太平記 現代語訳 22-2 脇屋義助、吉野朝廷へ参内

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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脇屋義助(わきやよしすけ)はその後、美濃国(みのこく:岐阜県南部)の根尾(ねお:岐阜県・本巣市)城にたてこもっていたが、去る9月18日(注1)、土岐頼遠(ときよりとう)と土岐頼康(ときよりやす)に城を攻め落されてしまった。

義助は郎等73人と共に城を脱出し、人目を忍びながら南下して、熱田大宮司季氏(あつたのだいぐうじすえうじ)が守っている尾張国(おわりこく:愛知県西部)の羽豆崎城(はづがさきじょう:愛知県・知多郡・南知多町)へ逃げ込んだ。

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(訳者注1)
[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店] の「補注六」(483P)には、下記のようにある。

 「・・・義助は興国元年(暦応三年)九月二十三日平葺城を逃れた(得江文書)から、興国二年(暦応四年)と見ねばならぬ。但し、ここの九月十八日は信じ得るか否かは疑わしい。」

[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館]の「注一一」(94P)には、下記のようにある。

 「暦応四年(一三四一)であろう。正確な日時は史料に見えない。暦応三年九月二十三日に義助のこもる越前国平葺陣が破れて以来(天野文書、得江文書)、義助の動静はほとんど未詳。」
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10余日間ここに逗留しながら、義助は敗軍の兵を集めた後、伊勢(いせ:三重県中部)、伊賀(いが:三重県北西部)を経て、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)へたどりついた。

義助は直ちに、御所へ参内し、後村上天皇(ごむらかみてんのう)の拝謁(はいえつ)を賜った。(注2)

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(訳者注2)
上記・訳者注1に引用した内容によれば、脇屋義助が吉野へ来たのは、1341年である。後村上天皇
は、1328年生まれだから、この時はまだ十代前半の年齢である。よって、以下に記したような言葉を、後村上天皇が脇屋義助に対して発しえたかどうか、疑わしいのだが、ここは、太平記の記述に沿うように、翻訳してみた。

当時の人々の成熟(大人になっていく)のスピードは、現代の我々が想像するよりも、はるかに速かったのかもしれない。
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後村上天皇 おぉ、義助・・・よぉ来た・・・。さ、さ、そないに遠くにいんとからに、もっと近ぉ寄れ、さ、さ、もっとこっちへ、こっちへ!

脇屋義助 ハハーッ!

後村上天皇 この5、6年間というもの、義助、おまえは、北陸地方で忠節を尽くして、ほんまによぉ、戦い抜いてくれたなぁ。おまえのこの忠功、抜群やで!

天皇は、北陸地方での新田一族の無念の敗北には、全く触れない。

後村上天皇 それにしてもな、よぉ今日まで生きながらえて、ここへ来てくれたもんや・・・。これも、君臣水魚(くんしんすいぎょ)の忠徳(ちゅうとく)を、再び天下に示せ、との、天のおぼしめしなんやろぉなぁ・・・。義助、おまえの顔見る事できて、ほんまに嬉しいぞ。(涙)

脇屋義助 陛下・・・。(涙)

翌日、臨時の人事異動があり、脇屋義助に1階級昇進が与えられた。彼と共にやって来た一族や郎等らにもさまざまに、恩賞や官位が与えられた。まさに、脇屋義助の面目躍如(めんもくやくじょ)である。

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それから数日後、殿上の間(てんじょうのま)に諸卿が集まってよもやま話をしていた。

洞院実世(とういんさねよ)(当時、まだ左衛門督(さえもんのかみ)であったが)は、皮肉の笑みを浮かべながら、

洞院実世 ふーん・・・異例の人事異動にて脇屋義助、1階級特進ですかいねぇ・・・ふーん。

公卿一同 ・・・。

洞院実世 いったいあの男が、どないな手柄を立てたと言うんですかいねぇ? 比叡山(ひえいざん)を落ちて、まずは越前へ。で、そこでの合戦にボロ負け。仕方なしに美濃へ逃げた。ところが、そこからも追い落とされてもて、身の置き所がどこにも無(の)うなってしもぉた。で、仕方無しに、ここ吉野へ。

公卿一同 ・・・。

洞院実世 そないな男を、陛下はあのように誉めそやし給うて、官位を進めてしまわはるやなんて・・・こんなんゼッタイにおかしいわ、ナットクいきません。まるで、あの源平争乱期・治承(じしょう)年間に、源氏追討の為に関東へ向かった平維盛(たいらのこれもり)が、富士川(ふじがわ:静岡県)で鳥の飛び立つ羽音に驚き、そのまま京都へ逃げ帰ってきてしもぉたのに、祖父・清盛(きよもり)のはからいで位を1級進めたっちゅう話と、全く同じですやんかぁ!

これをじっと聞いていた四条隆資(しじょうたかすけ)は、膝を後ろに引いていわく、

四条隆資 私はそうは思わんなぁ・・・今回の陛下の御処置、まことに理にかのぉてると、思う。

公卿一同 ・・・。(一斉に四条隆資に注目)

洞院実世 へぇ・・・いったいなんでですか?

四条隆資 ・・・脇屋義助が、北陸で戦い利あらずの結果に終わってしもぉたんは、彼の指揮統率がまずかったからでは決してない。それはただ、ご聖運、未だその時至らずが故(ゆえ)、さらには、朝廷の様々の政策が、結果としては、彼の威をそいでしまうような方向に作用してしもぉたということ、この2点にありますな。

公卿一同 ・・・。

四条隆資 皆様のような才知豊かな方々に、こないな事を申し上げるのは、広大な天を、細い管の先から覗くようなもの、あるいは、道でたまたま聞いただけの事を、知ったかぶり顔して話すようなもんかもしれませんが・・・まぁとにかく、私の考えの一端なりとも申し上げましょうか。

公卿一同 ・・・。

四条隆資 これは、古代中国の周(しゅう)王朝末期の事・・・そうです、あの「戦国時代」・・・七つの強国が互いに争い、他を倒さんと、しのぎを削っていた時の事です。

四条隆資 呉(ご)王・闔閭(こうりょ)は、孫武(そんぶ:注3)を将軍に任命し、敵国を打倒する計略を共に練っておりました。

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(訳者注3)この人が、いわゆる「孫子の兵法」で有名な「孫子」の著者である。太平記作者は史記・列伝・孫子呉起列伝をもとにこの話を組み立てたと思われるが、その原典とは細かい点で差異がある。
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(以下、四条隆資が紹介する故事)

孫武 殿、敵国と戦端(せんたん)を開くにあたっては、事前の準備こそが極めて重要。中でも肝要(かんよう)なるは、軍事教練(ぐんじきょうれん)にてござりまする。訓練の行き届かざる兵をして戦場に赴(おもむ)かしむるような事、絶対にあってはなりませぬ。

闔閭 なるほど!

孫武 なんとしてでも敵国を打倒せんと欲せられるならば、まず、兵を徹底的に鍛え上げなされませ。厳しい訓練をもってして、鋼鉄のごとき軍団を、鍛造(たんぞう)せしめるのでありまする!

闔閭 ムム! で、その方法はいかに?!

孫武 まず、宮中のありとあらゆる房(ぼう)から、妃ら全員を集合せられませ。

闔閭 なに? 妃らを集めよと申すか? 彼女らを集めて、いったいなんとする?

孫武 日に三度、妃らと兵らに対して、私めが軍事教練を施しまする。妃の方々には、兵らの最前列に立っていただき、陣を張り、戈(か)を持って、他に範を示していただくようにいたしましょう。私の命令に即応しての動作が、彼らに可能となりました暁には、敵国を滅ぼさん事は、いと容易。

闔閭 ウーン・・・妃らにのぉ・・・あの者どもに、いかほど訓練を施してみたところで、アマゾネス集団に仕立て上げるのは、到底不可能というものじゃぞぉ。

孫武 ハハハ・・・殿、どうか私めに、すべてお任せ下さりませ。

闔閭 ・・・よし、わかった、おまえにまかせる、存分にやってみやれぃ!

孫武 ハハッ!

やがて、宮中の美女3,000人が宮殿の庭に集められ、兵らの前列に立たされた。

孫武は、甲冑(かっちゅう)を帯し、戈を持って、全員に命令を下した。

孫武 よいか、鼓(つづみ)が打たれたならば、前進して、互いに刃(やいば)を交えよ! 金(かね)が打たれたならば、そく退いて、第2番手の兵に前衛を譲れ! 敵退かば、そくそれを追えぃ! 敵反撃したらば防戦し、敵陣の弱点を突破すべし!

孫武 なんじらへの命令は以上! 全員、真剣白刃(しんけんしらは)で教練を修むべし! 「これは実戦ではない、ただの訓練じゃから」などと思ぉて、手抜きをするでないぞ。そういう輩(やから)のもとにはな、わしのこの戈の一撃が飛んで行くのじゃ! よいか、繰り返すぞ、真剣白刃じゃ! わしの命令に絶対服従せよ、さもなくば、自らの命は即座に消し飛ぶと思えい!

兵たち !!!!!・・・。(ビンビンビン・・・)

美女たち ・・・。(タラァーン)

孫武 よぉし、教練開始ーッ!

孫武 前進(ぜんし)ーン!

鼓 ドドドドドド・・・・。

孫武 退却(たいきゃ)ーク!

金 キンキンキンキンキンキン・・・。

孫武は、馬を左右へ駆って、命令を次々に発する。

王の命に従って軍事教練の場に出てきた3,000人の美女たち、まぁその体つきたるや・・・薄絹に打たれただけでも倒れてしまいそうな、なよなよとした腰、今にも折れてしまいそうなほっそりした腕・・・戈を持つ事などできるはずもなし、まして相手と刃を交えるなど、とてもとても・・・ただ立ち尽くし、笑うばかりである。

孫武 なんじら、ここをいったいいかなる場所と心得(こころえ)おるか、軍事教練の場であるぞ! ニヤニヤ笑っておる場合か!

妃A さような事を言われてもなぁ・・・かような重い物、わらわにはとても持てぬぞえ・・・オホホホ。

妃B そうそう急に、鼓や金をドンドンパチパチ打ち鳴らされても、とても体がついていきませぬぅー・・・オホホホ。

妃C ンモー! いったいなぜ、わらわどもが、かような事をせねばならぬのか?!

孫武は大いに怒り、闔閭が最も寵愛していた妃3人を引きずり出し、その場で斬って捨てた。これを見た妃たちは全員、顔面蒼白(がんめんそうはく)。

孫武 教練再開じゃ! 前進ーン!

鼓 ドドドドドド・・・・。

美女たちの足 タッタッタッタッタッタッタッタッ・・・。(足音)

兵たちの足 ダッダッダッダッダッダッダッダッ・・・。(足音)

孫武 退却ーク!

金 キンキンキンキンキンキン・・・。

美女たちの足 スッスッスッスッスッスッスッスッ・・・。

兵たちの足 ズッズッズッズッズッズッズッズッ・・・。

このようにして、軍事教練は極めて効果的に進行、呉軍の全員が、臨機応変に機敏なる進退ができるようにまでなった。

孫武は、王の妃を殺す為にこのような事を図ったわけではない。ただ、大将の命に士卒が絶対服従する事の大切さを、人々に示さんがためである。呉王は最愛の妃を3人も失った事を悲しみはしたが、孫武のこの謀(はかりごと)を非常に高く評価し、やがて彼に全軍を率いさせ、多くの敵国に対して戦勝を得るに至った。

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四条隆資 ・・・とまぁ、このような次第で。

四条隆資 さらに、もう一つ、これも中国の話です。時代はさっきの話よりもさかのぼり、殷(いん)王朝の末期。周(しゅう)の武王(ぶおう)は、殷の紂王(ちゅうおう)を討つ事を決意し、その軍の大将の任を、太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)に委ねる事にしました。その命に対して、太公望はいわく・・・。

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(以下、四条隆資が紹介する故事)

太公望呂尚 国家に危機が及びし時、君主は宮殿から他に逃れた後、将を召して彼に命を下しまする、「今や国家の安危は、ひとえに将軍の双肩にかかっておる。願わくは将軍、軍を率いてわが期待に応えよ」と。

太公望呂尚 将軍はこの命を受けて、すぐに、卜占(ぼくせん)担当官に卦(け)を見させまする。3日間の精進潔斎(しょうじんけっさい)の後、卜占担当官は、王家始祖(おうけしそ)の廟(びょう)中において霊妙なる亀甲(きっこう)を火で焼いて吉日を占い、その後、君主は、将軍に斧(おの)と鉞(まさかり)を授けて、軍事上の全権を委任しまする。

太公望呂尚 その際、君主は廟門より入りて西方を向いて立ち、将軍は廟門より入りて北向きに立ちまする。そして君主は、鉞を取ってその頭の方を持ち、柄の方を将軍に持たせていわく、「地表より上方、天に到るまでの間ことごとくを、将軍、なんじこれを制すべし」と。次に君主は、斧を取ってその柄の方を持ち、刃の方を将軍に持たせていわく、「地表より下方、深淵に到るまでの間ことごとくを将軍、なんじこれを制すべし」と。

太公望呂尚 このようにして、君主から全権を委託(いたく)された後、将軍は軍事上の全責任を負いまする。敵の虚をついては進撃し、敵の集積を見ては止まる。全軍を一つに束ね、敵を軽んずることなし。君主よりの命を受けた事の重みを十分に認識し、死に急ぐような事は決してしない。身分の低い者を見下すこともなく、一人よがりの僻見を専らにして士卒たちから浮き上がるような事もない。弁舌さわやかな者の意見に、とかく心動かされてしまうような事もない。

太公望呂尚 士卒ら未だ座せざるに、自分一人だけ座す事無し、士卒ら未だ食せざるに、自分一人だけ食する事も無し。常に、士卒らと寒暑を共にす。かくのごとく軍を率いていかばこそ、士卒らは、死力を尽くして戦うようになるのでありまする。

太公望呂尚 ひとたび将軍に軍の指揮を委任したからには、君主は、戦の事に関して一切、口出しをしてはなりませぬ。戦場の外よりその軍隊を指揮する事など、到底不可能、戦の統率は、戦場のまっただ中に自らの身をおいてこそ可能なり。一方、君主より全権を託されたからには、将軍は二心をもって君主に仕えるべからず、君主に対する疑惑の念に動かされ、敵とよしみを通ずる事など、もってのほか。

太公望呂尚 殿、殿はたったいま、私めに対して、殷王討伐軍の将の任務を託され、その証(あかし)として、この斧鉞(ふえつ)の権威をお与え下されました。殿の御命を受けまして、私めはこれより、わが全軍を率いて出陣いたしまする。これより先、殿に対して御指示を仰ぐ事は一切無く、自らの独断でもって、全軍の指揮を執りまする。いったん敵と遭遇したならば、殿に対して二心を抱く事など一切無く、自らの生死を賭し、全力をもって戦いまするぞ。

太公望呂尚 もはやこれよりは、我が頭上に天は無く、我が足下に大地も無し、我が眼前に敵は無く、我が背後に君主も無し。唯々(ただただ)、我と我が率いる士卒らのみ、戦場裡(り)に実存(じつぞん)す。智慧ある者は智謀の限りを尽くして謀略を練り、勇猛なる者は武勇の限りを尽くして戦闘すべし! 見よ、我らが青雲(せいうん)の志! 聞け、我らの疾駆(しっく)の轟き! 我が軍のこの勢威の前に、兵、刃(やいば)を交えずとも敵は降伏す、国土の外において勝利を決し、国家の中において忠功を立つ。官僚は栄進し、人民は喜悦(きえつ)す、将軍には咎も災いも無し。かくして、われらが国土、天地の恵みに包まれて五穀豊饒(ごこくほうじょう)、我らが国家、太平安寧(たいへいあんねい)なり!

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四条隆資 ・・・と、まぁね、こういう事なんですわ。

四条隆資 いったい私が何を言いたいのかといえば、要(よう)はですよ、敵を滅ぼし国を治めるための重要なノウハウは、古より今に至るまで不変である、そのノウハウとは、「全軍を率いる将を重んじよ」という事なんですわ。

四条隆資 ところがですよ、こないだまでの北陸方面の状況、これとは全く逆の状態でしたわなぁ。

四条隆資 新田義貞(にったよしさだ)亡き後、北陸方面の統率は脇屋義助に任されていたはず。ところが、彼の許可も無しに、地元の連中らは自分勝手に、色々な事を朝廷に直訴する為にここ、吉野までボンボンやってきよる。そないな連中らの言う事、一切無視すべきやのに、陛下はいちいち、その直訴を取り上げはる。「北陸から吉野への遠い道のり、はるばるよぉ来たなぁ、よっしゃよっしゃ、おまえの言い分、何でも聞いたるでぇ」という事で、事情をよぉ調べもせんとからに、そういう連中らに、北陸地方の領地をボンボン与えてしまわはる。

四条隆資 そないな事では、朝廷から北陸方面の統率を委ねられたはずの脇屋義助の立場、いったいどないなってんねんっちゅう事ですわなぁ。彼の威信はみるみる低下、地元の連中らは思い思いの方向に走りだす・・・かくして、脇屋義助は、百戦の利を失うてしもたというわけですわ。

四条隆資 そやからね、今日のこの事態を招いた事に関して、脇屋義助には、全く何の咎(とが)も責任もない、咎を負うべきは朝廷の側ですよ。ようは、陛下の政策ミスっちゅう事ですわ。そのへんの事を陛下も重々ご承知やからこそ、今回、彼に恩賞を厚く施されたんですよ。(注4)

四条隆資 秦(しん)国の将軍・孟明視(もうみょうし)、西乞術(せいきつじゅつ)、白乙丙(はくいつへい)が、鄭(てい)国との戦に敗れて帰ってきた時、秦の穆公(ぼくこう)は、喪服を着て都の郊外で彼らを迎えていわく、「今回の敗戦の責は、このわしにある。わしが、百里奚(ひゃくりけい)と蹇叔(けんしゅく)の諫言(かんげん)を聞かなかったばかりに、かくのごとき結果を招いたのじゃ。おまえたちにいったい何の罪があろうか、これよりも変らず、忠勤に励んでくれよ」。そして、三人を元の位階に復したのですよ。

洞院実世 ・・・。

四条隆資の理路整然たる反駁(はんばく)の前に、さすがの大才・洞院実世も、返す言葉が無い。

四条隆資 どうですかいな、これでもあなたは、今回の脇屋義助への恩賞付与を、平清盛・維盛間のあの低次元の話と同一視しはるんでしょうか?

洞院実世 ・・・(沈黙のまま、退場)。

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(訳者注4)
この箇所は、原文では、

 「北國の所領共を望む人あれば、不事問(こととはずして)被成聖断(せいだんをなさる)。依之(これによって)大将威軽(かろく)、士卒心恣(じそつのこころほしいまま)にして、義助遂に百戦の利を失へり。是(これ)全(まったく)戦ふ處に非ず。只上(かみ)の御沙汰の違(たがふ)處に出たり。君忝(かたじけなく)も是を思召(おぼしめし)知るに依(よっ)て、今其(その)賞を被重(おもんぜらるる)者也。」

ここで問題となるのは、以下の3点である。

(1)聖断の主語 「被成聖断」とあるが、このような「聖断」を行ったのは、いったい誰なのか?
(2)「上」 只上(かみ)の御沙汰にある「上」とは、いったい誰なのか?
(3)「君」 「君忝も是を思召知るに依て」
(4)「賞」 「君」は、自分の判断でもって、脇屋義助に対して、「賞を被重」ことが可能であったろうか?

まず、(3)から。前後の文脈から見て、

 「君」 = [後村上天皇]
 
として良いだろう。

次に、(2)。前後の文脈から見て、

 「聖断」を行った人 = 「上」

として良いだろう。

問題となるのが、(1)。

「聖」断とあるのだから、これを行えるのは、天皇であろう。よって、

 「聖断」を行った人 = 後醍醐天皇
  OR
 「聖断」を行った人 = 後村上天皇
 
となる。

吉野と越前で起こった事を時系列で見ると、以下のようになる。

1336年 12月 後醍醐天皇、吉野へ逃避

1338年 8月 新田義貞、越前で死去

1339年 8月 後醍醐天皇、吉野で薨去
      後村上天皇、吉野で即位

1341年 脇屋義助、吉野へ(本章の記述)

21-6 に、以下のような趣旨の記述がされている。

 新天皇(後村上帝)は未だ幼少であるし、前天皇が崩じた後3年間は公家のリーダーに政治が任される、という古来からの習わしもあるので、政治面での判断は、大納言・北畠親房(きたばたけちかふさ)が行う。洞院実世(とういんさねよ)と四条隆資(しじょうたかすけ)が、諸事を取り次いで奏上する、という事になった。

上記の記述が史実通りであるとするならば、[脇屋義助、吉野へ来たる]のタイミングにおいては、後村上天皇は未だ、自らの意志で政策を決定できない状態にあるはず。前天皇が崩じた後3年間は、新天皇は政務を取らない、とあるのだから。

よって、

 「聖断」を行った人 = 後村上天皇
 
という可能性は消え、

 「聖断」を行った人 = 「上」 = 後醍醐天皇

ということになる。

しかし・・・。

新田義貞の死の直前の段階において、新田サイドは、越前において、斯波サイドに対して圧倒的優位にあったように、太平記には記述されている。

となると、 後醍醐天皇の「聖断」によって、脇屋義助が苦しい立場に追い込まれていった期間は、

 1338年 8月 (新田義貞、越前で死去) から
 1339年 8月 (後醍醐天皇、吉野で薨去) まで
の期間となる。

たった1年間の「聖断」の連続の結果、越前での情勢がそんなに激変するものであろうか?

更に、疑問があるのが、(4)。

上記にも述べたように、[脇屋義助、吉野へ来たる]のタイミングにおいては、後村上天皇は未だ、自らの意志で政策を決定できない状態にあるはず。

政治面での判断は、北畠親房が行い、洞院実世と四条隆資が、諸事を取り次いで奏上する、という事になっているはず。

なのに、四条隆資は、

 「君忝(かたじけなく)も是を思召(おぼしめし)知るに依(よっ)て、今其(その)賞を被重(おもんぜらるる)者也。」

と言っている。

上記のような様々な疑問より、訳者は、この章の中の四条隆資の発言は、史実では無く、太平記作者のフィクションであろうと考える。実際には存在しなかった吉野朝側の政策ミスを、実際にはそのような事を語ってはいない吉野朝の重要人物(四条隆資)が語る、という場面を創作して、吉野朝側を貶めようとの意図の下に制作されたフィクションであろうと、訳者は、考える。
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