太平記 現代語訳 34-2 畠山国清、関東より大軍を率いて京都へ
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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世間の声A 最近、意外と、世間も、静かになってきよりましたわなぁ。
世間の声B ほんに、そうどすわなぁ。幕府の敵対勢力のお方ら、メッキリ、勢いの(無)ぉなってしまわはりましたから。
世間の声C あのっさぁあ、世の中から、バトルのネタなんて、ゼェッタァイ、無くなりっこないんだってぇえ! こないだまでの敵対勢力が無くなったら無くなったで、また、イロイロと出てくんだからぁ。
世間の声D そうさなぁ・・・昔っから、「両雄、相い争そう」って、言うからよぉ。
世間の声E おいちゃん、おいちゃん、両雄て、いったい、誰と誰の事やのん?
世間の声D 鎌倉のトップ・左馬頭(さまのかみ)・足利基氏(あしかがもとうじ)(注1)殿と、京都の新将軍・足利義詮(よしあきら)殿だい。
世間の声F お二人の間に、またぞろ、なんやかやと、イサカイゴト、出てくるかもよぉ。
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(訳者注1)当時、鎌倉(神奈川県・鎌倉市)には、足利幕府の出先機関の「鎌倉府(かまくらふ)」が置かれており、足利基氏がそこのトップの地位にあった。
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世間のこのうわさを聞いて、畠山国清(はたけやくにきよ)は、足利基氏にいわく、
畠山国清 いやぁ、ったくもう、世間の連中ってぇのは、もうほんと、口さがねぇもんですねぇ・・・いやはや、ったくぅ・・・ハァー(溜息)。
足利基氏 ・・・。
畠山国清 困ったもんですぜぃ、いやはやぁ、ったくぅ・・・ハァー(溜息)。
足利基氏 グフ(笑)・・・なんだい、いったい? どうしたっての?
畠山国清 イヤァ・・・それがですねぇ・・・故・将軍様がお亡くなりになってからってもん、世間の連中はしきりに、危ぶんでやがりますよぉ。
足利基氏 いったい、ナニをさ?
畠山国清 いやぁ、それがねぇ・・・コトもあろうに、「基氏様と義詮様の間に、いつかは不愉快な事が、もちあがるんじゃねぇだろうか」ってな事、ヌカシてやがんですよぉ! ったく、もう!
足利基氏 ふぅん、そりゃぁまた・・・。
畠山国清 ・・・でもねぇ、殿・・・取るに足らねぇ世間のうわさとはいえ、こういう、うっとぉしいのは、早い目に消し止めておいた方が、よろしい事はよろしいんですよねぇ。
足利基氏 ・・・。
畠山国清 古代中国・漢(かん)王朝の時代にねぇ、初代帝王・高祖(こうそ)の死後、呂(りょ)氏と劉(りゅう)氏の二大勢力が、仲違いしはじめましてねぇ(注2)、あわや、「またまた、戦乱の世に逆戻りか」ってな状況に、なっちゃったんですってぇ。その時にねぇ、高祖の旧臣の周勃(しゅうぼつ)と樊噲(はんかい)らが、兵を集め、勢をあわせて、世を治めたっていいますからねぇ。
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(訳者注2)呂氏は、高祖の妃・呂后の親族。劉氏は、高祖の一族。
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足利基氏 うん・・・。
畠山国清 殿・・・こんな事、私の口から言うのもなんですけど・・・ここは、早いとこ手ぇ打って、殿と義詮様との間の不和の懸念、きれいさっぱり一掃しちゃおうと、思うんですよぉ・・・で、遠征軍の大将に、任命していただけやせんでしょうかねぇ・・・。
足利基氏 え? 遠征軍? いったい、どこ行くんだ?
畠山国清 京都の南の方でさぁね。関東の勢力を率いて京都へ上洛、その後、南へ向かい、あっちの朝廷サイドの勢力を討つ!
足利基氏 ふーん・・・。
畠山国清 和田(わだ)と楠(くすのき)を、攻め落としちゃってぇ、天下の形勢、イッキにカタつけちゃおうってんですよ・・・そうすりゃぁ、義詮様の疑惑なんてぇ、あっという間に、消え失せちまいまさぁね。
足利基氏 いいねぇ・・・よぉし!(両手を合わせて叩く)
基氏の両の掌 パチン!
足利基氏 たった今、おまえを、遠征軍の大将に任命したぞぉ!
畠山国清 ははぁーっ!(平伏)
足利基氏 速やかに、関東8か国の勢力を糾合(きゅうごう)し、京都南方の敵陣向けて、発向(はっこう)せよ!
畠山国清 ははぁーっ!(平伏)
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畠山国清は、足利基氏を補佐する地位にあったから、いわば、関東地方における「足利幕府・ナンバー・ツゥー(NO.2)」。国清は、その地位をもって、幕府という公権力を利用して、自己の私的な権威を貪ろうとしていた。
軍勢召集に先立ち、国清はまず、地元の有力武士たちに対して、次々と訪問外交を展開していった。
未だ、幕府に対して何ら功績の無い者に対しても、
畠山国清 まぁ、見てろって、そのうち、メンタマ(目玉)飛び出るような、恩賞もらう事になっから。楽しみに待ってりゃ、いいと思うよぉ。
有力武士G ・・・。(ニンマリ)
さほど親しいつきあいも無かった者を、前にしては、
畠山国清 あんたんち(家)とワシっち(家)と、今後、末長くぅ末長くぅ、互いに信頼関係のきづな固く、かたぁく、結んで行きたいよねぇ!
有力武士H はいーっ!(感激)
「人の上に立つ者が、たった一日でもよいから、自分の欲望を抑えて旧き良き礼に従うようにしたならば、それだけでもって、天下の人民は、よく仁に帰するものである(論語)」とは、よく言ったものである。まさにこの言葉の通りに、国清のこの活動の結果、関東8か国の武士たちは残らず、彼の軍勢催促(ぐんぜいさいそく)に従うようになった。
畠山国清 よぉし、遠征の態勢、十分、準備万端、整ったぁ。こうなったら、一日も早く、京都へ発進せにゃぁ。
京都朝年号・延文(えんぶん)4年(1359)10月8日、畠山国清は、武蔵国(むさしこく)のキャンプ(camp)・入間川(いるまがわ)(埼玉県・狭山市)(注3)を出発。
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(訳者注3)[新編 日本古典文学全集57 太平記4 長谷川端 校注・訳 小学館] の126Pの注に、以下のようにある。
「基氏は武蔵野合戦後、文和二年(一三五三)七月二十八日、尊氏の命により入間川へ向い、新田勢に対する鎌倉防御の任に当った(鶴岡社務記録)。在陣は康安二年(一三六二)までの九年間に及び、世に「入間川殿」と称された。」
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その軍勢に従うメンバーは以下の通り。
畠山一族からは、国清の弟・畠山義深(よしふか)と畠山義熈(よしひろ)。
一族以外からは、武田氏信(たけだうじのぶ)、その弟・武田直信(なおのぶ)、逸見美濃入道(へんみみののにゅうどう)、その弟・逸見刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)、逸見掃部助(かもんのすけ)、武田左京亮(さきょうのすけ)、佐竹師義(さたけもろよし)、河越弾正少弼(かわごえだんじょうしょうひつ)、戸嶋因幡入道(とじまいなばのにゅうどう)、土屋修理亮(つちやしゅりのすけ)、白塩入道(しらしおにゅうどう)、土屋備前入道(びぜんにゅうどう)、永井時治(ながいときはる)、結城入道(ゆうきにゅうどう)、難波掃部助(なんばかもんのすけ)、小田孝朝(おだたかとも)、小山(おやま)一族13人、芳賀禅可(はがぜんか)、その子・芳賀公頼(きんより)、高根澤備中守(たかねざわびっちゅうのかみ)とその一族11人。
これらの有力武士の他に、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)武士団、武蔵七党(むさししちとう)武士団、紀清両党(きせいりょうとう)武士団、伊豆(いず:静岡県東部)、駿河(するが:静岡県中部)、三河(みかわ:愛知県東部)、遠江(とおとうみ:静岡県西部)の勢力も加わって、総勢207,000余騎。前後70余里にわたって、櫛の葉を引くがごとく、京都へ進軍していく。
途中20余日の逗留(とうりゅう)を経て、いよいよ、11月28日、京都へ入る事になった。
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「畠山国清率いる関東からの大遠征軍、正午頃に、京都入り」との情報に、摂政関白(せっしょうかんぱく)はじめ、京都朝廷の公卿、さらには公家武家の貴賎上下(きせんじょうげ)は、四宮河原(しのみやがわら:山科区)から粟田口(あわたぐち:東山区)に渡って、桟敷を続け、車を並べ、道の両側に見物の列を作った。
見物人I ほれほれ、あれ、見よし!
見物人J 来はったえ、来はったえ!
見物人K おぉ、来た、来た。
見物人L いやぁ、それにしてもこりゃぁ、すごい大軍勢だねぇー、フーッ(頭を振るわす)。
見物人M 関東武士のお方はんら、最近、えらいゴ-ジャスなお暮らしぶりやと、聞いとりましたけどなぁ、ほんま、その通りどすわなぁ。まぁ、見てみいなぁ、あの、きらびやかなことぉ。
見物人N そらそうどすわ、武士のお方はんらが、天下の権力握らはってから、もう相当になりますもんなぁ。金銀財宝、ジャカジャカ、貯め込まはったん、ちゃいますかぁ。
見物人O 富貴に誇る関東武士、今日まさに、一世一代の晴れ姿ってとこですか・・・ハハハ。
見物人P ほぉんと、ほんと・・・馬、鎧、衣服、太刀、刀・・・隅から隅まで、何から何まで、金銀バリバリのキンキラキン。
見物人Q (ある武士を指差しながら)なぁ、なぁ、あのひと(男)、いったいどこの誰?
見物人R うわぁ、ひときわ、ゴージャス、目立ってるわなぁ!
見物人S あれやん、あれがあの有名な、河越弾正少弼(かわごえだんじょうしょうひつ)っちゅう人やん。
見物人Q あぁ、あれがそうなん。うーん、スゴイなぁ。
見物人R スゴイ、スゴイーッ。
見物人S なぁ、なぁ、見て、見てぇー! あのひとが引かせてる馬の数ぅ・・・えーっとぉ・・・(目で馬の数を数える)・・・スゴォイ、全部で30匹やでぇ!
見物人Q それを引いてる馬丁の数が、なんと、8人ときたわぁ・・・馬にはみんな、白い鞍、置いてぇ・・・カッコいいー!
見物人T えー、マドゥムワゼル、馬の毛色に、ご注目ください。
見物人R えぇ? 馬の毛色・・・いや、ほんまや、スゴイ、スゴイー! 一匹ずつ、違うやん!
見物人S ほんまやぁ・・・濃い紫、薄い紅、萌黄(もえぎ)、水色・・・そやけど、なんでぇ? あんな色の馬、いるはずないやん!
見物人T あれはねぇ、毛を染めているのでありますよ。
見物人Q&R&S エーッ!
見物人U 見てみぃ、見てみぃ、あの馬、ほれ、あの最後の馬! ありゃぁいったいナンジャぁ?!
見物人V ほぉー! ありゃぁすげぇわ・・・馬の毛ぇ豹柄(ひょうがら)に染めるかぁ・・・わしもなげ(長)ぇこと生きてきたけんど、あんな柄に染めた馬見たん、今日がはじめてだわ。
見物人W よくやるよなぁ、まったくぅ。
その他の有力メンバーたちも、それぞれの軍毎に密集体型をとって、見物衆の眼前を通過していく。
全員、同色の鎧に統一の500騎、1,000騎の集団があるかと思えば、全員一様に、虎皮の防水カバーを被せた4尺5尺の銀製太刀を腰に差し、さらにそこに、刀を2本佩き副(そ)えた100騎、200騎の集団もいる。
古代中国・戦国時代、かの孟嘗君(もうしょうくん)が抱えていた3,000人の食客(しょっかく)らは、全員、珠玉の靴をはいて、富貴に誇る春信君(しゅんしんくん)を嘲笑したというが(注4)、まさにその情景が、現代の世に再現したかと思わせるほどの、関東からやってきた人々の、このきらびやかさである。
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(訳者注4)「史記・春申君列伝」に、以下のような事が書いてある。
趙の平原君が、楚の春申君のもとに、使者を送り込んできた。
使者は、自国の富貴を見せびらかすために、刀剣の鞘を珠玉で飾って、春申君の食客たちに面会を申し込んだ。
春申君の食客は総勢3,000余人いたが、その中の上客たちは全員、珠玉の飾りをつけた履(くつ)をはいて使者に面会した。
故に、使者は大いに恥じ入った。
ここで太平記作者は、下記のような取り違えをしているのである。
「春申君」とすべき所を「孟嘗君」と誤記し、「平原君」とすべきところを、「春信君」と誤記。
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