太平記 現代語訳 15-1 足利尊氏、園城寺を延暦寺に対抗させるために、策をめぐらす
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)が、天皇に対する忠誠を示し、天皇を擁護しつつ、北陸地方、東北地方からの朝廷側援軍の到着を待っている」
との情報を得た足利サイドでは、新田義貞の軍勢が増強される前に坂本を攻めよう、ということになり、細川定禅(ほそかわじょうぜん)、細川頼春(ほそかわよりはる)、細川顕氏(ほそかわあきうじ)に6万余騎の軍勢を率いて、園城寺(おんじょうじ:滋賀県大津市)へ向かわせた。
園城寺と延暦寺は、これまで常に敵対関係にあったから、こちらに味方してくれるであろう、と考えたのである。
軍勢派遣に合わせて、以下のような内容の将軍令(注1)が、園城寺に対して発行された、
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(訳者注1)原文では、「御教書」。
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「園城寺の衆徒諸君が、わが方に忠節を致してくれるならば、かねてからの貴寺の念願の戒壇(かいだん:注2)設立運動を大いに支援し、その実現に向けて、後押ししたいと考えている。」
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(訳者注2)仏教の「戒」を授ける道場。
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この、[園城寺・三昧耶(さまや)戒壇・設立]は、かねてからの懸案事項であった。
園城寺は、朝廷からの尊崇を得ていたので、戒壇設立の認可を天皇より頂き、鎌倉幕府(かまくらばくふ)も、それを強力にバックアップした。
しかし、延暦寺はこの、[園城寺戒壇設立]に対して猛反発し、強訴(ごうそ)を恣(ほしいまま)にして、「戒壇設立・絶対阻止!」の姿勢を貫いた。それゆえに、両寺の間に紛争が起こり、戦火にまみれることが、たび重なった。
いったいなぜ、延暦寺はこれほどまでに、この問題にこだわったのか、それにはそれなりのわけがある。
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園城寺の開祖(かいそ)・智証大師(ちしょうだいし)円珍(えんちん)は、もとはといえば、延暦寺の開祖・伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(さいちょう)の高弟である。
円珍は、顕密(けんみつ)双方の仏教に通じた大徳の人にして、智行兼備(ちぎょうけんび:注3)の権者(ごんじゃ:注4)であった。
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(訳者注3)智恵と修行力を兼ね備えた。
(訳者注4)仏が、かりに人間の姿を借りて、世に現れた存在。
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ところが、最澄の入滅の後に、円珍の弟子たちと、天台座主(てんだいざす:注5)・慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)の弟子たちとの間に、ちょっとした宗教論争が起こり、やがてそれが、両派の間の確執にまで発展してしまった。
そしてついに、円珍派の僧たちは、比叡山300房の弟子たちを率いて、園城寺に移ってしまったのである。
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(訳者注5)日本の天台宗の最高の地位。延暦寺は日本の天台宗の中心だから[延暦寺の最高位の僧=天台座主]ということになる。
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円珍に関しては、以下のような話がある:
円珍は、教待和尚(きょうたいおしょう)より、ある仏像を授かった。その像は、教待和尚の160年間の祈願の結果、世に現れた、仏の化身・弥勒菩薩(みろくぼさつ)の仏像であるという。
円珍は、この仏像をもって、三密(さんみつ)瑜伽(ゆか)の道場を構え、釈尊がその御一生にわたって説き続けられた教えを説法する法座を創始した。
その後、仁寿(じゅんじゅ)3年、円珍は、仏法を求めるために、遣唐使の一員となって中国へ渡った。
中国への渡海の途中、暴風がにわかに吹き荒れ、船が今にも転覆しそうな状態となった。
円珍は舷側に立ち、十方を拝礼し、誠を込めて祈りを捧げた。
すると、仏法を護持する不動明王(ふどうみょうおう)が、金色に輝く姿を現して、船の舳先に降り立った。さらに、新羅大明神(しんらだいみょうじん)が、船の艫(とも)のあたりに姿を現し、自ら船の舵をとった。
これら神仏の助けにより、円珍の乗った船は無事、中国の明州津(みょうじゅうのつ)に着いた。
唐に滞在中の7年間、円珍は、寝食を忘れて、顕教と密教の奥義を極めつくした。
その後、天安3年に帰国した。
その後、円珍の法流は急激な発展を遂げることとなり、その流れを継ぐ園城寺は、ついには、「国家の柱石、国民の頼り所」と目されるまでになり、「四大寺(注6)」中の一寺として、朝廷主催の仏教討論会への招聘や、皇室守護の祈祷依頼などにおいて、一頭地を抜く存在となった。
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(訳者注6)東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺。
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後朱雀(ごすざく)天皇の御治世の時、園城寺の明尊僧正(みょうそんそうじょう)は考えた、
明尊 (内心)延暦寺には、大乗戒(だいじょうかい)の戒壇がある。奈良(なら)の大寺院には、小乗戒(しょうじょうかい)の戒壇がある。ならば、わが園城寺にも、三昧耶(さまや)の戒壇があったかて、えぇやないか!
そこで、明尊は朝廷に対して、
「なにとぞ、園城寺に対して、戒壇設立を、認可下さいませ」
と、しきりに嘆願した。
ところが、それを聞いた延暦寺の僧たちは、
「そのようなこと、決して許されるべきでは、ない!」
と、猛反発。
朝廷に対して、延暦寺側は、以下のように主張した。
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貞観(じょうがん)6年12月5日づけの、園城寺に縁の深い大友皇子(おおともおうじ:注7)の子孫・大友夜須良麿(おおとものやすらまろ)ら一族の連名での書状には、以下のようにあります:
「
『今後末永く、園城寺を延暦寺の別院(べついん:注8)とし、円珍をそこの住職にしてくだいますように』と、お願いしておりましたが、早々に朝廷よりのお恵みをいただき、我々の願いをかなえていただけました。
『担当官庁からの太政官(だいじょうかん)への要請のごとく、園城寺を延暦寺の別院とせよ』との、朝廷のご決定があったことを聞き、私・大友夜須良麿とその一族は、憂いと嘆息の中から救われた思いがいたしております。
今後、園城寺は、天台宗の別院として、天長地久の御願をひたすら祈り、天下泰平に向けて、さらなる貢献をしていくことでしょう。
」
そして、貞観8年5月14日、朝廷より、「園城寺を天台宗の別院とする」との、公式発表が行われたのであります。
さらに、貞観9年10月3日づけの円珍が記した文書には、以下のようにあります、
「円珍の門弟は、奈良の寺院の小乗戒を受けるべからず。必ず、延暦寺の大乗戒の戒壇において、大乗菩薩戒(だいじょうぼさつかい)を受けるべし」。
以上に述べた事により、延暦寺と園城寺との関係において、どちらが本で、どちらが末であるかは、もう明らかではありませんか。園城寺はあくまでも、延暦寺の別院、末寺に過ぎないのであります。
師弟関係(注9)から考えても、両寺が対等でないことは、もう言うまでもない事です。
よって、そのような寺に対して、戒壇の設立を認可されることが無きように、なにとぞ、お願いいたします。
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(訳者注7)天智天皇の皇子。天皇の没後、天皇の弟・大海皇子(後の天武天皇)と皇位継承をめぐって戦い、破れた。(壬申の乱)。
(訳者注8)本寺より離れて別に立てられた支部寺院。
(訳者注9)円珍は、延暦寺開祖・最澄の弟子であるから。
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このように、過去の記録に基づいての理論的な主張をぶつけられて、天皇は悩んだ。
園城寺の戒壇設立を認可すべきか、すべきでないか・・・悩みぬいた末に、天皇は、この問題は自分のような凡夫(ぼんぷ)に判断が下せるようなものではないから、神仏に決定を委ねようと考えた。
天皇は、神仏に対して是非判断を願う旨の祈願文を自らしたため、比叡山延暦寺の根本中堂(こんぽんちゅうどう)に奉納させた。その内容は以下のごとし:
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園城寺の戒壇設立を認可しても国家に危険が及ばない、というのであれば、どうか、その旨をお示し下さいませ。逆に、認可、大いに問題あり、というのであれば、そのようにお示し下さいませ。
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この祈願文の奉納後7日目の夜、天皇は不思議な夢を見た。
無動寺(むどうじ)の慶命僧正(きょうみょうそうじょう)が、一通の文書を天皇の御前に差し出していわく、
慶命 私は、陛下が胎内におられる時から、君主の地位にあられる今日に至るまで、皇位の長久を祈願し続けてきました。しかしながら、陛下が園城寺の戒壇設立を認可されましたならば、私のこの祈願は空しくなってしまいます。
次の夜、再び、慶命は天皇の夢枕に現われた。紫宸殿(ししんでん)に参内してきた慶命は、大いに怒っているようである。
慶命 昨日、お願いの文書を陛下に奉って、あれほど申し上げたのに、陛下は全く気にも止めておられないようですね。どうしても、園城寺の戒壇設立をお許しあるとならば、これまでは陛下のためにと祈ってきました私のこの祈念の波形が、怨念のそれに変わってしまいますよ。
さらに、次の夜の夢では、弓矢を帯した一人の老人が宮中にやってきて、いわく、
老人 我は、天台宗を擁護する赤山大明神(せきさんだいみょうじん)である。園城寺に戒壇を設立せよと言うておる者に向けて、矢の一本でも射てやろうと思い、御所までやってきた。
このような、毎夜の悪夢に、天皇も臣下も恐怖を覚え、ついに、園城寺戒壇設立認可の願いは却下され、延暦寺の言い分、まことにもっともなり、という事に決着してしまった。
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それからはるか後の世、白河(しらかわ)天皇の御治世の時、園城寺に、大江匡房(おおえただふさ)の兄の頼豪僧都(らいごうそうず)という身分の高い人がいた。
頼豪は、朝廷より皇子誕生の祈祷を依頼され、勅命を承り、肝胆(かんたん)を砕いて一心に祈祷、彼の徳力はたちまち効力を示現(じげん)して、承保(じょうほう)1年12月16日、めでたく皇子が誕生した。白河天皇は感激の余り、頼豪に対して、
白河天皇 祈祷の褒美、何なりと言うてみ、望み通りに取らすから。
頼豪 ははっ、ありがたきお言葉! では、私のかねてからの念願を申し上げます。官位も禄も何も望みません。園城寺に戒壇を設立、私の望みはただこれだけです。なにとぞ、なにとぞ、戒壇設立のご認可を、お願い申し上げます!
白河天皇 よっしゃ、分かった!
これを聞いた延暦寺はさっそく、「園城寺戒壇設立・絶対反対!」の嘆願書を朝廷に提出し、過去の歴史的経緯を明らかにした上で、認可を取り下げられるように、朝廷に訴えた。
しかし朝廷は、「綸言(りんげん)再びくつがえらず」として、それに取り合おうとしない。
怒った延暦寺の面々は朝廷への抗議の声高く、比叡山全山の道場における講義の一斉休講、全ての社の門戸を閉ざして、朝廷護持の祈願停止のストライキに、突入。
朝廷もこれを無視するわけにはいかず、仕方なく、園城寺戒壇設立の天皇よりの認可が覆されるに至った。
今度は、頼豪の方が怒り心頭に。彼は百日間、髪も剃らず爪も切らず、護摩壇の煙にすすけて黒くなりながら、瞋恚(しんい)の炎にわが骨を焦がし、一心に祈祷。
頼豪 願わくば、我、この身このまま、大魔王に化身し、天皇の身辺に災いを与え、延暦寺の仏法を滅亡せしめん!
祈祷を始めてから21日目、彼は、護摩壇上に命終わった。
その後、彼の怨霊は、邪毒を朝廷の上に投げかけ、彼の祈祷の力によって誕生した皇子は、母の膝の上から未だに離れない幼少のうちに死去してしまった。
苦悩にうちひしがれる天皇・・・。
園城寺の肩を持つことにより得られるメリットは、園城寺の祈祷の力である。一方、そのデメリットは、延暦寺からの強硬な反発である。
しかし今、メリットよりもデメリットの方が大きいということが、明らかになった。
かくなるうえは、延暦寺側に権威アピールの機会を与え、天皇位の後継者を得るのが得策、ということになり、朝廷は、今度は延暦寺から、天台座主・良信大僧正(りょうしんだいそうじょう)を招聘して、皇子誕生の祈祷を行わせた。
その祈祷の間、様々に不思議な事が起こり、承暦(しょうりゃく)3年7月9日、皇子が誕生。その後、延暦寺は常にこの皇子に対して護持の祈りを捧げたので、頼豪の怨霊もこれに接近できなかったのであろう、この皇子は無事成長し、めでたく天皇位を継承された。退位の後、堀川院とお呼びしたのが、この二番目の皇子である。
その後、頼豪の亡霊は、石の身体と鋼鉄の牙を持つ8万4千匹のネズミに変身し、比叡山に登り、延暦寺の仏像や経巻を、噛み破りはじめた。
延暦寺側は、これをどうにも防ぎようがなく、ついに一社を建立して、頼豪をその神として崇め、その怨念を鎮めた。これが、鼠祠(ねずみほこら)である。
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それ以降、園城寺は、戒壇設立を何としてでも朝廷に認可させようと、さらに意地を通し、延暦寺も、これまでしてきたように、強訴をもって、これを撤回させようと理不尽を重ねるようになった。
承暦年間から文保(ぶんほう)2年の間に、この戒壇設立問題をめぐって、園城寺に火がかけられること、7度に及んだ。
そのような事があって、最近は、園城寺側も戒壇設立を断念、かえってそれが、幸いしたのであろう、園城寺は繁栄し、仏法僧の三宝も安泰の日々を送ってきた。
それなのに、足利尊氏は、「園城寺の戒壇設立認可に向けて、応援しよう」などと言って、沈静していたこの問題に、またまた火をつけてしまったのである。これを聞いた世間の人々は口々に、批判する、
世間の人A まぁもう、なんちゅうことを・・・園城寺の衆徒の歓心を買いたい一心で、「戒壇設立認可支援」の将軍令、出してしまわはったがなぁ。
世間の人B 延暦寺の衆徒ら、またまた、怒っちゃうぞぉ。
世間の人C そのへんの事情っちゅうもんを、もうちょっと、よぉ考えてからにせんと、いかんわなぁ。
世間の人D あまりにも、粗忽(そこつ)な決定だで。
世間の人E いや、ほんと。まさに、仏教を障害する天魔のしわざ、仏法滅亡の原因となってしまうような政策だよ、これはぁ。
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