太平記 現代語訳 8-5 延暦寺の衆徒、倒幕に向けて決起

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「京都での合戦開始以後、六波羅庁軍サイド、劣勢」との情報を聞き、護良親王(もりよししんのう)は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の衆徒たちに対して、「今こそ倒幕に立ち上がれ!」との書面を送った。

これを受けて、3月26日、比叡山全山の衆徒たちが、延暦寺の大講堂の庭に集合して討論会を行った。

衆徒リーダーA そもそも、この比叡山こそは、み仏がこの世を救済されんがために、神々に化身して姿を現わされ、皇室歴代を守護する防御バリアーの役目を果たしてきた聖地なのであぁる! 我らが開祖・伝教大師(でんぎょうだいし)様は、このみ寺を開基される時、精神の集中と事物の観察の中に、悟りの境地を極められた。さらに、このみ寺を、慈恵僧正(じえそうじょう)が受け継がれた時より以降、忍辱修行(にんにくしゅぎょう:注1)の僧衣の上に、魔障降伏(ましょうごうぶく)の秋霜(しゅうそう)の利剣を帯びる事になったぁ!

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(訳者注1)耐え難きを堪え忍ぶ仏道修行。
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衆徒リーダーB 以来、わがみ寺・延暦寺は、天に禍現われたる時、即座に仏法の威力をもってこれを攘(はら)い、暴逆の徒が国を乱す時、直ちに神の力を借りてこれを退けてきたぁ!

衆徒リーダーC ゆえに、わが寺の守護神を、「山王(さんのう)」と号す。「山」も「王」も、「三」の字と「一」の字とが組み合わさっとる、これぞまさしく、「三つでもなく一でもなく」という仏教の深い理(ことわり)が込められている徴(しるし)や! あぁ、なんという、微妙深遠なる理(ことわり)なるかな!

衆徒リーダーD 山号は「比叡」。これは、仏法と王法(おうぼう:注2)とが相「比」する場所であることを、意味してる!

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(訳者注2)国王の政治理念。
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衆徒リーダーA しかるに、今やまさに天下は乱れ、皇室は安泰ならず。武家の積悪に対して、天はまさに誅(ちゅう)を下そうとしておられる。その兆しは今や、賢愚を問わず万人の眼前に、明らかになってきているではないかぁ!

衆徒リーダーE 帝王の権威たるもの、盤石(ばんじゃく)揺るぎ無いもんでないとあかんやないか! そのためには、我ら出家して仏門に入りし者とて、手をこまねいていてはいかん! まさにこの国家存亡の時にこそ、報国の忠を尽くさずして、いったいどないするっちゅうねん!

衆徒リーダーD 早いとこ、幕府に味方した前非を改め、先帝陛下を必死になってお助けする方向へと、わが寺の方針をシフトすべきや!

衆徒一同 賛成、賛成!

かくして、「倒幕」に向けて衆議一致、3,000人の衆徒は各々の拠点寺院へ帰り、倒幕の企ての他に余念無し、という状態になった。

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「3月28日、六波羅庁攻撃!」と決まり、末寺や末社のメンバーはもちろんのこと、延暦寺にゆかりの近国の武士たちまでもが、雲霞(うんか)のごとく比叡山上に集結。

27日、大宮社(おおみやしゃ)の前で集合メンバーの受け付けを行い、リストを作成。軍勢総数10万6000余人。

しかしながら、衆徒たちの常として、むやみに勇みたつ事しか知らないから、そこには戦略というものが、かけらもない。

延暦寺衆徒F これだけの大軍で京都へ押し寄せたらな、六波羅庁なんか、ちょろいもんやで。

延暦寺衆徒G 比叡山からわしらが降りていくと聞いただけで、あいつら、京都から逃げ出してしまいよるんとちゃうかぁ?

延暦寺衆徒一同 ワハハハ・・・。

このように六波羅庁の力をみくびり、八幡(やわた)・山崎(やまざき)に布陣している赤松軍との共同作戦というようなことを、何も考えようとしない。

そして、「28日の午前6時、法勝寺(ほうしょうじ:注3)に陣ぞろい!」との触れが廻った。

彼らは、鎧も着用せず、兵糧を使って食事もしないまま、あるいは今路越(いまみちごえ:注4)経由で、あるいは西坂(にしさか:注5)経由で山を降り、京都へ向かった。

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(訳者注3)京都市左京区・岡崎付近にあった寺院。その後、火災などで廃寺となった。現在の京都市立動物園一帯がかつての寺域である。

(訳者注4)「志賀越道」と呼ばれているルート。

(訳者注5)雲母坂(きららざか)経由で、修学院(京都市・左京区)へ下山するルート。
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さっそく六波羅庁では、南北両長官を中心に作戦会議。

北条時益(ほうじょうときます) さてさて・・・いったいどうやって迎撃したもんだろうかねぇ?

北条仲時(ほうじょうなかとき) うん・・・思うにだ、比叡山の連中、たしかに大軍勢ではあるけどね、騎馬の者は一人もいやしないだろう。そこが狙い目だな。選抜した騎馬射手隊でもって、迎え撃つってのはどうかなぁ?

北条時益 なるほど。で、迎撃地点はどのあたりにするのがいいかな?

六波羅庁リーダーK 三条河原がよろしいのでは? あの辺りで待ち伏せしてですね、騎馬隊を両側に広く展開したり中央に集中したりしながら、左右から狙いうちに矢を射る。連中、いくら戦意が高いたって、なにせ徒歩ですからね、重い鎧に肩を引っ張られて、あっという間に疲れが来ちゃうでしょうよ。

北条時益 なぁるほど、これぞまさしく、小をもって大を砕き、弱をもって剛をとりひしぐ、ともいうべき作戦だな。

六波羅庁サイドは、7,000余騎を7手に分け、三条河原の東西に陣どって、延暦寺軍を待ち構えた。

このような事とは思いもよらず、延暦寺軍のメンバーらは、我先に京都へ入り、裕福な場所に陣を構えて財宝を押さえてしまおうと、宿泊所の門口に貼る名札を各々2、30枚ほど持ち、法勝寺(ほうしょうじ:左京区)に集合し始めた。

その軍勢を見渡せば、今路(いまみち)、西坂(にしさか)、古塔下(ふるとうした)、八瀬(やせ)、薮里(やぶさと)、下松(さがりまつ)、赤山口(せきさんぐち)に広がり、先頭はすでに法勝寺、真如堂(しんにょどう)に到着というのに、後陣はいまだに比叡山上や修学院(しゅがくいん)のあたりに充満といった状態でおびただしい数である(注6)。稲妻の光るがごとく甲冑に朝日は輝き、龍蛇がうごめくかのように軍旗は山風になびく。

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(訳者注6)以上、いずれも左京区に存在する地名。
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かたや比叡山から下りてきた軍勢、かたや洛中でそれを迎え撃とうとしている軍勢、双方の兵力を比較してみれば、六波羅庁軍は延暦寺軍の10分の1にも満たない。

延暦寺軍一同 (心中)これだけの兵力差あるんやもん、もう、余裕やねぇ、楽勝、楽勝!

六波羅庁を眼下に見下ろしながらの比叡山延暦寺・法師たちの心中の計算、大雑把ではあるが、もっともなものと思われる。

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延暦寺軍の前陣が法勝寺に到着して後続を待っている所に、六波羅庁軍7,000余騎が三方から押し寄せて、トキの声をどっと上げた。

六波羅庁軍リーダーL エーイ、エーイ!

六波羅庁軍一同 オーウ!

延暦寺軍先鋒P なんやなんや! いったいどないしたんや!

延暦寺軍先鋒Q 六波羅庁軍が攻めてきよったぞ!

延暦寺軍先鋒R なにぃーっ!

延暦寺軍先鋒S こらあかん!

延暦寺軍先鋒P おれの鎧はどこや!

延暦寺軍先鋒Q おれの太刀、どこいってしもたんやぁ?

延暦寺軍先鋒R 長刀(なぎなた)、長刀ぁー!

押し合いへしあいしながら、取るものも取りあえず、あわてふためくばかりである。わずかに1,000人ばかりが、法勝寺の西門の前に出て抜刀し、接近する六波羅庁軍を迎え撃った。

六波羅庁軍サイドは、あらかじめ立てた作戦どうりに、延暦寺軍が立ち向かってくる時には馬を返してバァッと退却し、彼らが立ち止まったと見るや、左右に散開して敵の後方に回り込もうと試みる。このように6度、7度と馬を馳せめぐらせて、相手を悩ませる。延暦寺軍サイドは全員徒歩である上に、重い鎧に肩を圧迫され、次第に疲労の色が濃くなってきた。

勢いづいた六波羅庁軍サイドは、選抜射手隊を繰り出し、さんざんに矢を射る。延暦寺軍サイドは、ただただこれに射すくめられるのみである。

延暦寺軍一同 (心中)こらあかん、遮蔽物(しゃへいぶつ)が何もない平地で戦ぉてたんでは、とても勝ち目がないわい。

彼らは再び、法勝寺の中へ引きこもろうとした。

そこへ、丹波国(たんばこく:京都府北西部+兵庫県北東部)の住人・佐治孫五郎(さじまごごろう)という武士が現われ、法勝寺西門の前に馬を横たえた。当時としては例のないような5尺3寸もの長尺の太刀を振るい、延暦寺軍の3人を胴体切り。太刀の歪みを門の扉に押し当てて直し、なおも延暦寺軍を切り捨てんとばかりに、門の前で待ちかまえ、西向きに馬をひかえている。

延暦寺軍の者たちはこれを見て、その勢いにのまれてしまったのであろうか、あるいは法勝寺の中にもすでに敵が入ってしまった、と思ったのであろうか、寺に入ることができずに、西門の前を北に向かって敗走しはじめた。真如堂の前の神楽岡(かぐらおか)後方から二手に分かれ、比叡山めざしてひたすら退却していく。

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延暦寺軍中に、東塔(とうとう)エリア南谷(みなみだに)・善智房(ぜんちぼう)に居住の二人組、豪鑒(ごうかん)と豪仙(ごうせん)という、比叡山中に名前の知れ渡った荒くれの法師がいた。

敗走する大勢の中に巻き込まれ、不本意ながらも北白川(きたしらかわ:左京区、法勝寺の北方)を目指して退却する中に、豪鑒は豪仙を呼び止めていわく、

豪鑒 なぁなぁ、豪仙、ちょっと待ちぃや。

豪仙 うぅ?

豪鑒 あのな、豪仙。勝敗は戦の常、勝つ時もあれば負ける時もある。時の運によって勝敗は決まるんやから、戦に負けたかて恥ではない・・・と、言いたいとこやけどな、いったいなんやねん、今日のこのざまは! 比叡山の恥辱、天下の笑いもんやんか!

豪仙 うん・・・。

豪鑒 なぁ、どうや、俺といっしょに引き返して、六波羅庁軍と戦こぉてみいひんか? おれといっしょに、討死にしてくれへんか? 二人の命を棄ててでも、わが延暦寺の恥を、そそごうやないか! な、な・・・。

豪仙 もうそれ以上、なにも言わいでよろし、俺もそない思う!

二人は、踏みとどまって法勝寺北門の前に立ち並び、大音声を張り上げた。

豪鑒 こらこらぁ、そこらのモン、よぉ聞けよ!

豪仙 こないに腰砕けになってしまいよった大軍勢の中からなぁ、俺らたった二人だけ戻ってきたわいな、お前らと一戦まじえたろう思ぉてな! そやからな、俺らの事を、比叡山一の剛のもん(者)やと思うてくれたら、えぇでぇ!

豪鑒 俺らの名前、お前らきっと、聞いた事あるやろぉて。比叡山東塔エリアの南谷・善智房の同宿、「豪鑒&豪仙ペア」と、比叡全山にその名は、轟きわたっとるわいな。

豪仙 我こそはと思うやつ、おらんか! おったら早いとこ、かかってこんかい! 刀剣バトルやらかして、そこらのもんにおもろい見物、さしたろやないかい!

二人は、長さ4尺余りの大長刀を水車のように振りまわし、六波羅庁軍に躍り掛かり、火花を散らして切りまくった。二人を討ち取ろうと接近していった者は、片っ端から馬の足をなで切りにされ、兜の鉢を破られて討死にしていく。

およそ1時間ほど、二人はこのように戦い続けたが、これを応援する延暦寺の衆徒は一人もいない。雨が降るごとくに射掛けられる矢に当たり、二人とも10余か所の傷を負ってしまった。

豪仙 ・・・ハァハァ・・・よぉたたこ(戦)ぉたなぁ・・・ハァハァ・・・もはや、これまで・・・ハァハァ・・・。

豪鑒 ・・・ハァハァ・・・よぉし、豪仙・・・ハァハァ・・・冥土の道中も・・・ハァハァ・・・二人でいっしょに行こなぁ!

固い約を交わすやいなや、二人は鎧を脱ぎ捨てて肌を露わにし、腹を十文字にかっ切って、枕を並べて倒れ伏した。

六波羅庁軍メンバー一同 あぁ、なんて見事な最期・・・まさに、「日本一の剛の者たち」だ・・・。

前陣が戦に敗れて退却してしまったので、延暦寺軍後陣の大勢もまた、戦場を目にもしないままに、途中から比叡山に引き返した。

豪鑒と豪仙たった二人の奮戦により、延暦寺の武名は顕揚されたのであった。

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