太平記 現代語訳 12-4 千種忠顕と文観の奢侈(しゃし)
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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富貴の中に日々を送ることになった人々の中でも、千種忠顕(ちぐさただあき)は、とりわけ目立つ存在であった。
彼は、内大臣・故・源有房(みなもとのありふさ)の孫である。家業の学問の道にこそいそしむべきであるにもかかわらず、20歳になった頃から、専門外の笠懸(かさがけ)射撃や犬追物(いぬおうもの)射撃を好むようになり、それから後は、ギャンブルと色情の道へまっしぐら、ついに父・有忠から、父子絶縁を申し渡される親不孝者となってしまった。
しかし、この人には、一時の栄華を開くべき過去の因縁でもあったのであろうか、御醍醐天皇が隠岐国へ配流になられた時にお供を仕り、六波羅庁攻略軍を率いて京都へ攻め上った忠功により、大国3つと北条家旧領10か所を拝領した。
それから後、朝廷からの恩も身に余り、とでも言おうか、その驕り、甚だしきものがある。
家臣たちには手厚く報い、毎日いっしょに酒宴を重ねている。その場に集う者は、300人超、酒宴に費やされる酒肉やグルメの費用は膨大な額に。
数十間もあるような厩を建て並べ、よく肥えた馬を、5、60頭も飼育している。酒宴の後に興がおもむくと、数100騎を従えて、大内裏跡や北山に繰り出して、犬を追い、鷹狩に終日没頭。
その際のいでたちはと言えば、豹(ひょう)や虎の皮を足に装着、金襴(きんらん)刺繍や絞り染めの直垂を着用し、といったぐあいである。
「高貴の身分の人が着用する服を、身分の低い者が着る時、これを僭上(せんじょう)と言う。僭上と無礼は、国家の凶賊なり」との、孔安国(こうあんこく)の誡(いましめ)をも恥じない彼のこの振る舞いは、まことに浅はかなものである。
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しかしながら、出家の身ではない忠顕なのだから、このような振る舞いになってしまうのも、まぁ、無理もないこととも、思えるのだが・・・あれはいったい・・・伝え聞くところのあの、文観僧正(もんかんそうじょう)の日常は・・・「おいおい」と言いたくなってしまう。
名誉と利益を追求する凡夫の心境から脱し、ひとたびは、仏と一体の境地にまで達したというのに、そのかいもなく、今はただ、利欲と名誉欲の道をひた走り、心静かなる禅定の勤めも、彼の心中からは忘却されてしまったようである。
これといった使い道も無いのに、倉には財宝を蓄え、それを活用して貧窮の人々を救うでもなし、身辺には武器や人を集め、自らの勢力拡張に専念の日々。
媚びへつらいながら交わりを求めてやってくる者に、何の忠節もないのに褒賞を与える。その結果、「おれは、文観僧正の手の者だぞ」と、自称し徒党を組んでノサバリカエル者らが洛中に充満、その数は、5ないし600人にも。
さほどの遠距離でもない御所への参内の時にも、文観が乗る輿の前後を、数百騎が囲んで街路を横行していくので、その法衣はたちまちに馬蹄の塵に汚れ、戒律も空しく人の謗る所に落ちてしまう。
かの中国・廬山(ろざん)の慧遠(えおん)法師は、一度俗世間から離れるや、静寂なる一室にこもり、一時もこの山を出るまいと誓い、18人の賢人聖者の境地を踏襲しつつ、朝と夕の6時に仏を礼拝讃嘆する勤めを怠らなかったという。中国・唐の大梅山(だいばいさん)の常(じょう)和尚は、世間の人々に自分の住所を知られないように、かやぶきの家を深山の奥に移転し、山中の暮らしの中に、悟りの道を全うしたという。
このように、いったん出家した以上は、仏道に生き、心を清らかに保つことに一生を捧げるべきであるのに、文観の名誉利益に執(とら)われてしまったこの姿、どうにも尋常ではない。もしかすると、天魔か外道(げどう)が彼の心に入り込んでいて、あのような振る舞いをさせているのではないだろうか。
なぜ、このような事を言うかといえば・・・。
文治(ぶんじ)年間に、都に一人の僧侶がいた。その名を解脱上人(げだつしょうにん)と言う。
彼の母が17歳の時に鈴を呑む夢を見て出来た子であったので、これはただの人ではない、ということで、3歳になった時から仏門に入らせ、ついに尊い聖僧となった。
その人となりは、慈悲心極めて篤く、僧衣の破れをも悲しむことなく、仏道修行に怠りなし、托鉢の鉢が空っぽであっても、愁えることがない。
大聖者の中にも、俗世間の中に生きていく人はいる。解脱上人は、身は世間の塵に交わるとも、心は三毒(注1)の霧に決して犯されなかった。仏の教えのままに生きて年月を送り、人々を利益して山川(さんせん)を行脚(あんぎゃ)して回っていたのだが、ある時、彼は伊勢神宮に参拝した。
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(訳者注1)[貪(どん)]、[瞋(じん)]、[痴(ち)]を、仏教では「三毒」と言う。
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解脱上人は、内宮(ないくう)・外宮(げくう)を巡礼しながら、他人には聞こえないように、経を誦し、法文を唱えて礼拝して回った。
解脱上人 (内心)伊勢神宮、他の神社とは様子が違うなぁ。
解脱上人 (内心)千木(ちぎ)も曲がらず、片削ぎ(かたそぎ)も反らず・・・これは、真っ直ぐに仏に従っていく、との心を、象徴しているかのようや。
解脱上人 (内心)古い松が枝を垂れ、老樹の落ち葉が散り敷いている、これもまた、下化衆生(げけしゅじょう:注2)の相を表しているようやなぁ。
解脱上人 (内心)三宝(さんぼう:注3)とは異なる、神としての形態を取られる伊勢神宮も、そのご内証(注4)を深く鑑みれば、これもまた、衆生を仏教に導くための顕現のお姿か。
感涙の涙にむせぶ解脱上人であった。
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(訳者注2)仏が衆生を教化すること。
(訳者注3)[仏]、[法]、[僧]。
(訳者注4)「お心の中」という意味。
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このような心境であったので、彼は、日が暮れてもそのあたりの家に宿泊する気にもなれず、外宮の前に座し続けたまま、経文や諸々の如来の名前を唱え続けていた。
神路山(かみじやま)の松風に目も冴え渡り、五十鈴川(いすずがわ)に映る月に心を澄まして座っていたところ、にわかに空がかき曇り、激しい風雨になってきた。
やがて、雲の上に、車の走る音や馬を馳せる音が轟きだし、東西から、何やら妖しき者らがそこに集まってきた。
解脱上人 (内心)あぁ、恐ろしい、あれはいったい何者なんやろ。
肝を冷やしながら彼らを見つめる解脱上人の眼前の虚空に忽然と、玉を磨き金を鏤(ちりば)めた宮殿楼閣が出現した。庭上や門前には、幔幕が張り巡らされている。
十方より車馬でやってきた妖しき客たちは、総勢2、3,000人もいるであろうか、宮殿に入り、左右二列に着席した。
その上座には、最上位の者が座っているのだが、その姿、尋常ではない。身長は2、30丈もあり、その顔を見上げてみると、頭には夜叉(やしゃ)のごとく、12個もの顔がくっついている。腕は42本、日月を握る手あり、剣や戟(げき)を握る手もあり。その身体は、8匹の龍の上に乗っている。
それに従う眷属(けんぞく)たちもみな、異形(いぎょう)の者たち、手は8本、足は6本、鉄の盾を持ち、顔は3面、金の鎧を着用している。
全員着席の後、中央上座の怪異の者が、左右を見ていわく、
最上位者 過日よりの、帝釈天(たいしゃくてん)攻略戦において、我が軍は連戦連勝、我が手には太陽と月を握り、我が身体はシュミ山の頂に座し、広大な大海をも、我が足先に踏みしめるに至れり。
最上位者 しかるに近頃、わが方の兵力、毎日数万の割合にて、消耗の一途。その原因調査の結果、一大事実判明! なんと、人間たちの住む世界・エンブダイ中の、日本なる国の首都圏に、「ゲダツボウ」(解脱房)なる一人の聖者が出現、人類を教化(きょうげ)して利益(りやく)を与える間、仏法エネルギー出力増大、それに応じて、帝釈天パワーは著しく強化。かくして、わが軍より発せられる対仏法・障害波の伝搬、大いに阻害され、我軍のパワーは、減衰の一途。
最上位者 かのゲダツボウを放置せば、我らの対帝釈天戦のさらなる続行、もはや不可能。何としてでも、彼の道心を衰退せしめ、「解脱房」の心中に、驕慢懈怠(きょうまんけたい)の心を起こさせる事、必須の急務なり。
すると、「第六天魔王」(注5)と金字に銘討った兜をかぶった者が、座中の正面に進み出ていわく、
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(訳者注5)欲界中の、[他化自在天(たけじざいてん)]の支配者。仏教を求めようとする人に対して、様々な障害をし向ける。
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第六天魔王 ゲダツボウの道心を減衰せしめんは、いと、たやすき事なり。
第六天魔王 まずは、日本の国家元首なるジョウコウ(上皇)の心中に、「打倒・カマクラバクフ(鎌倉幕府)」の心を注入。ジョウコウが、ロクハラチョウ(六波羅庁)を攻めれば、ホウジョウ・ヨシトキ(北条義時)、チョウテイ(朝廷)に対して反撃に立ち上がるは必定。
第六天魔王 その時に、我ら、ヨシトキに力を与えて、チョウテイ・サイドを敗北に導き、ジョウコウを流刑へと誘導するは、奈何(いかん)?
第六天魔王 その後、ヨシトキ、日本国の成敗を司り、国家の統治を計らんがため、必ずや、現テンノウ(天皇)の子・モリサダ(守貞)の次男を、新しきテンノウに即位させることと、あいならん。
第六天魔王 さすれば、ゲダツボウは、かの次男の帰依する聖なれば、新しきテンノウのお側づき僧侶として取りたてられ、チョウテイに出仕する事とあいなる。これより、ゲダツボウは、仏道の修行を日々に怠り、驕慢の心を時々に増長すべし。
第六天魔王 これこそまさに、ゲダツボウを、破戒無慙(注6)の僧ならしめる、着実なるストラテジー(戦略)なり。
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(訳者注6)戒を破り、慚愧(ざんき:自らの言動を厳しく見省り、その非を仏に謝罪する)の心を持たない。
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メンバー全員 そのストラテジー、大いに良きかと!
やがて、彼らは東西に飛び去って行った。
解脱上人 (内心)うわぁ、すごい現場を、目撃してしもうたぁ! これぞまさしく、伊勢神宮の神々が、私にさらに仏道を求める心をおこさせようと思ぉて、見せて下さった、ありがたい不思議の出来事なんやなぁ。(歓喜の涙)
彼は、京都には帰らず、山城国(やましろこく:京都府南部)の笠置(かさぎ:京都府・相楽郡・笠置町)という深山に一つの岩屋を築き、そこを住居とするようになった。落ち葉を集めては身体の上に纏って衣とし、果実を拾っては食糧とし、厭離穢土(おんりえど)の心を固め、欣求浄土(ごんぐじょうど)の勤めを専らにした。(注7)
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(訳者注7)この世を、[穢土(けがれた所)]と見て、厭(いと)い離れ、[浄土]への往生を、欣(よろこ)んで求めていくこと。
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それから3、4年の経過の後、[承久の乱]が起こり、北条義時が政権を握った。後鳥羽上皇は島流しとなり、上述の親王が、天皇に即位した。
天皇は、解脱上人が笠置の岩屋にいることを聞き、「朝廷づきの僧侶になってくれ」と、何度も勅使を送られたのだが、上人は、「あぁ、これこそまさに、あの時、あこで、第六天魔王たちが言ぅておった事やんか。」と思い、ついに天皇の命令に従わず、ますます修行の道につき進んで行った。
かくして、智行重なって徳を開き、やがて、笠置寺の創立者となった解脱上人は、先人たちの仏教宣布の事業を、さらに拡大充実していった。
このような解脱上人の生涯と比較してみるに、なんとあきれ果てた、文観の行状であろう。このような事では、愚かな人々は、「なんだ、仏教なんて、しょせん、あんなもんか」というように、誤解してしまうではないか!
間もなく建武の乱が勃発し、文観のもとには、師の後を継ぐべき弟子が一人もいなくなってしまった。孤独衰窮の身におちぶれてしまった彼は、その後、吉野のあたりをさまよい歩きながら亡くなっていったと、聞いている。
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