太平記 現代語訳 16-4 各地で、足利サイド勢力、決起
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利尊氏(あしかがたかうじ)が九州へ逃走した後、四国や中国の足利サイドの人々は呆然自失(ぼうぜんじしつ)状態になってしまい、進退窮してしまった。あるいは山林の奥深く身を隠し、あるいは縁故を頼って新田義貞(にったよしさだ)に所領安堵をしてもらい、というような状態であったから、その時すぐに、義貞が中国地方へ軍を進めておれば、一人残らず降参していただろう。
しかし・・・。
ここに、ある女人がいた。
彼女は、御所に勤務する勾当内侍(こうとうのないし:注1)職にあり、「当世天下第一の美女」との誉れ高き人。義貞はなんと、彼女を後醍醐天皇から賜ってしまったのである。
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(訳者注1)内侍職の筆頭。
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新田義貞 (内心)あぁ、この女人(ひと)は、なんて素晴らしいんだろう・・・1分も、いや、1秒たりとも、離れていたくない、24時間365日、ずっといっしょにいたい・・・この女人を残して遠征に出るだなんて、そんな悲しい事、出来るわけないだろう。
このようなわけで、朝廷側の中国地方への派兵は、3月末までずるずると遅延してしまったのであった。あぁ、またしても、例の「美女起因性・国家危機」が・・・。(注2)
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(訳者注2)原文:「誠(まこと)に傾城(けいせい)傾国(けいこく)の験(しるし)なれ」
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そうこうしているうちに、丹波国(たんばこく:兵庫県東部+京都府中部)では、久下(くげ)、長澤(ながさわ)、荻野(おぎの)、波々伯部(ははかべ)たちが、仁木頼章(にっきよりあきら)を大将に仰いで高山寺城(こうさんじじょう:兵庫県・丹波市)にたてこもり、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)では、赤松円心(あかまつえんしん)が、白旗峯(しらはたみね:兵庫県・赤穂郡・上郡町)に城郭を構え、朝廷側の中国地方への進軍を阻止する動きを見せ始めた。
美作国(みまさかこく:岡山県北部)では、菅家(かんけ)、江見(えみ)、弘戸(ひろと)の者らが、奈義能山(なぎのせやま:岡山県・勝田郡・奈義町)と菩提寺(ぼだいじ:岡山県・勝田郡・奈義町)に城を構えて国中を制圧。
備前国(びぜんこく:岡山県東部)では、田井(たい)、飽浦(あくら)、内藤(ないとう)、頓宮(とんぐう)、松田(まつだ)、福林寺(ふくりんじ)の者らが、石橋和義(いしばしかずよし)を大将に仰いで、甲斐河(かいかわ:場所不明)、三石(みついし:岡山県・備前市)の2か所に城を構えて、海路と陸路の双方を抑えにかかった。
さらに備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)では、庄(しょう)、真壁(まかべ)、陶山(すやま)、成合(なりあい)、新見(にいみ)、多地部(たちへ)の者らが、勢山(せやま:岡山県・倉敷市)を塞ぎ、鳥も飛べないような防衛ラインを構えた。
これより以西、備後(びんご:広島県東部)、安芸(あき:広島県西部)、周防(すおう:山口県南部)、長門(ながと:山口県北部)は言うに及ばず、四国、九州全域において、「もうこうなったら、足利サイドに参加するしかないだろう」ということで、足利尊氏に気脈を通じていなかった者たちまでもがこぞって、足利陣営に、という情勢になってきた。
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方々の城郭や国々における足利サイド勢力の決起の知らせが、続々と京都へ伝えられてくる。
「東の方面までも、敵の支配下になってはまずい」ということで、朝廷はまず、北畠顕家(きたばたけあきいえ)を鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命して東北地方へ下向させた。次に、新田義貞に、16か国(注3)の軍事権を与え、足利尊氏追討の命令を下した。
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(訳者注3)山陽道8か国と山陰道8か国。
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朝廷からの命令を受けて、まさに中国地方へ出発しようとした義貞であったが、折り悪しく、[おこり病]を患ってしまったので、江田行義(えだゆきよし)と大館氏明(おおたちうじあきら)を、播磨へ先行させた。
彼らが率いる2,000余騎は、3月4日に京都を発ち、同月6日、書写山(しょしゃざん:兵庫県・姫路市)および坂本(さかもと:姫路市)に到着した。
この情報をキャッチした赤松円心は、そこに、新田軍を留まらせてはいかん、と思い、備前・播磨両国の武士たちを率いて、書写山、坂本めがけて進発。
江田行義と大館氏明は、室山(むろやま:兵庫県・たつの市)まで出向いて、それを迎え撃った。
その戦いにおいて、赤松軍は敗北。新田サイド先発軍は勢いづき、「中国地方の敵勢力、恐れるに足らず、一刻も早く、本隊の進軍を!」とのゲキ(檄)を、京都へ送った。
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