田一族6人が、鎧無しの腹当て、こて、すね当てのみの武装のまま、そこにいた馬にてんでにまたがった。彼らは、雲霞のごとく群がり押し寄せる楠軍のまっただ中へ懸け入り、火花を散らして戦う。しかし、それに続く幕府軍側メンバーは一人もいない。大勢の中に取込められ、村田一族6人全員、一所にて討たれてしまった。

その間に、細川顕氏の武装もようやくととのった。

顕氏は、馬にまたがり、自分に従う100余騎を率いて体勢を立て直し、必死の抗戦を行う。

細川顕氏 敵は小勢(こぜい)、こちらは大勢(おおぜい)! ひるむな、退くな! 戦え、戦え!

前へ進んで楠軍と懸け合わせるまでの事はできずとも、せめて、引き退く者さえいなかったならば、この戦、幕府軍側が負けるはずがない。しかしながら、悲しいかな、四国地方や中国地方から寄せ集めた木の葉のような武者集団、防戦に必死の前衛をさておいて、後陣の方は全員、馬に捨て鞭を打って、ひたすら退くばかり。

こうなってしまうと、万事休す、大将、猛卒といえども、右にならえで退却する他どうしようもない。

楠正行 敵はビビッとるぞぉ、行け、行け、ガンガン行けぇー!

楠軍メンバー一同 イったれぇー! ウォーッ! ウォーッ!

怒涛(どとう)のごとき楠軍の追撃に、天王寺や渡部(わたなべ:位置不明)のあたりで、大将の細川顕氏までもが危うくなってきた。大将を救うために反撃を試みた、佐々木氏頼の弟・佐々木氏泰(うじやす)は、討死にしてしまった。

赤松範資・貞範兄弟率いる赤松軍300余騎は、名誉のために戦死せんと、とっては返し、とっては返し、7度、8度と踏みとどまって、楠軍に立ち向かった。しかし、彼らも次々と倒れていく。そして、楢崎主従3騎、討死、粟生田小太郎(あわたこたろう)も馬を射られて討死。

しかし、この赤松軍の度々の反撃が効を奏し、楠軍は深追いするのを差し控えた。

かくして、幕府軍は、大将も士卒も危うく命を拾い、京都に戻ってきた。

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