太平記 現代語訳 23-3 土岐頼遠、光厳上皇に対して乱暴狼藉
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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故・伏見上皇(ふしみじょうこう)の命日に、故上皇のかつての住まいで年忌を、ということになり、暦応(りゃくおう)5年9月3日、光厳上皇(こうごんじょうこう)は、伏見殿(ふしみでん:京都市・伏見区)へ御幸(みゆき)した。
この御殿は、贅をつくした造りであり、庭園には奇樹怪石が集められ、なかなか見所の多い屋敷であった。しかしながら、故上皇がこの世を去ってから既に久しい年月が経過し、かつての面影をどこにも止める事もなく、今や荒れ放題になってしまっていた。
光厳上皇 あぁ、ここの庭も、一面のススキ野になってしもぉたなぁ。
法要参座メンバーA ほんにまぁ、草が生いしげってもぉて、露深く・・・おぁ、草叢の中で鶉(うずら)が啼く声までしてますがな。
法要参座メンバーB 門の側にも、雑草がよぉけ生いしげってもぉて・・・門が草に隠れてしもてますなぁ。
萩の花を揺らす軒端の風に吹かれ、苔むした板間を眺めながら、上皇はしきりに溜息をついている。
光厳上皇 あぁ、床の上にまで、こないにビッシリと苔が。
法要参座メンバー一同 ・・・。
光厳上皇 ・・・(涙)。
法要参座メンバーA 陛下。
光厳上皇 あ・・・いや、なに・・・(涙を拭う)・・・ありし日の秋の事、つい思いだしてしもぉてなぁ・・・。(涙)
やがて、年忌法要の開式となった。
法要導師 ・・・いま、時はまさしく秋・・・この秋という季節、まことにもって、人にものを思わせる季節であります。秋の空、秋の風、秋の月、秋のススキ・・・見るもの、聞くもの、ことごとく、愁いを引き寄せ、悲しみを添えないものはありません。
法要参座メンバー一同 ・・・。
法要導師 この、「秋の心象風景」の中に、我々がひしひしと感得するもの、これこそがまさしく、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の本質なのであります。
法要導師 「光陰、人を待たず」と申します。人間の都合など一切おかまいなしに、我々のすぐ側を、時間は駆け足で通り過ぎていってしまいます。「無常」は足早に「人生」に追いすがり、速やかに「人生」を追い越していってしまうのです。
法要導師 その跡に残されるのは、「かつてはここに、一人の人間が生きていたんやなぁ」という事の追憶のみ・・・上下貴賎の差別なく、人間すべからく、時間の経過と共に、「過去の人」になっていってしまうんですねぇ・・・。
プンナ(注1)のごとき弁舌をふるっての数時間の導師の法話に、上皇はじめ、故伏見上皇づきの旧臣や学者たちはみな、涙を流し、衣服の袖を絞らんばかりである。
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(訳者注1)釈尊の十大弟子中の一人。「説法第一の弟子」と称揚された。
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このようにして、多くの儀式が順次執行され、やがて、秋の一日も暮れていった。
光厳上皇 さて、そろそろ帰るとしよかいなぁ。
法要参座メンバー一同 ハハッ。
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9月初旬の夜の月、出たかと思えば雲間に隠れ、大空には雁(かり)の鳴き声響き、伏見殿周辺の田園は、すでに農夫らの姿も無く、さびしく静まりかえっている。
松明(たいまつ)を灯しながらの還御(かんぎょ)となり、夜更け前に、京都市街地に到達。
上皇が乗る車が、御所を目指して東洞院(ひがしのとういん)通りをまっすぐ北に進み、間もなく五条通りとの交差点にさしかかろうとしたその時、前方に、樋口(ひぐち)通りを東からやってきた武士の一団が姿を現わした。
お伴メンバーC おいおい、あいつらいったい、どこの何もんや?
お伴メンバーD えらい大声で、歌ぉとるなぁ。
お伴メンバーE 相当、酔ぉとるみたいやで。
それは、土岐頼遠(ときよりとう)と二階堂行春(にかいどうゆきはる)の一行であった。彼らは、新日吉神社(しんひよしじんじゃ:東山区)の馬場で笠がけをして遊んだ後、芝生に座しての大酒宴に時を過ごして後の夜更、家路に向かう途中であった。
二階堂行春 ビーン、ビィビィビィビィットー ビーン、ビィビィビィビィーン・・・
土岐頼遠 ドンジャンジャンジャン、ジャジャジャン、ジャンジャン、ドンジャンジャンジャン、テケテケテケテケ・・・。
お伴メンバーC こらこらぁ! おまえら、どこのどいつや! この行列を何やと思ぉとるねん!
お伴メンバーD 無礼者めが! 馬から降りんかい!
二階堂行春 (内心)あっ・・・あれは皇室の車。御幸だ、こりゃいかん。
行春は、あわてて馬から飛び降り、その場にかしこまった。
ところが、土岐頼遠の方は、上皇の御幸とも気付かない。それに加え、彼は、最近上げ潮に乗りまくっている「時(とき)の人」、万事において己の思うがまま。馬をその場に止め、騎乗のまま、大声でわめき散らした。
土岐頼遠 なにぃ、「馬から降りぃ」だとぉ! この京都の町中で、わしを馬から下ろす事のできるヤツなんか、どこにもいるはずねえだが。そういうバカなことホザクおまえら、いったいどこのタワケじゃ? いっちょう、蟇目矢でも射てくれてやるでね。
これを聞いて、上皇側は怒り心頭。先懸け、護衛担当ら、全員集まって声々に叫ぶ。
先駆けE おまえはいったい、どこのバカモンじゃ?!
先駆けF 礼儀作法をわきまえとらんヤツちゅうのんは、ほんまに困ったもんやのぉ!
護衛G えぇい、頭(ず)が高ーい、頭(ず)が高ーい! こちらの御車(みくるま)の中のお方を、どこのどなたと、こころえおるか! おそれおおくも、院(いん)であらせらるるぞよ!(注2)
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(訳者注2)天皇を退位した後、前天皇は、「上皇(じょうこう)」と呼ばれた。退位後も、上皇が権力を保持している場合には、その政務を執る場所は、「院」と呼ばれた。
よって、[上皇]は、[身分・立場を表す概念]であり、[院]は、[場所を表す概念]である。
しかし、時間の経過と共に、[身分・立場を表す概念]と[場所を表す概念]は、しばしば連合する。例えば、「永田町」、「霞ヶ関」、「桜田門」。
これと同様に、[院]という語が、身分・立場を表す為に用いられ、なおかつ、場所を表す為にも用いられるようになる。
「ホワイトハウス」のように、[身分・立場を表す概念]と「建物の名称」が連合する場合もある。
このような、異なる概念の連合がなぜ起るのかは、心理学、言語学、脳科学の極めて興味深いテーマであるように思う。
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酒に酔った勢いであろうか、これを聞いて土岐頼遠は、
土岐頼遠 ワハハハハ・・・・なにぃ、「いん」だとぉ? 「いん」? 「いん」? はてさて、「いん」とはいったい何ぞや?・・・「いん」? 「いん」? 「いぬ」? ワハハハ・・・そうか、「犬(いぬ)」か! 「犬(いぬ)」が、その車に乗ってるんか・・・なるほど、ワハハハ・・・。
護衛G なな・・・なんと!
土岐頼遠 犬も歩けば、矢に当たる! 犬ならば、射て落してくれるでな。それっ、みんな、矢を浴びせろ!
頼遠とその部下らは、上皇の行列を包囲し、その周囲をぐるぐると馬を走らせながら馬上から、上皇の乗る車を的にして、ゲームのごとくに続々と矢を射掛けた。
後方から騎馬で続いていた西園寺公重(さいおんじきんしげ)は、これを見て、儀式用の太刀を抜き、馬を馳せてきた。
西園寺公重 なんちゅうムチャクチャなことを! はよ車走らせて、包囲、突破してまえ!
しかし、牛の縄を切られ、牛追いたちも散りじりに逃げ去ってしまい、お伴の公卿らもみな地上に倒されてしまい、御車めがけて浴びせられる矢を防ぐ者は一人もいない。車内の御簾の内にかけた垂れ幕もかなぐり落され、車軸から伸びる30本のスポーク中の数本が折れてしまい、ついに御車は、路上に転倒した。
まったくもって、あきれはてるばかりの光景である。
やがて、頼遠らは高笑いしながら、その場を去っていった。
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光厳上皇は、悪夢を見るような心地のまま、ただじっと車内に座している。公重が御前にやってきて、
西園寺公重 陛下、おけがは?
光厳上皇 おぉ、公重!
西園寺公重 大丈夫ですか?
光厳上皇 ・・・(涙)。
西園寺公重 ・・・。
光厳上皇 ・・・う、う、う(涙)。
西園寺公重 ・・・(涙)・・・ほんまにもう、最近の京都は・・・武士どもの思い上がり、無礼の至極・・・まったくもう、なんちゅうことでしょう・・・。
光厳上皇 ・・・う、う、う(涙)。
西園寺公重 陛下、さぁ、元気をお出しくださいませ。お天道(てんどう)さまと月輪(げつりん)が空にある限り、今夜あった事、何もかも、天はご覧になってます。まぁ、見ててごらんなさい、そのうちきっと、あいつらに天罰が下りますわいな!。
上皇も、少し心が慰まったのか、
光厳上皇 五条の天神(松原通西洞院)は、御幸が前を通ると聞いたら、社殿から出てきて路傍にかしこまるそうやな・・・。宇佐八幡(うさはちまん:大分県・宇佐市)の神は、勅使が出向するたんびに、威儀を正して勅使に回答を申すとか・・・。
西園寺公重 はい。
光厳上皇 そやけどなぁ、今は武士が天下を握っとって、まさに無礼の世。そやから、こないなムチャクチャな狼藉も、されてしまうんやなぁ・・・。あぁ、ほんまに世も末や、人間の習俗は乱れきって最悪になってしもてる。こないな世の中になってしもたんで、私も神のご擁護がいただけへんねんやろうなぁ。(涙)
御衣の袖を顔に押し当てている上皇の姿を見て、公重は涙にくれるばかり。
しかし、いつまでもここにじっとしているわけにもいかないので、牛飼いたちを数人探し出し、涙ながらの還御となった。
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当時の日本の政治は、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・足利尊氏(あしかがたかうじ)に代って、その弟・足利直義(ただよし)により、執行されていた。
一連の報告を聞いて、直義は激怒。
足利直義 ナニィ! 上皇陛下の御幸の車に、矢を射掛けただと!
側近の者H はい。
足利直義 なんという、けしからん事を!(怒)
側近の者一同 ・・・。
足利直義 このような無礼な振舞いは、外国にも例がないぞ。ましてや、我が国においては、前代未聞!
側近の者一同 ・・・。
足利直義 厳罰に処さねばならん! 三族皆殺し(注3)などでは済まん! 五刑(注4)に処してもまだ足りん! 即刻、下手人どもを逮捕! 車裂きに処すべきか、それとも、身体を千切りにして塩辛(しおから:注5)にしてしまうべきか、さぁ、どっちだぁ!
側近の者一同 ・・・。
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(訳者注3)中国・漢王朝の制度では、父方の親族、母方の親族、妻方の親族を「三族」とした。親族まで連座して処刑されるのであるから、これはすさまじい刑罰である。
(訳者注4)鞭打ち刑、棒打ち刑、徒刑(労役)、流刑、死刑。
(訳者注5)原文では、「醢(ししびしお)」。春秋戦国時代の中国の書物にはしばしば「処刑してその身体をシシビシオに・・・」の記述がある。孔子の弟子の子路も、この刑に遭った。
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これをきいた土岐頼遠と二階堂行春は、おそれをなして、自らの本拠地に逃げ下った。
「そく、追討軍をさしむけて退治すべし」と、幕府の会議は決した。
二階堂行春は、観念して首を伸べて上洛し、自分には一切咎が無い事を、様々に陳述した。
事件の詳細が次第に明らかになるにつれて、二階堂行春の罪が軽い事が判明し、死一等を減じて讃岐国(さぬきこく:香川県)への流罪となった。(注6)
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(訳者注6)とても気の毒な感じがする。たまたま、土岐頼遠と一緒にいただけなのに。頼遠の乱暴な行為を止めなかった、という事で、流罪になってしまったのだろうか。
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土岐頼遠は、いよいよ罪科遁れがたき事を悟り、本拠地の美濃(みの:岐阜県南部)にたてこもって謀反を起こそうと一族で決し、近隣の知人や親族に招集をかけ始めた。
幕府は、「急ぎ追討軍を下し、土岐を退治すべし」ということで、頼遠の甥の土岐頼康(ときよりやす)をはじめ一族の主なメンバーらに、土岐頼遠追討の将軍命令書(注7)を送った。
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(訳者注7)原文では、「御教書(みぎょうしょ)」。
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幕府のこの処置を見て、頼遠は謀反が不可能である事を悟り、前後策を検討した末、密かに京都へ上り、夢窓疎石(むそうそせき)を頼った。
夢窓疎石は、その高い徳のゆえに日本国中に盛名をとどろかしており、公家、武士を問わず、たぐいまれなる尊崇を広範囲に渡って集めていた。彼は何とかして土岐頼遠を救おうと思い、足利直義邸に向かった。
夢窓疎石 ・・・というわけでして・・・。土岐頼遠殿の命、救ってやってはいただけませんでしょうか。
足利直義 いや・・・そればかりは・・・。
夢窓疎石 本人も、深く深く、反省しておりますから・・・。
足利直義 あの男はね、上皇陛下に対して矢を射かけたのですよ! あのような大逆の罪を犯した者に対して、てぬるい処置をしてたんじゃぁ、今後、模倣犯が続出するおそれが、大いにあります。
夢窓疎石 はい、はい、そのへんの事情、よくよく、わかっております・・・しかし、そこを曲げて・・・なんとか。
足利直義 ・・・うーん、困ったなぁ・・・。
夢窓疎石 直義殿、この通り・・・お願いいたします・・・。(平伏)。
足利直義 そんな、国師(こくし)殿、そんな・・・どうぞ、頭をお上げください。
夢窓疎石 ・・・。(平伏)
足利直義 ウーン・・・。
夢窓疎石 ・・・。(平伏)
足利直義 わかりました、こうしましょう。土岐頼遠の子孫に対しては、領地は安堵(あんど:注8)、頼遠本人は死刑。
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(訳者注8)父母の領地を継承することを認証する事。
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夢窓疎石 ・・・。(平伏)
足利直義 これが、私の最大限の譲歩です。まことに申し訳ありませんが、これ以上は無理です。
夢窓疎石 ハァー(肩を落し、嘆息)。
頼遠は、侍所(さむらいどころ)の細川顕氏(ほそかわあきうじ)に身柄を預けられた後、六条河原(ろくじょうがわら)で首を刎ねられ、命終えた。
「頼遠の弟の周済房(しゅさいぼう)という僧侶も、兄と共に処刑すべし」との決議が下ったが、例の事件には加わっていなかった事の明らかな証拠が上がり、死一等を減じて本国へ送還となった。
足利幕府に対しての夢窓疎石の土岐頼遠・助命嘆願が成功しなかった事をあざける者がいて、和歌が一種、天龍寺(てんりゅうじ:右京区:注9)の壁の上に。
口当たりの ええ斎(とき=土岐)だけが 食べられて 酢菜(すさい=周済)だけが 皿に残った
(原文)いしかりし ときは夢窓に くらはれて 周済(しゅさい)計(ばかり)ぞ 皿に残れる
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(訳者注9)夢窓疎石の開山による寺院。
(訳者注10)「斎」は僧侶の食事。「酢菜」は「大根や冬瓜などを酢に浸したもの」だそうである。
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世間の声I 土岐頼遠いうたら、そらぁすごい人やでぇ。反足利サイドに属する大敵を度々破り、足利家に忠節を尽くし続けてきた人やもんなぁ。
世間の声J それゆえに、幕府のおぼえも非常によろしく、他に抜きんでる恩賞を得ていた。
世間の声K なのに、このような狼藉をしでかしてしまい、夢窓疎石の助命嘆願も容れられずに、ついに命を失うことになってしまった。
世間の声L いやぁ、やっぱし、お天道さまも月輪さまも、見てはったんやわぁ。天罰テキメンやなぁ。
世間の声M 天罰っちゅうもんは、ほんまにコワイもんどすぅ。
世間の声N それにしても、足利直義様の今回のご処断、非常に理にかなってたよな。
世間の声一同 同感ですねぇ。
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いまやこの日本も、落ちる所まで落ちてしまったようである。首都圏に住む人間もみな、原始人に退化してしまい、「院」とか「国王」とかいった言葉も、彼らにとってはいまや、「未知なる概念」となってしまったようである。
京都の街の声O 「院」の御幸の行列と出逢うた際に、狼藉の振舞いをしたということで、土岐頼遠殿は死刑になってしまわはったんやてなぁ。
京都の街の声P 「院」の行列に出おうたときには、ちゃんと馬から下りて、畏まらんとあかんのや。
通りがかりの人Q えぇっ? 「院」に出会ったら、馬から降りなきゃなんねぇのかよぉ。
通りがかりの人R だったらよぉ、足利将軍様に出会ったら、もう、土の上に這いつくばるしかねぇじゃん、ワハハハ・・・。
このような世の中であるからして、以下に紹介するような、あきれた事も起るのである。
ある日、公家の行列が京都の市街地を通過していた。
車の中の人は、どこの誰とも分からないが、御簾の破れ目から見れば、年齢は40過ぎほど。眉を描き、歯を黒く染め(注11)、立烏帽子(たてえぼし)をかぶっている。車は相当古びているようで、轅(ながえ)の塗装も剥げてしまっており、打てども進まぬ牛が、のろのろとそれを引いている。どうやら、北野天満宮へ参拝に行く途中らしい。
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(訳者注11)当時、お歯黒をしていたのは上流階級の女性ばかりではない、男性もしていた。
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最近、京都には、上げ潮に乗った武士たちが充満しているのだが、そのような武士たちの一行が、ちょうどそこを通りがかった。
大きくたくましい馬に鞍を置き、唐笠(からかさ)に皮靴を履き、紅葉を焼いてあたためた酒を飲みながら、やってくる。焼き残しの紅葉の枝を手にかざし、歌ったり雑談したりしながら、内野(うちの:京都市上京区の大内裏跡)の芝野の花を露と共に蹴散らしながら、悠然と進んで行く。
主人とおぼしき武士が、公家の車をみつけていわく、
武士S やや、あそこに牛車が! あれこそが例の、「院」とかいう危険人物に違いないぞ。
武士たち一同 (顔をひきつらせながら)・・・。
武士S 土岐頼遠みてぇな権勢この上なかった人でさえもな、馬に乗ったままあいつの前に出ていったばっかしに、命を失ってしまった。おれたちみてぇなシモジモのもんは、どんなオトガメを食らうかも。さ、みんな早く、馬から降りろ! 早く、早く!
全員、さっと馬から降りて頬かぶりを外し、笠を脱ぎ、頭を地に付けて畏まる。これを見た車中の人は、
公家T (内心)うわっ! えらいこっちゃ! もしかしてあいつら、例の土岐一族とちゃうやろか。上皇様でさえも散々矢を射られはったんやからな、わしらみたいなシモジモのもんは、どないな目にあうか分からへん。こら、はよ車から下りんとあかん。
車も止めずにあわてて飛び降りたものだから、前進していた車の車軸に、彼の身体は衝突。立烏帽子も脱げてしまい、髪も露わな、若年の身分の低い伴人のような様になってしまった。
片手で髪をつかみ、もう片方の手で笏(しゃく)を持ち直し、武士たちの前に跪き、
公家T いやいや、はじめまして、はじめましてぇ!
公家も武士も、地に体を投げて双方互いに畏まるとは、まったくもって、前代未聞の珍事という他はない。
その日は北野天満宮の縁日で、布を引くがごとく、多くの参詣の人々が道に連なっていたのだが、これを見ていわく、
参詣の人U いったいなんやねん、あれはぁ!
参詣の人V ぶざまやなぁ。
参詣の人W 路上での礼儀作法はな、弘安格式(こうあんかくしき:注12)に定められてるんや。そやけどな、「武士と出会ぉた時には、公家は車から降り、烏帽子を脱いで髪を出せ」なんちゅうような事、書かれてないわなぁ。
参詣の人々一同 ワハハハ・・・。
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(訳者注12)弘安8年(1285)に、朝廷において制定された礼儀作法。
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