太平記 現代語訳 29-9 高兄弟、投降す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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高師直(こうのもろなお) (ヒソヒソ声で)西日本の方はこんなミジメな状態になっちまって、わしらに背く者が続出してるけどさ、関東の方は大丈夫だよ、師冬(もろふゆ)がしっかり抑えてくれてるから。

高師泰(こうのもろやす) (ヒソヒソ声で)そうさなぁ、こうなったらもう、彼だけが頼りだぁ。

高師直 (ヒソヒソ声で)いや、まったく。

高師泰 (ヒソヒソ声で)もう、どうにもこうにもしようが無くなっちまったらさ、兵庫湊(ひょうごみなと:神戸市・兵庫区)から船に乗って、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へトンズラ(遁走)ってのどう? 師冬と合流してしまやぁ、後はなんとかなるだろう。

高師直 (ヒソヒソ声で)そうさなぁ・・・。

この話題になっている人、師冬は、高師直の養子である。彼は、足利尊氏(あしかがたかうじ)の三男・基氏(もとうじ)の執事に任命され、基氏と共に鎌倉に行き、上杉憲顕(うえすぎのりあき)と共に関東管領(かんとうかんれい)の職務を遂行、その威勢を関東8か国に振るっていたのである。

25日の夜半、甲斐国(かいこく:山梨県)からやってきた時宗(じしゅう)僧侶が、こっそり二人を訪ねてきた。

時宗僧侶 上杉憲顕の養子・能憲(よしのり)は、父が守護職をつとめる上野国(こうずけこく:群馬県)の守護代理として現地に赴任しておったのですが、昨年の12月に謀反を起し、直義様の側に立って挙兵いたしました。

時宗僧侶 上杉憲顕は、「能憲を誅罰(ちゅうばつ)してくれるわい」と称して上野に急行し、たちまち能憲と合流して叛旗をひるがえしました。上杉父子はその後、武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)へ侵入して、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)武士団と武蔵七党(むさしななとう)武士団を、味方につけてしまいました。

時宗僧侶 この情報をキャッチされた師冬殿は、上杉父子を誅罰する為に、関東八か国から軍勢を招集。しかし、ただの1騎も、それに応じてやっては来ない。「このままではどうしようもない。ならば、基氏様を先頭に立てて軍を進め、上杉を退治しよう」という事になり、たった500騎のみを率いて、上野国へ進軍されました。

時宗僧侶 ところが、よもや二心を持ってはいまいと信頼しきっていた武士たちが、心変わりをしてしまい、基氏様を奪い取って軍勢から離脱。基氏様後見役の三戸七郎(みとのしちろう)殿もその夜、同志打ち状態になってしまい、半死半生、行くえ不明になってしまわれました。

時宗僧侶 それ以降、上杉側に加わる者はますます増加、師冬殿の方には誰一人としてやってはきません。ここはいったんどこかへ逃れ、師直殿の方の様子も見ながら、という事で、師冬殿は、甲斐国(かいこく:山梨県)へ逃れ、須澤城(すさわじょう: 山梨県・南アルプス市)にこもられました。そこに、諏訪下社(すわしもしゃ:長野県・諏訪郡・下諏訪町)の祝部(はふり)が6千余騎の軍勢を率いて攻め寄せてきて、3日3晩の戦いで、多数の死傷者が出ました。

時宗僧侶 敵は皆、城の大手方面へ向かってきたので、城中の軍勢もその大半はそちらに回り、防戦につとめておりました。しかしそのスキに、周辺の地理をよく知っている敵側の者らが、城の背後へ回り込み、高所から攻め込んできました。それを防ごうとした八代(やつしろ)は、持ち場から一歩も退かず、奮戦の末に討死。

時宗僧侶 まさに落城寸前という時に、師冬殿の烏帽子子(えぼしご:注1)であった諏訪五郎(すわごろう)が、初めは諏訪の祝部側に属して城を攻めていたのですが、城の守備が弱ってきたのを見て、祝部の前に出ていわく、

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(訳者注1)元服の儀の際に、元服する者を「烏帽子子」、その親代わりの役をつとめる人を「烏帽子親」と言う。
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 「おれはなぁ、元服の時、高師冬殿に烏帽子親になっていただいた。だとしたら、師冬殿とは言ってみりゃぁ、父子の関係じゃん。今や、誰もかもが師冬殿に敵対してるからってんで、右に習えで刃(やいば)向けるってのも、どうかと思うんだよな。そんな事したんじゃそれこそ、不義の行為って事になっちまうずら。」

 「孔子(こうし)の弟子の曹参(そうさん)は、その地名が「勝母」って言うってんで、自分の故郷には決して帰らなかったっていうじゃん。孔子だって、いくら喉が渇いてても、「盗泉」って名前の泉の水だけはゼッタイに飲まなかったって言うよ。聖人君子ともなるとこんなフウに、ただその名前が悪いって理由だけでもって、色々と自分に禁じていくんだから、ましてや、義に違う事なんか、おれにはとてもできねぇ。」

時宗僧侶 というわけで、諏訪五郎は祝部に最後の暇乞(いとまご)いをした後、須澤城の中へ入り、師冬殿の為に身命惜しまず戦いました。

時宗僧侶 やがて、城は背後から破れ、四方から敵が殺到、諏訪五郎と師冬殿は、手に手を取りあい・・・(涙)・・・腹・・・腹かき切って・・・(涙)亡くなっていかれました。(涙)

高師直 ・・・師冬・・・(涙)。

高師泰 ・・・。(涙)

時宗僧侶 (涙を拭いながら)その他の、義を重んじ名を惜しむ武士たち64人、全員一斉に自害して、その名を墓場の苔の上に残し、屍(しかばね)を戦場の土に曝(さら)しましてございます・・・(涙)。

高師泰 ・・・。(涙)

高師直 ・・・。(涙)

時宗僧侶 この戦の後、関東地方、北陸地方、残らず、直義様の方へ靡いてしまっております。もはや万事休す、なすすべ無しと思われます。(涙)

高師泰 ・・・。(涙)

高師直 ・・・。(涙)

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高一族メンバーA (内心)「九州全域、直冬(ただふゆ)殿(注2)についた」ってな情報も、入って来てたよなぁ。

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(訳者注2)足利直冬。
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高一族メンバーB (内心)四国の連中らも残らず、細川顕氏(ほそかわあきうじ)の旗下に参集してるんだとよ。そいつらを率いた顕氏は、もう既に、須磨(すま:神戸市・須磨区)、大蔵谷(おおくらだに:同左)のあたりまで押し寄せてきてるっていうじゃないか。

高一族メンバーC (内心)最後の頼みの綱はもう関東だけ・・・だったのに、カンジンの師冬殿も討たれてしまったとは・・・。

高一族メンバーD (内心)こうなっちゃ、いったいどこへ逃げ、いったい誰を頼ればいいんだろ?

勇ましかった人々も全員ガックリきてしまい、いかにも心細げな様子である。

しかしながら、何としても捨て難きは我が命。高兄弟は一寸の最後の望みを託して、道心のカケラもない出家をした。

二人は、「師直入道道常」、「師泰入道道勝」という法名を授けられ、裳無し衣(もなしごろも:注3)を着し、小刀を腰に下げ、投降者となって松岡城を出た。

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(訳者注3)時衆僧侶の服装。
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二人のそのみじめな姿を見て、皆、つまはじき(注4)しながら、語り合う。

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(訳者注4)親指の腹を人差し指の爪で弾く動作。当時、嘲笑しながらこのような動作を行ったらしい。
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世間の声E あれ見てみぃな、まぁ、なんちゅうブザマな姿なんやろ。

世間の声F カッコわるぅ!

世間の声G ついこないだまで、肩で風きって歩いてた人とは、とても思えへんわなぁ。

世間の声H そやけど、出家の功徳は莫大(ばくだい)やていいますからな、来生での罪だけは許されますやろて。

世間の声I そりゃ、来生は救済されるかもね。だけど、カンジンの今の命まではどうだか。

世間の声J ムリムリ、ゼッタイムリですよ。今になって生きながらえようだなんて・・・そんなのムリに決まってまさぁね。

世間の声K まったくもって、往生際(おうじょうぎわ)の悪い兄弟だわ。

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