太平記 現代語訳 31-1 新田一族、再起す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)と足利幕府(あしかがばくふ)との和平交渉が行われていた間、京都をはじめ日本全土には、暫(しば)しの静穏(せいおん)が訪れた。

しかし、それはたちまちにして破れ、再び戦乱の世に逆戻りとなった。

吉野朝側の首都奪回の後、京都と近畿地方だけは、かろうじて彼らの支配下になったものの、それ以外の地域においては、依然として足利幕府の武威に従う者が大多数であった。このような情勢下であるがゆえに、諸国七道(しょこくしちどう)の武士たちは皆、彼を討ち、これを従えんと、互いに覇(は)を競い、戦の止む時が無い。

世はすでに、釈尊(しゃくそん)滅後(めつご)2000年を経過し、第5堅固(だいごげんご:注1)すなわち名付けて「闘諍(とうじょう)堅固」の時代になっている。従って、天皇&公家 versus 武士の階級闘争という要素がたとえ無かったとしても、自然と世の中、戦闘が多くなるのは当然の理(ことわり)とはいえよう。

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(訳者注1)釈尊の滅後の時間の経過を500年単位に区切り、その一単位を「堅固」と言う。
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世間の声A それにしてもやでぇ、元弘(げんこう)年間、建武(けんむ)年間以降、まぁ何と、争い事の多いことか。

世間の声B ほんに、そうどすなぁ。天下は久しく乱れに乱れ、一日たりとて、まともに政治が行われた事、あらしませんやん。

世間の声C 心有る者も心無き人も、もうこうなっちゃぁ、思いは同じよ、「いっそ、どこかの山奥にでも引きこもって・・・」。

世間の声D あのっさぁ、そんな事、いくら考えてたってぇ、ダメなんだよぉ!

世間の声C いってぇ、どうして?

世間の声D まぁっさぁ、考えてもごらんよぉ。我が身の隠れ家を求めて、日本全国どこへ行ったってっさぁあ、同じ憂き世の空の下にいる事に、変わりないじゃぁん?

世間の声C うーん・・・。

世間の声D 昔、中国の後漢(こうかん)王朝時代にっさぁ、厳子陵(げんしりょう)って人がいたんだってぇ。皇帝から宮づかえの誘いかかったんだけどぉ、それ断ってっさぁ、毎日、釣りと畑仕事で一生終えたんだってぇ。でもっさぁ、そんなの、現代ではしょせんムリなんだよねぇ。釣り場に座ってっさぁ、足伸ばして水の中へ入れてごらんってぇ、身を切るような冷たさなんだよぉ、この憂き世の水はねぇ。

世間の声E 田舎へひっこむのがあかんのやったら、ほなら、誰も人のいいひん山ん中へ引っ込むっちゅうテはどうや?

世間の声D 甘い甘いー! ダメダメェ! これも、後漢王朝時代の人なんだけどっさぁあ、鄭弘(ていこう)って人がいたんだよねぇ。この人、山ん中で薪取って生活してたんだなぁ。で、ある日この人、出会った仙人に親切にしてあげたんだよねぇ。でもってぇ、その仙人が、お礼に何くれたと思う?

世間の声B 京都のきれいな、お干菓子(ひがし)!

世間の声D あぁのねぇ・・・お菓子なんかいくらあったって、山ん中で暮していけないじゃないのっさぁ! 仙人はね、風をくれたんだよぉ、風!

世間の声B 風? 風なんかもろて、いったい、なにになるんどす?

世間の声D 薪かつぐのって重いだろ? でもってぇ、鄭弘が薪かつぐ時、いつも谷から不思議な風が吹いてくるようになってっさぁ、それで薪が重くなくなっちゃったんだってぇ。だけどぉ、今の世の中じゃっさぁ、そんな不思議な風なんか、ゼッタイ吹きっこないんだよねぇーえ。

世間の声F 
 人生は 重き薪を背負うていく 遥かに続く山道のごとし
 ああ わが背中に食い込む あまりにも重き この薪かな
 わが か弱き足もて超え行くには あまりにも険しき この山々かな
 わが人生 何処(いずこ)まで行かば ついに峠に辿り着かんや

世間の声C あーあ、いってぇぜんてぇ、何の因果を共有してオレたち、こんなとんでもねぇ乱世に、生まれてきちまったんだろなぁー!

世間の声F 
 今や我々は 現実この世の中に 六道(ろくどう)の世界を 体験しているのだ
 ある者は 生きながらにして 餓鬼道(がきどう)の苦を味わい
 ある者は 死ぬ前にして既に 修羅道(しゅらどう)の奴隷の日々を 送っているではないか

世間の声一同 ああ、ほんまに、なんちゅうムチャクチャな世の中なんやろう、なんちゅう悲惨な人生なんやろう。

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今は既に故人となってしまったかの新田(にった)兄弟の遺児たち、すなわち、新田義貞(にったよしさだ)の次男・義興(よしおき)、三男・義宗(よしむね)、脇屋義助(わきやよしすけ)の長男・義治(よしはる)は、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、上野(こうずけ:群馬県)、信濃(しなの:長野県)、越後(えちご:新潟県)の各地を転々として身を隠しながら、生き続けていた。

彼らの願いはただ一つ、「時、来たりなば、朝廷の旗を高く掲げて、打倒・足利勢力に向けて挙兵!」。

吉野朝廷は、彼らの決起を促すべく、後村上天皇(ごむらかみてんのう)が住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)に滞在中の時に、由良信阿(ゆらしんあ)を勅使として彼らのもとに送った。

由良に託された朝廷からのメッセージは、以下の通りである。

 「足利との和平交渉は、敵を欺く為の当面の謀りごとである、ゆえに、決して迷ぉたりせぬように。躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)しておる時間は無いぞ、速やかに兵を挙げ、足利尊氏(あしかがたかうじ)を追討し、わが陛下のみ心を、安んじたてまつれ。」

由良信阿は急ぎ関東へ赴き、三人に接触して事の詳細を伝えた。

脇屋義治 なぁんだ、そういう事だったのかぁ!

新田義宗 和平交渉は、敵を油断させる為の作戦だったんだぁ。

新田義興 じゃぁさっそく、挙兵と行くか!

新田義宗 挙兵だ!

脇屋義治 挙兵だ!

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さっそく、檄文(げきぶん)を関東八か国の武士たちに送ったところ、これに応ずる者の数が800人にも達した。

その中でもとりわけ目立ったのが、石塔義房(いしどうよしふさ)である。

義房は、足利直義(あしかがただよし)の旗の下、薩埵峠(さったとうげ:静岡県・静岡市)の戦(注2)に参戦したが、あえなく敗北、かろうじて命だけは助けられて、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)にいた。しかし、頼みのツナの直義は死去してしまった。(注3)

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(訳者注2)30-4 参照。

(訳者注3)原文では、「大将に憑(たのみ)たる高倉禅門は毒害せられぬ」。ここでも、太平記作者は、足利直義が毒殺されたと、断言しているのだが、これは史実に反する記述であると、訳者は考える。これの詳細については、30-5の末尾の訳者注を参照いただきたい。
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石塔義房 (内心)ああ、なんとかして、自分のこのミジメな運命、打開してぇもんだなぁ!

石塔義房 (内心)でも、オレ一人じゃ何もできゃしない・・・。

石塔義房 (内心)いっそのこと、どっかの誰かが反乱起してくれたらなぁ・・・オレもそれに乗っかるんだけど。

そのような所に、新田兄弟から、密かに檄文が送られて来られたのであった。

石塔義房 (内心)こりゃぁ好都合! まさに、「流れに棹さす」ってとこだな。よぉし、乗っかれ、乗っかれぃ!

義房は直ちに、内応の返事を送った。

三浦高通(みうらたかみち)、葦名判官(あしなはんがん)、二階堂下野二郎(にかいしもつけじろう)、小俣宮内少輔(おまたくないしょうゆう)もまた、同様の状態下にあった。直義陣営に加わった後に、薩埵峠の戦で敗北。降伏してかろうじて命だけは繋いだが、「世間の人の目、世間の人の口は、我々の事をののしるばかりで、まことに口おしい限り、機会あらば、再び決起を」と思っていた。

そのような所に、新田義宗と脇屋義治から、「あんたら、頼りにしてますよ」とのメッセージが届いた。「もっけの幸い、これぞ渡りに舟!」とばかりに大喜び、すぐに内応の返事を送った。

彼らは密かに、鎌倉の扇谷(おうぎがやつ)に集まって、作戦会議を持った。

メンバーG 新田の連中らが、上野で兵を挙げて武蔵へ侵入となったらね、おそらく、将軍(注4)は、鎌倉でじっと彼らを待ってたり、しないだろうな。

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(訳者注4)ここに登場の「将軍」とは、時の征夷大将軍・足利尊氏の事である。
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メンバーH そうさなぁ・・・きっと、関戸(せきど:東京都・多摩市)から入間川(いるまがわ:埼玉県)あたりまで進んで、そこで、新田軍を防ぎ止めようって事になるだろうね。

メンバーI 我々の兵力は? どれくらい、かき集めれるかなぁ?

メンバーJ いくら低めに見積もっても、3,000騎は、いけるだろう。

メンバーK なぁなぁ、こんな謀略どうだろうね? 将軍が出陣する時には、おれたちも当然、いっしょについていく事になるだろ? その時にさ、わざと、将軍のすぐ近くに布陣するんだよ。でもってさ、合戦が半ばほどに達した頃合いを見計らって、将軍を包囲する、でもって、一人残らず討ち取り、その後、新田軍に合流。

メンバー一同 お、いいな、それ。

メンバーK じゃぁ、そう書いて、新田に送るよ、それでいいね?

メンバー一同 よぉーし!

このように、新田側と確かにしめし合わせた後、石塔、三浦、小俣、葦名たちは、鎌倉でじっと機会をうかがった。

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各方面の手はずが整い、新田義宗と脇屋義治は、うるう2月8日、手勢800余騎を率いて、西上野で挙兵。これを聞いて、新田一族や他家の者たちが続々、そこに参集してきた。そのメンバーは、以下の通り。

新田一族:江田(えだ)、大館(おおたち)、堀口(ほりぐち)、篠塚(しのづか)、羽川(はねかわ)、岩松(いわまつ)、田中(たなか)、青龍寺(しょうりゅうじ)、小幡(おばた)、大井田(おおいだ)、一井(いちのい)、世良田(せらだ)、篭澤(こもりざわ)。(注5)

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(訳者注5)なつかしい名前が多く見られる。新田義貞の家臣として、これまでに、江田行義、大館氏明、堀口貞光、篠塚伊賀守らが、登場した。
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他家からは:宇都宮三河三郎(うつのみやみかわさぶろう)、天野政貞(あまのまささだ:注6)、三浦近江守(みうらおうみのかみ)、南木十郎(なんぼくじゅうろう)、西木七郎(せいぼくしちろう)、酒匂左衛門(さかわさえもん)、小畑左衛門(おばたさえもん)、中金(なかかね)、松田(まつだ)、河村(かわむら)、大森(おおもり)、葛山(かつらやま)、勝代(かつしろ)、蓮沼(はすぬま)、小磯(こいそ)、大磯(おおいそ)、酒間(さかま)、山下(やました)、鎌倉(かまくら)、玉縄(たまなわ)、梶原(かじわら)、四宮(しのみや)、三宮(さんのみや)、南西(なんさい)、高田(たかだ)、中村(なかむら)。

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(訳者注6)19-3 に登場。
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児玉党(こだまとう)武士団からは:浅羽(あさば)、四方田(よもだ)、庄(しょう)、櫻井(さくらい)、若児玉(わかこだま)。

丹党(たんとう)武士団からは:安保信濃守(あふしなののかみ)、その子息・安保修理亮(しゅりのすけ)、その弟・安保六郎左衛門(ろくろうざえもん)、加治豊後守(かじぶんごのかみ)、加治丹内左衛門(たんないざえもん)、勅使河原丹七郎(てしがわらたんのしちろう)。

その他、西党(せいとう)、東党(とうとう)、熊谷(くまがい)、太田(おおた)、平山(ひらやま)、私市(きさいち)、村山(むらやま)、横山(よこやま)、猪俣(いのまた)党。

これら総勢10万余騎は、方々に火を放ちながら南下、国境を越えて、武蔵国になだれこんでいった。

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「上野(こうずけ)で、新田(にった)一族、叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)す、はやくも武蔵国(むさしこく)へ越境侵入!」との急報が、足利幕府・鎌倉(かまくら)庁へ、櫛(くし)の葉を引くがごとくに頻繁(ひんぱん)に伝えられてくる。

仁木(にっき)家メンバーL んでぇ、敵の兵力はいってぇ、どれくれぇなんだぁ?!

使者 ざっと見積もっても、20万騎を下回る事は、なかろうかと。

これを聞いた仁木&細川(ほそかわ)両家のメンバーらは、

細川家メンバーM こりゃぁ、えれぇ事になったなぁ。

細川家メンバーN 鎌倉中の兵、残らずかき集めたって、1,000騎足らずしか、いやしねぇぞぉ。

仁木家メンバーO だよなぁ・・・諸国から援軍、やっちゃぁくるんだろうけど、今のこの急場には、とても間に合やしねぇ。

仁木家メンバーL 将軍様、1,000騎足らずでもって、20万の敵を防ぐなんて、こりゃ到底、ムリってもんでさぁ。

細川家メンバーM そうですよ! ここはいったん、安房(あわ:千葉県南部)か上総(かずさ:千葉県中部)へでも退避(たいひ)してですね、そこで兵を集めてから、あらためて合戦ってフウにもってった方が・・・。

足利尊氏(あしかがたかうじ) ・・・。

仁木家メンバーL 早く、決断していただかないと、手後れになっちまいます!

仁木家メンバーM 将軍様ぁ!

足利尊氏 ・・・。

仁木&細川両家メンバー ・・・。

足利尊氏 退避・・・退避なぁ・・・。

仁木&細川両家メンバー ・・・。

足利尊氏 あのなぁ・・・これは、戦(いくさ)の常だけどな・・・戦ってのは、いったん逃げだしてしまったら、もうそれで、終わりなんだよ・・・逃げた後に、再び戦って勝てる確率なんか・・・まぁ、ゼロとは言わんけどな・・・そうさな、0.1%くらいのもんだろう。

仁木&細川両家メンバー ・・・。

足利尊氏 安房・・・あるいは上総に、逃げたとしてもだ・・・武蔵、相模(さがみ:神奈川県)、上野、下野(しもつけ:栃木県)の者たち・・・たとえ、私につこうと思う心があったとしても、敵に間を隔てられてちゃぁ、どうしようもない・・・絶対に、味方になってはくれないだろうよ。

仁木&細川両家メンバー ・・・。

足利尊氏 それにだ・・・私が鎌倉を放棄したと聞いたら・・・敵側に回ってしまう者が、多くなるだろうな・・・。

足利尊氏 今回の戦、たとえこちらは小勢であったとしても・・・鎌倉を出て、敵の来るのを途中で待ちうけ、そこで決戦・・・これがベスト、これしかない・・・これしかないのだよ。

というわけで、16日早朝、尊氏は、わずか500余騎を率いて、新田軍を迎撃せんがために、武蔵国へ出発した。

彼の後を追って、鎌倉から出陣したメンバーのリストは、以下の通り。

畠山高国(はたけやまたかくに)、その子息・畠山伊豆守(いずのかみ)、畠山国清(くにきよ)、その弟・畠山義深(よしふか)、その弟・畠山清義(きよよし)、その弟・畠山義熙(よしひろ)、
仁木頼章(にっきよりあきら)、その弟・仁木義長(よしなが)、その弟・仁木修理亮(しゅりのすけ)、
岩松式部太夫(いわまつしきぶだゆう)、大嶋義政(おおしまよしまさ)、石塔義基(いしどうよしもと)、
今川範国(いまがわのりくに)、今川式部太夫(しきぶだゆう)、
田中三郎(たなかのさぶろう)、
大高重成(だいこうしげなり:注7)、大高土佐修理亮(とさしゅりのすけ)、
大平惟家(おおひらこれいえ)、大平義尚(よしなお:注8)、
宇津木平三(うつきへいぞう)、宍戸朝重(ししどともしげ:注9)、山城判官(やましろはんがん)、曽我兵庫助(そがひょうごのすけ)、梶原弾正忠(かじわらだんじょうのちゅう:注10)、
二階堂丹後守(にかいどうたんごのかみ)、二階堂三郎左衛門(さぶろうざえもん)、
饗庭命鶴丸(あえばみょうづるまる:注11)、和田筑前守(わだちくぜんのかみ)、
長井廣秀(ながいひろひで:注12)、長井備前守(びぜんのかみ)、長井時春(ときはる:注13)、その子息・長井右近将監(うこんしょうげん)ら。

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(訳者注7)大高重成は、30-7 で、足利義詮と共に近江にいることになっているはず。

(訳者注8)24-4 に登場。

(訳者注9)27-5 に登場。

(訳者注10)29-6 に登場、その中で戦死したということになっている。

(訳者注11)29-8 に登場。

(訳者注12)24-4 に登場。

(訳者注13)24-4 に登場。
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さらに、例の「陰謀グループ」すなわち、

石塔義房、三浦高通、小俣宮内少輔、葦名判官、二階堂下野二郎は、他家の者を交えず3,000騎を率いて、尊氏の前後に、ぴったりくっついて出陣した。

久米川(くめがわ:東京都・東村山市)に、一日逗留(注14)。さらに多くの武士たちが、尊氏の下に馳せ参じてきた。そのメンバーは以下の通り。

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(訳者注14)これも史実と異なるらしい。
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川越弾正少弼(かわごえだんじょうしょうひつ)、川越上野守(こうずけのかみ)、川越唐戸十郎左衛門(からとじゅうろうざえもん)
江戸遠江守(えどとおとうみのかみ)、江戸下野守(しもつけのかみ)、江戸修理亮(しゅりのすけ)
高坂兵部大輔(こうさかひょうぶのたいう)、高坂下野守(しもつけのかみ)、高坂下総守(しもうさのかみ)、高坂掃部助(かもんのすけ)
豊嶋弾正左衛門(としまだんじょうざえもん)、豊嶋兵庫助(ひょうごのすけ)
土屋備前守(つちやびぜんのかみ)、土屋修理亮(しゅりのすけ)、土屋出雲守(いずものかみ)、土屋肥後守(ひごのかみ)
土肥次郎兵衛入道(とひじろうびょうえにゅうどう)、その子息・土肥掃部助(かもんのすけ)、その弟・土肥甲斐守(かいのかみ)、土肥三郎左衛門(さぶろうざえもん)
二宮但馬守(にのみやたじまのかみ)、二宮伊豆守(いずのかみ)、二宮近江守(おうみのかみ)、二宮河内守(かわちのかみ)
曽我周防守(そがすおうのかみ)、曽我三河守(みかわのかみ)、曽我上野守(こうずけのかみ)、その子息・曽我兵庫助(ひょうごのすけ)
渋谷木工左衛門(しぶやもくざえもん)、渋谷石見守(いわみのかみ)
海老名四郎左衛門(えびなしろうざえもん)、その子息・海老名信濃守(しなののかみ)、その弟・海老名修理亮(しゅりのすけ)
小早川刑部太夫(こばやかわぎょうぶだゆう)、小早川勘解由左衛門(かげゆざえもん)
豊田因幡守(とよだいなばのかみ)、狩野介(かののすけ)、那須遠江守(なすとおとうみのかみ)、本間四郎左衛門(ほんましろうざえもん)、鹿嶋越前守(かしまえちぜんのかみ)、嶋田備前守(しまだびぜんのかみ)、浄法寺左近太夫(じょうほうじさこんだゆう)、白塩下総守(しらしおしもうさのかみ)、高山越前守(たかやまえちぜんのかみ)、小林右馬助(こばやしうまのすけ)、瓦葺出雲守(かわらぶきいずものかみ)、見田常陸守(みたひたちのかみ)、古尾谷民部大輔(ふるおやみんぶのたいう)、長峯石見守(ながみねいわみのかみ)等、
合計8万余。

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戦いを明日に控えた夜、石塔義房と三浦高通は、二人っきりで何やらヒソヒソ話。

石塔義房 (ヒソヒソ声で:以降同様)いよいよ、明日、決行だな。

三浦高通 (ヒソヒソ声で:以降同様)そうだなぁ・・・。

石塔義房 ・・・実はな・・・。

三浦高通 うん・・・。

石塔義房 こないだから、みんなで謀ってきた事、うちのセガレ、頼房(よりふさ)には、まだ知らせてねぇんだよ。

三浦高通 エーッ! あんな大事な事をかい?

石塔義房 うん・・・そのうち言おう、そのうち言おうって思ってるうち、ついつい言いそびれちまってな・・・このまま例の作戦決行したらさぁ、あいつってあんな性格だろ、きっとおれたちに加担してこねぇと思うんだよなぁ・・・でもって、あいつ、へたすりゃ、将軍に討たれちまうかもしれん・・・。

三浦高通 ・・・。

石塔義房 おれとあいつが、たもとを分かち、それぞれの側に義を通じて与(くみ)する・・・こんな白髪頭(しらがあたま)に兜をかぶって、いったいなんで、そこまでするんだ? 何もかも、ただただ子孫を思っての事だ・・・そうだろ? そうじゃねぇかい? もしも、我が望みを達成できたら、わが石塔家の子孫たちに、栄光を残してやる事ができる・・・武士なんざぁ、みんなそう思って戦場に臨むんだよなぁ? そうだろ?

三浦高通 その通りだ。

石塔義房 だからこそな、おれは、あいつを死なせたかぁねぇんだよ・・・今からでも遅かぁねぇ、あの計画の事、きちんと打ち明けといてさぁ、あいつにも納得だけはいくように、しといてやろうって思うんだけど・・・どうだろうなぁ?

三浦高通 そりゃぁ、そうした方がいいよ。こんな大事な事、息子さんに知らせないまま決行したら、あんた、きっと後悔するぜ。早く言ってやれや。

石塔義房 うん。

石塔義房は、頼房を呼び寄せて、

石塔義房 おい、おまえ・・・あの・・・あのなぁ・・・この際、ちょっと言っておきてぇ事、あんだけど・・・。

石塔頼房 アハハハ・・・なんだよぉ、そんなにあらたまっちゃてぇ・・・エライ険しい顔しちゃってぇ・・・。

石塔義房 あのなぁ・・・おまえも知っての通り、薩埵峠の合戦以降、おれはもう、サンザンだぁ。降人みたいな形になっちまってよぉ、仁木や細川のレンチュウらに、完全に押さえこまれちまってらぁな・・・ったくもう、足利家中(あしかがかちゅう)の、モノの数にも入れてもらえねぇような、ブザマな姿だぁ(注15)。おまえもさぞかし、おもしろくねぇ毎日だろうなぁ。

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(訳者注15)石塔、仁木、細川は全て、足利家の親族である。
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石塔頼房 ・・・。

石塔義房 おれは決めたぜ! 明日はなぁ、一大決意をもって、戦場に臨むんだ! これはもう、三浦や葦名、二階堂らとも相談して決めた事なんだけどな、おれたちは明日、合戦の最中に、将軍を討ち奉るんだ!

石塔頼房 エェッ!

石塔義房 おれは決めたんだ! 明日こそ、明日こそ、この恨み、みごとに晴らして、わが石塔一族の家運を、ただ一戦の中に開くんだぁ!

石塔頼房 なんだってぇ!

石塔義房 おまえも、おれのこの考え、よぉく心得てな、おれの旗の趣くがままに、従うんだぞ! いいか、わかったなぁ!

石塔頼房 (激怒)父上! なんてぇ事を!

石塔義房 ・・・。

石塔頼房 主君に対して二心(ふたごころ)を持つなんてぇ、武士の恥だぁ!

石塔義房 ・・・。

石塔頼房 他の人はいざ知らず、おれは、おれは、将軍様に深く信頼していただいてる、そんなこたぁ、絶対にできねぇよ! 将軍様に背後から弓引くだなんて、そんな事しちゃぁ、わが石塔家、後代までの名折れじゃないの! まったく、そんな事・・・口に出すだけでも、恥ずかしい事でしょうが!

石塔義房 なにぃ! じゃぁなにか、おまえは、あくまでも将軍の側に立つってのかい! おれに弓引くつもりかよ!

石塔頼房 こうなっちゃぁ、それもしょうがないですね! 兄弟父子の合戦なんざぁ、古(いにしえ)から現代に至るまで、例の無い事でも無し。

石塔義房 なぁにぃ!

石塔頼房 それにしてもだ、三浦に葦名、いってぇなんてぇヤロウドモなんでぃ、こぉんな陰謀に加担しやがってよぉ! 相談もちかけられたら、ソク、将軍様にご注進申し上げなきゃいけねぇのによぉ、ったくもって、トンデモねぇ不忠のヤロウドモでぃ。

石塔義房 ウウウ・・・。

石塔頼房 父上、父子の恩義も今日限り! 今生(こんじょう)でお会いするのも、これが最後と思ってください!(腹立ちの余り、顔を真っ赤にして、席を蹴る)

石塔義房 お、おい! どこへ行く?!

石塔頼房 今から将軍様のとこ行って、洗いざらいブチまけてやんでぃ!

石塔義房 おい、こら、待て、待たんか!

石塔頼房 (退場)

石塔義房 ・・・あぁ、行っちまった・・・いかん、こうは、しとれんぞ!

義房は急ぎ、高通のもとへ駆けつけた。

三浦高通 どうした?

石塔義房 ヤバイ、ヤバイ事になった!

三浦高通 えっ? 何がいったい?

石塔義房 「親の心、子知らず」たぁ、よく言ったもんだぜ、父が子を思うほど、子は父の事を思っちゃくれねぇんだよ、例の件、セガレに知らせねぇままでは、あいつ、敵中に残って討たれちまうかもってんで、思いきってうちあけたのにぃよぉ! ったくもう!

三浦高通 ・・・。

石塔義房 思っても見ねぇ展開になっちまったよ、あいつ、怒り出しやがってな、「これから将軍に、この陰謀の事、知らせる!」って、えらいイキマイテ、出ていきやがった。

三浦高通 エーッ! やばいよ、そりゃ!

石塔義房 あのカンジじゃ、きっと今頃、将軍に言っちまってるぞ、すぐにも、討手を差し向けられる!

三浦高通 どうする?!

石塔義房 どうするもこうするもねぇ、仲間どうし部下を集め、すぐに、ここを脱出だ! 関戸から武蔵野へ回り、新田の連中らと合流、そいでもって、明日の合戦に参加するんだ、それしかねぇだろ?!

三浦高通 よし! すぐに、みんなに知らせなきゃ!

多くの日数を費やして、練りに練ってきた陰謀も、たちまち白日(はくじつ)の下に露見(ろけん)してしまい、かえってわが身の禍(わざわい)となってしまった。恐怖におののきながら、石塔、三浦、葦名、二階堂らは、手勢3,000余騎を引き連れ、新田軍に加わるために、関戸を目指して逃げていく。

足利尊氏、その強運は、まだまだ尽きてはいなかったようである。

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