太平記 現代語訳 2-4 日野俊基、再び鎌倉へ連行される

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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先年、土岐頼貞(ときよりさだ)が討たれた際に、日野俊基(ひのとしもと)は逮捕され、鎌倉まで連行されたが、幕府高官たちの前で様々に巧みに申し開きをし、彼らの納得を得て、なんとか赦免されたのであった。

ところが、今回取り調べを受けた僧侶たちの白状の中に、「倒幕運動の首謀者は俊基」の一文があった。

7月11日(注1)、彼は再び六波羅庁の囚われの身となり、鎌倉へ連行されることになった。

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(訳者注1)ここを、太平記の原文の文脈のままに読むと、元徳2年の7月、となるが、史実においては、その翌年(1331)となる。
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「再犯不赦(注2)」と、法令に定められているから、今度ばかりはどのように申し開きをしてみても、決して許される事はありえない。鎌倉への道中にて命奪われるか、鎌倉に到着してから斬られるか、二つに一つと覚悟して、俊基は京都を出発した。

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(訳者注2)同じ犯罪を2度犯した者は、絶対に許さずに罰する、という意味。

(訳者注3)以下の「道行き文」中に、京都より鎌倉へ至る道筋に点在する地名が次々と現れる。
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 落花の雪に 踏み迷う 片野(かたの)の春の 桜狩(さくらがり)
 紅葉(もみじ)の錦を 衣(き)て帰る 嵐の山(嵐山)の 秋の暮れ
 一夜(ひとよ)を明かす 程(ほど)だにも 旅宿(たびね)となれば 懶(ものう)きに
 恩愛(おんあい)の契り 浅からぬ 我(わ)が故郷(ふるさと)の 妻子をば
 行末(いくえ)も知らず 思い置(お)き 年久(としひさ)しくも 住(す)み馴(な)れし
 九重(ここのえ)の 帝都(ていと)をば 今を限りと 顧(かえり)みて
 思わぬ旅に 出で玉(たも)う 心の中ぞ 哀れなる

 憂(う)きをば留(と)めぬ 相坂(おおさか 逢坂)の 関の清水に 袖濡れて
 末は山路(やまじ)を 打出(うちで)の浜 沖を遥かに 見渡せば
 塩ならぬ海に(注4) こがれ行く 身を浮舟(うきふね)の 浮き沈み
 駒(こま)も轟(とどろ)と 踏み鳴らす 勢多(せた 瀬田)の長橋(ながはし) 打(う)ち渡(わた)り
 行向(いきこう)人に 近江路(おうみじ)や(注5)

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(訳者注4)琵琶湖は淡水の湖なので、このように表現した。

(訳者注5)行き向う人に「会う」の「あう」と、「近江路(おうみじ)」の「おう」を、かけている。
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 世のうねの野に(注6) 鳴く鶴も 子を思うかと 哀(あわ)れなり
 時雨(しぐれ)もいたく 森山(もりやま:注7)の 木下露(このしたつゆ)に 袖ぬれて
 風に露散(つゆち)る 篠原(しのはら:滋賀県・野洲市)や 篠(しの)分(わ)くる道を 過ぎ行けば
 鏡の山(かがみのやま:注8)は 有りとても 泪(なみだ)に曇りて 見え分(わ)かず
 物を思えば 夜間(よのま)にも 老蘇森(おいそのもり:滋賀県・近江八幡市安土町)の 下草に
 駒を止どめて 顧(かえ)りみる 古郷(ふるさと)を雲や 隔(へだ)つらん
 
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(訳者注6)「世の憂(うれ)い」の「う」と、地名の「うねの野」の「う」を、かけている。
 
(訳者注7)「時雨が漏(も)る」の「もる」と、地名の「守山(もりやま)」(滋賀県・守山市)の「もり」を、かけている。

(訳者注8)鏡山。
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 番馬(ばんば) 醒井(さめがい) 柏原(かしわばら) 不破(ふわ)の関屋(せきや)は 荒れ果てて(注9)
 猶(なお)もる物(もの)は 秋の雨の いつか我が身の 尾張(おわり:注10)なる
 熱田(あつた)の八剣(やつるぎ)(注11) 伏し拝み 塩干(しおひ)に今や 鳴海潟(なるみがた:注12)
 傾(かたぶ)く月に 道見えて 明けぬ暮れぬと 行く道の
 
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(訳者注9)[番馬]、[醒井]、[柏原]は、滋賀県・米原市にあり。[不破関]は、岐阜県・不破郡・関ケ原町にあった。

(訳者注10)国名の「尾張」の「おわり」と、「わが身の終わり」の「おわり」を、かけている。

(訳者注11)名古屋市・熱田の八剣社。

(訳者注12)「塩干に今やなる」の「なる」と、「鳴海潟」の「なる」を、かけている。[鳴海潟]は、名古屋市・緑区・鳴海エリアの付近の海岸であり、この時代には、干潟が広がる遠浅の海岸であったようだ。
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 末はいずくと 遠江(とおとうみ:注13) 浜名(はまな)の橋の(注14) 夕塩(ゆうしお)に
 引く人も無き 捨て小船(おぶね) 沈むはてぬる 身にしあれば
 誰か哀れと 夕暮れ(ゆうぐれ)の 入逢(いりあい:注15)鳴(な)れば 今はとて(注16)
 池田(いけだ)の宿(静岡県・磐田市)に 着き給う

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(訳者注13)「末はいずくと、問う(とう)」の「とう」と、国名の「遠江(とおとうみ)」の「とお」を、かけている。

(訳者注14)[浜名の橋]に関しては、後述した。

(訳者注15)夕暮れ時に寺でつく鐘。

(訳者注16)「哀れと言う」の「いう」と、夕暮れの「ゆう」をかけ、「入逢(時刻)なれば」の「なれ」と、「入逢(の鐘)鳴(な)れば」」の「なれ」とをかけている。
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元暦(げんりゃく)元年の頃であったろうか、平重衡(たいらのしげひら:注17)が、源氏の武士達の囚われの身となり、関東へ連行される途中、この宿についた時に、

 東路(あぢまじ)の いやしい小屋の おそまつさ ふるさとさぞや 恋しかろうに

 (原文)東路の 丹生(はにゅう)の小屋の いぶせきに 古郷いかに 恋しかるらん

と、宿場の長の娘が詠んだという。その古の哀れさが思い出され、俊基の胸に迫りくる。

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(訳者注17)平清盛の息子。
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旅館の燈火が幽(かすか)となり、一番鶏が鳴いて夜が明け、一頭の馬は風にいななく・・・。

天竜川(てんりゅうがわ)を渡り、小夜の中山(さよのなかやま:注18)を越え行けば、白雲は路を埋み来たり、そことも知らぬ夕暮れに、故郷の方の空を望み見る・・・。

その昔、かの西行法師(さいぎょうほうし)が、

 年とって 再び越えると 思わなんだ 命ありてか 小夜の中山

と、詠じつつ(注19)、二度目の山越えをした事跡までもが、うらやましく思えてくる。

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(訳者注18)静岡県の掛川市と島田市の境にある峠。

(訳者注19)西行は歌人として当時から有名な人であり、新古今和歌集には、彼の詠んだ歌が多く選ばれている。ここの箇所は、原文では、「昔西行法師が、「命也けり」と詠じつつ、二度越えし跡までも、浦山敷(うらやまし)くぞ思はれける」となっている。「命也けり」は、「年たけて 又越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」の歌の事を意味している。
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時は駆け足で過ぎ去っていく・・・もう正午。

俊基を護送する輿(こし)は、昼食休憩のために、ある家の庭先にとめられた。彼は、車の轅(ながえ)を叩いて、護送担当の武士を呼びよせた。

日野俊基 ここの宿場の名前は?

護送担当の武士 「菊川(きくがわ)」といいます。

日野俊基 あぁ、ここがあの、「菊川宿」(静岡県島田市)なんか・・・。

葉室光親(注20)は、承久の乱(じょうきゅうのらん)の際に、討幕の上皇命令書を起草した罪に問われ、鎌倉へ連行された。途中、彼はこの宿で殺害されてしまったのである。その時、彼が残した詩、

 その昔 中国南陽の菊水の水 下流にて飲み 長寿を得る
 今この時 東海道の菊川 西岸に宿って 命終わる

 (原文)昔南陽県菊水 汲下流若而延齢 今東海道菊河 宿西岸而終命

日野俊基 (内心)あぁ、その遠い昔の筆の跡、今は我が身の上の事に、なってしもぉたんやなぁ・・・。

哀感、胸に迫り来たり、俊基は、一首の歌を詠んで、宿の柱に書きつけた。

 古(いにしえ)も かかる例(ためし)を 菊川の 同じ流れに 身を沈めるか(注21)

 (原文)古も かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をや沈めん
 
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(訳者注20)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]と、[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注によれば、菊川でこの詩を書いたのは、別の人であるとのことである。

(訳者注21)「ためしを聞く」の「きく」と、地名の「菊川(きくがわ)」の「きく」を、かけている。自分(俊基)も、この詩を書いた人と同じことになってしまうのだろうか、との悲しみを詠んでいる。
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大井川(おおいがわ:注22)を渡る時、京都の嵐山を流れる大堰川(おおいがわ)と同じ名前を聞き、

日野俊基 (内心)大堰川かぁ・・・思い出すなぁ・・・あこの亀山殿(かめやまでん)に陛下が行幸されたあの時・・・嵐山の桜は満開やった。大堰川に、龍頭・鳥頭セットになったる遊覧船を浮かべの、詩歌管弦の宴に侍ったんやった・・・もう、あぁいう事も、二度と見れへん夜の夢に、なってしもぉたなぁ・・・。

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(訳者注22)静岡県西部を流れる大河。遠江国と駿河国の境である。
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島田(しまだ:静岡県島田市)、藤枝(ふじえだ:静岡県藤枝市)を過ぎて・・・

 岡辺(おかべ:注23)の真葛(まくず) 裡枯(うらが)れて 物かなしき 夕暮れに
 宇都(うつ)の山辺(やまべ)を 越え行けば 蔦(つた)楓(かえで)いと茂りて 道もなし

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(訳者注23)「岡辺(岡のほとり)」と、地名の「岡部」(静岡県藤枝市)を、かけている。
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昔、在原業平(ありわらのなりひら:注24)が、安住の地を求めて関東に下る途中に、ここで詠んだという、

 「夢にも人に 逢(あ)わぬなりけり」(注25)
 
の歌は、なるほど、こういう雰囲気の中で詠まれたのであったかと、思い知られた。

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(訳者注24)平安時代の高名な歌人。

(訳者注25)駿河(するが)なる うつの山べの うつつ(現実)にも 夢にも人に 逢わぬなりけり
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そうこうするうちに、清見潟(きよみがた:静岡県・静岡市)をも、はや過ぎてしまった。

 都に帰る 夢をさえ 通さぬ波の 関守(せきもり)に
 いとど涙を 催(もよう)され 向かいはいづこ 三穂(みほ:三保)が崎(静岡市)
 奥津(おきつ:興津 静岡市) 神原(かんばら:蒲原 静岡市) 打(う)ち過ぎて 富士の高峯(たかね)を 見給えば
 雪の中より 立つ煙(けぶり) 上(うえ)なき思いに 比べつつ

 明くる霞に 松見えて 浮嶋が原(うきしまがはら:静岡県・沼津市と富士市)を 過ぎ行けば
 塩干(しおひ)や浅き 船浮きて おり立つ田子(たご)の(注26) 自らも
 浮世をめぐる 車返(くるまがえ)し 竹の下(たけのした)道(注27) 行きなやむ

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(訳者注26)「田子(農夫)」と、地名の「田子の浦」を、かけている。[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注によれば、当時、「田子の浦」と呼ばれていたのは、蒲原町の吹上浜の付近なのだそうである。

(訳者注27)「竹の下の道」と、地名の「竹下」(静岡県駿東郡小山町と御殿場市)を、かけている。
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 足柄山(あしがらやま)の 峠より 大磯(おおいそ)小磯(こいそ)を(神奈川県中郡大磯町) 直下(みお)ろして
 袖にも波は こゆるぎの 急ぐとしもは なけれども(注28)

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(訳者注28)「波が越ゆる(こゆる)」と、「急ぐ(いそぐ)」を、「小余綾の磯(こゆるぎのいそ)」に、かけている。
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 日数(ひかず)つもれば 七月廾六日の暮れ程(ほど)に 鎌倉にこそ 着き玉(たま)ひけれ
 
到着した日にすぐ、俊基は、南条高直(なんじょうたかなお)に身柄を受け取られ、諏訪左衛門(すわさえもん)に預けられた。そして、材木を蜘蛛手にはりめぐらした一間の室内に、押し込められてしまった。

地獄に行った罪人が、十王(じゅうおう)の庁に引出され、首枷(くびかせ)手紐(てかせ)をかけられながら罪の軽重を糾問(きゅうもん)される光景もかくありなん、まことに哀れな様である。

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(訳者注29)京都から名古屋までのルートに関して:

上記の記述内容中に設定されている、京都から鎌倉へのルートのうち、守山(滋賀県)から名古屋(熱田)までの部分は、江戸時代の[東海道]のそれとは異なり、現在の[JR東海道線]のルートとほぼ同じである。

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(訳者注30)[浜名の橋]に関して:

浜名湖に関して、極めて興味深い事が書かれている本がある。

[中世の東海道をゆく 榎原雅治 中公新書]

これの、

 [第三章 湖畔にて-橋本 浜名湖は沈降したか]

において、著者は、浜名湖に関するある説に対して、否定的見解を述べている。

その説とは、

 1498年の地震(明応地震)が起こるまでは、浜名湖は太平洋とは直接にはつながっておらず、淡水湖であった。この地震によって、浜名湖は1メートルほど沈降し、満潮時には海水が遡上する汽水湖となった。

と、いうような内容のものなのだそうである。

著者は、中世に記された紀行文等の内容をもとに、以下のような趣旨の事を述べている。

 中世には、浜名湖と太平洋との間に、幅の細い入り江が存在しており、[浜名の橋]はその入り江の上に架けられた橋であった。満潮時には、その入り江の中を海水が遡上していた。すなわち、この時代にすでに、浜名湖は汽水湖であった。

当時の潮位の変化までをも、著者は推計して、この本の中にグラフ表示している。

著者によれば、潮位の予測値は、複数の機関から公開されており、インターネットによって容易に得ることができるのだそうだ。例えば、海上保安庁作成のソフトウェア「潮汐推算」を使えば、このようなデータを得ることができるのだそうだ。

1985・86年に行われた湖底のボーリング調査による堆積層の分析結果からの、池谷仙之氏の考察も、著者のこの主張を裏付ける内容になっているのだそうだ。

この本の中に書かれている内容は、大きな説得力を持っている、というのが私の感想だ。

この問題に関しては、歴史学、古典文学、地質学、海洋学、地震学などの広範囲の知を結集しての本格的な調査・研究が必要であろうと思う。

[浜名湖 明応地震 浜名川]、[浜名湖 湖底 堆積物]、[浜名湖 ボーリング調査]、[浜名湖 湖底 ボーリング]等でネット検索して、様々な情報を得ることができた。
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