太平記 現代語訳 40-5 将軍・足利義詮、死去

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このような中に、同年9月下旬頃から、将軍・足利義詮が、体調を崩してしまった。

寝食快く無いがゆえに、和気(わけ)と丹波(たんば)の両流はもちろんの事、医療の分野において世間に名を知られている人を残らず招き、様々の治療を施した。

しかし、かの大聖釈尊(たいせいしゃくそん)においてさえも、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下において涅槃(ねはん)せられたる時には、名医・ギバの霊薬も効験が無かったのである。この事を通して、釈尊は、「人生の無常」という事を、予め、我々に示し置かれたのである。

ならば、既に定まっている個々の人の寿命を先伸ばしにできるような薬など、この世にあろうはずがない。これまさに、明らかなる有待転変(うだいてんぺん)の理(ことわり)である。

京都朝年号・貞治6年(1367)12月7日午前0時、足利義詮は逝去した。享年38歳。

天下は久しく、将軍・義詮の掌(たなごころ)の中にあった。彼から恩を頂き、彼の徳をしたう者は、幾千万人いたことであろうか。

しかし、いくら嘆き悲しんでみても、もはやそのかいもない。

「いつまでも、嘆き悲しんでいてはいかんのだ」と、関係者一同、自らに言い聞かせ、泣く泣く、葬礼の儀式を取り営み、衣笠山(きぬがさやま:京都市・北区)の麓、等持院(とうじいん:北区)に、遺体を移した。

12月12日正午、火葬の準備が整えられ、荘厳なる仏事が始まった。

鎖龕(さがん)の偈文(げぶん)を唱えるは東福寺(とうふくじ:東山区)の長老・知親義堂(ちしんぎどう)、起龕(きがん)の偈文を唱えるは建仁寺(けんにんじ:東山区)の竜湫周澤(りゅうしゅうしゅうたく)、奠湯(てんとう)供えの儀は萬壽寺(まんじゅじ:東山区)の桂岩運芳(けいがんうんほう)、奠茶(てんちゃ)供えの儀は真如寺(しんにょじ:北区)の中山清誾(ちゅうざんせいぎん)、念誦は天龍寺(てんりゅうじ:右京区)の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、下火(あこ)は南禅寺(なんぜんじ:左京区)の定山祖禅和尚(ていざんそぜんおしょう)が行った。

文々(もんもん)に悲涙(ひるい)の玉詞(ぎょくし)を磨き、句々に真理の法義(ほうぎ)を述べる。故人も速やかに、三界(さんがい)の苦輪(くりん)を出て、直ちに涅槃四徳(ねはんしとく)の楽邦(らくほう)に到達されることであろうか・・・悲しみは、いやますばかり・・・。

世間の声A それにしても、今年っちゅう年はまぁ、いったいなんちゅう年やったんでしょうなぁ。

世間の声B 京都と鎌倉と時同じく、兄弟の連枝(れんし)たちまちに、同根(どうこん)空しく枯れてしまうとはねぇ。

世間の声C この先いったい、どなたさんが征夷大将軍に就任されて、四海の乱を治めていってくれるんじゃろかいのぉ?

世間の声D ムムム・・・まさに、危うき中に愁い有り、だが。

世間の声一同 さてさて、この先いったい、どないなっていくもんやら・・・。

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