太平記 現代語訳 38-2 吉野朝側勢力、続々蜂起

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・康安(こうあん)2年(1362)6月3日、山陽道(さんようどう)方面において、山名時氏(やまなときうじ)が5,000余騎を率いて、伯耆(ほうき:鳥取県西部)から美作(みまさか:岡山県北部)の院庄(いんのしょう:岡山県・津山市)に侵入、さらにそこから諸方面へ、軍を進めた。

まず第1軍として、子息の山名師義(やまなもろよし)に2,000余騎を与え、備前(びぜん:岡山県東部)、備中(びっちゅう:岡山県西部)両国へ送った。

第2軍は、備前の仁掘(にのほり:岡山県・赤磐市)に陣取り、幕府側勢の来襲を待った。

備前国守護に与(くみ)する松田(まつだ)、河村(かわむら)、福林寺(ふくりんじ)、浦上行景(うらかみゆきかげ)らは、兵力に乏しく、「これではとても、戦えそうにない」と思ったのであろうか、あるいは、「近日中にも、讃岐(さぬき:香川県)から、細川頼之(ほそかわよりゆき)が、備前の児島(こじま:岡山県・倉敷市)へ渡ってくるというから、その到着の報を待ってから、行動を開始してもいいのでは」と思ってか、全軍、城にたてこもって戦おうとしない。

第3軍は、多治目備中守(たじめびっちゅうのかみ)を大将、楢崎(ならさき)を侍大将に、1,000余騎で構成、備中の新見(にいみ:岡山県・新見市)へ進出した。

秋庭三郎(あきばさぶろう)が、長年防備を整え、水も食料も備蓄十分の松山城(まつやまじょう:岡山県・高梁市)に、多治目と楢崎を迎え入れたので、備中国守護・高師秀(こうのもろひで)はこれに対抗しようがなく、備前の徳倉城(とくらじょう:岡山県・岡山市)へ退いた。その際に、高師秀・郎従の赤木(あかぎ)父子は、たった二人で城に踏みとどまり、思う存分戦った後、討死にした。

このような展開の中に、山名軍は、勝に乗じて備中国中を席巻(せっけん)、そこら中に軍勢を差し向け差し向け、攻めに攻める。

もはや誰も、これに対抗しようがなく、その地域の国人(こくじん)たちはほとんど一人残らず、山名の下に走ってしまい、残るはたった一人、陶山備前守(すやまびぜんのかみ)のみとなった。

陶山備前守は、瀬戸内海べりに小さな城を構築し、かろうじて幕府側勢力として残った。

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備後(広島県東部)へは、富田秀貞(とんだひでさだ)の子息・富田直貞(なおさだ)が800余騎を率い、出雲(いずも:島根県東部)からまっすぐ南下して侵入。江田(えだ)、廣澤(ひろさわ)、三吉(みよし)一族がこれに馳せ参じてきて、間もなく、その軍勢は2,000余騎になった。

新参の軍勢をあわせた直貞は、宮兼信(みやかねのぶ)の城を攻めにかかった。

さらに、石見(いわみ:島根県西部)から、足利直冬(あしかがただふゆ)が、富田直貞に加勢しようと500騎ほどを率い、備後の宮内(みやうち:広島県・福山市)へやってきた。

直冬は、一人の禅僧を、宮兼信のもとへ使者として送ることにした。

足利直冬 使者のお役目、まことにご苦労。

禅僧 で、先方には、どのようなメッセージを?

足利直冬 うん、次のように、伝えてくれ、

 「今や、天下平定の時節は到来、諸国の武士の大半は、私の所属する陣営側に志を通じるようになった。しかるに、貴方からは、今までただの一度も、味方になろうとの意志表示が無い。そこで、こちらの方から先に使者をもって、このメッセージをお送りするものである。」

 「天下に人は多しといえども、私はとりわけ、貴方の事を重要視している。貴方が味方についてくれたならば、これほど頼りになる事は無いと思っている。今もし、味方に馳せ参じ、我が方への忠を尽くしてくれるならば、その恩賞には、領主不在の荘園等、貴方の望みのままであるのだが、いかがであろうか?」

禅僧 委細承知。

城へ向かった禅僧は、宮兼信に手厚く迎えいれられた。間食を整え、礼儀を厚くして対面してくれるので、使者の僧は大喜びである。

禅僧 (内心)この分だと、この話、もう成立したも同然かな?

あいさつの後、宮兼信は、おもむろに口を開いていわく、

宮兼信 いやぁ・・・これがのぉ、日本国中ただの一人も、南方の朝廷に志を通わせる者がおらんようになってしもぉてじゃ、もはや頼りになる人、どこにもおらん、てな状況の時にのぉ、佐殿(すけどの:注1)が、「おい、宮よ、なんとか力になってくれやぁ」ってなふうに、言ぅてこられたんじゃったらのぉ、わしも、もしかしたら、お味方についてたかもよぉ。

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(訳者注1)足利直冬の事である。右兵衛佐の官職にあったので、このように呼ばれていたようだ。
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宮兼信 けどなぁ、今の世間の情勢、そんなもんやないやろぉ? 最近、中国地方一帯のもんら、おおぜい、佐殿のもとに馳せ参じとるやん? 兵力、相当なもんになっとるやろ? じゃけん、この備後国に陣を取られたと聞いちゃぁ、わしゃぁ、とても、お味方に馳せ散じる事なんか、できませんわいのぉ。

宮兼信 「よし、そんなら、宮を討ってまえ」ってんで、軍勢を向けられたならば、わしはあくまでも、佐殿相手に、戦い申すまでの事じゃ。たとえ、わしの屍(しかばね)を佐殿のおん前にさらす事になろうとも、わが魂、なおも将軍様の側に止まり、あの世へ行ってからも、なんとかして恨み晴らすまでのことじゃ。

宮兼信 だいたいがじゃぁ、こないな重要事項の使いには、身内でも外様でもえぇ、しかるべき武士を立ててやるのが、スジっちゅうもんやろ。なのに、僧侶なんどを使いに出すなんて・・・佐殿いったい、なに考えとられるんじゃぁ?!

禅僧 ・・・。

宮兼信 その昔、インドにおいては、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が釈尊(しゃくそん)の使いとして、唯摩居士(ゆいまこじ)の家へ出向いたって聞いとるぞぉ。中国の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)だって、大般若経典(だいはんにゃきょうてん)をインドから中国に持ち帰ろうと志して、西域の砂漠を越えての苦難の旅したっちゅうやん。そんなんと比べると、あんたのこの使い、大違いのレベルの話じゃのぉ。

禅僧 ・・・。

宮兼信 こないな無懺無愧(むざんむぎ:注2)道心の振舞い、とても、僧侶・聖職者のやる事じゃないわのぉ。

禅僧 ・・・。

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(訳者注2)懺悔の心も、慙愧の心も無い、という意味。懺悔は、自ら恥じる、慙愧は、他人に向かって恥じる。
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宮兼信 いっそのこと、今すぐ、あんたの首、チョン切って、路頭にさらしたいとこじゃ。

禅僧 (ドキッ)・・・。

宮兼信 でもなぁ、それも、あんまりといやぁあんまりじゃけん、今度ばかりは、特別に許したる。これから先、こないな事の使いでやってこようもんなら、もう二度と、生きて帰れるとは思わんでよぉ。

禅僧 ・・・。

宮兼信 それにしてもなぁ・・・あんた、ほんとに坊さんかぁ? 本物の坊さんなら、こないな愚かな事するはず、ないわなぁ・・・もしかして・・・ここの城の内部のレイアウト探るため、夜討ちの手引き役する人間が、禅僧に変装して、やってきとるんとちゃうかぁ?(ニヤリ)

禅僧 ・・・。

宮兼信 (座を立ちながら、大声で、若党らに対して)おぉい、おまえらぁ、この坊さん、連れて歩いてなぁ、城のあちこち、じっくり見せてやれやぁ。存分に見せてやったら、木戸から外へ放り出せぇ!(室からでざまに、障子を荒々しく閉める)

障子 バシン!

禅僧は、今にも殺されてしまうのではと、肝も心も消し飛び、這い這いしながら、逃げて帰った。

宮兼信 あの使いのもんが帰ってったら、佐殿はきっと、この城を攻めてくるじゃろう。「先んずる時は、人を制するに利あり」じゃ。逆寄(さかよ)せに寄せて、追い散らせぇ!

宮兼信は、子息・氏信(うじのぶ)に500余騎を与え、足利直冬が陣取っている宮内へ送り込んだ。

宮サイドの猛攻を受けて、直冬サイドの大軍は、足も立たぬほど大敗し、散りぢりになってしまった。

この情報をキャッチして、富田直貞はガックリ、自らの本拠地へ引き上げてしまった。

これまで何度も、足利直冬は宮兼信と戦ってきたが、ただの1度も勝ててはいない。それを不甲斐(ふがい)なし、と思った者のしわざであろうか、道の岐(ちまた)に、落書の札が立った。

 直冬は いかなる神の 罰(ばつ)にてか 「宮」には弱ぉて 怖(お)じ逃(に)げよるんじゃろのぉ

 (原文)直冬は いかなる神の 罰にてか 宮にはさのみ 怖(おじ)て逃(にぐ)らん(注3)

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(訳者注3)「宮」に、「神のおわす所(神宮)」と、「宮(兼信)」とをかけている。
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侍大将役の森備中守(もりびっちゅうのかみ)も、揶揄の対象となった。

直冬よりも先に逃げだした、というので、上記の落書きに添えて、さらに一首、

 楢(なら)の葉の ゆるぎの森に いる鷺(さぎ)は 深山(みやま)下風(おろし)に ネぇあげてしまいよったでぇ

 (原文)楢の葉の ゆるぎの森に いる鷺は 深山(みやま)下風(おろし)に 音(ね)をや鳴(なく)らん(注4)

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(訳者注4)「楢の葉の」は「ゆるぎ」の枕詞。「ゆるぎの森」は滋賀県・高島市の万木(ゆるぎ)にあった。「深山(みやま)下風(おろし)」と「宮(兼信)」とをかけている。
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山名師義とその弟・山名氏冬(うじふゆ)は、小林重長(こばやししげなが)を侍大将に、2,000余騎を率いて、さらに但馬国(たじまこく:兵庫県北部)へ進んだ。そこから先、大山(おおやま:兵庫県・神崎郡・神河町)を越えればもうそこは、赤松氏の本拠地・播磨(はりま:兵庫県南西部)である。

しかし、将軍側勢力の但馬国守護・仁木頼勝(にっきよりかつ)と安良十郎左衛門(やすらじゅうろうざえもん)がたてこもっている城を、なかなか落とせない。

長九郎左衛門尉(ちょうのくろうざえもんのじょう)、安保直実(あぶなおざね)らの吉野朝側勢力は、自らの本拠地の防衛をさしおいて、隣国に進出していくわけにはいかない。

「ならば、小林重長の軍だけでも、播磨へ進出を」と、山名サイドは企てたが、赤松直頼(あかまつなおより)は、大山に城を構え、但馬から播磨へのルートをふさいだ。

そこで、重長は進路を変更し、険しい山道を越えて、丹波(たんば:京都府中部+兵庫県東部)へ軍を進めた。

丹波には、その地の守護・仁木義尹(にっきよしたか)が在国し、山名軍の到来を待ちかまえていた。

今すぐにも戦が始まるかと思えたが、粗忽(そこつ)な戦をしてしまっては、かえって情勢を悪化させる、との思いからか、双方、和久郷(わくごう:京都府・福知山市)に陣取り、相手が攻めかかってくるのを、互いに待ち構えた。

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「山名軍、丹波に侵入!」との情報に、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)は、

足利義詮 丹波から京都までは、至近距離じゃぁないの・・・こりゃぁ、ほぉってはおけん、一刻も早く、手を打たなくっちゃぁ。急ぎ大軍を派遣し、仁木義尹を応援しろ!

というわけで、若狭国(わかさこく:福井県西部)守護・石橋和義(いしばしかずよし)、遠江国(とおとうみこく:静岡県西部)守護・今川了俊(いまがわりょうしゅん)、三河国(みかわこく:愛知県東部)守護・大嶋(おおしま)遠江守の3人に、この3か国の勢力3,000余騎を率いさせ、京都から現地に派遣した。

丹波国の武士たちは、幕府サイドと山名サイドの両方を見ながら、「さぁ、どっちへ付こうかなぁ」と思案していたが、丹波の篠村(しのむら:京都府・亀岡市)へ到着した幕府側の大軍を見て、「今の所は、将軍側が優勢」と判断し、我先に、馳せ参じてきた。

かくして、幕府サイドの兵力は日々に増強、程無く、5,000余騎になった。

一方、山名サイドの兵力は、わずかに700余騎、本拠地から遠く隔たっていて食料も乏しく、馬も人も疲れ、城の防備もゆるんできている。

幕府軍リーダーA まぁ、見てろってぇ、そのうちヤツラ、城を捨てて逃げだすだろうよ。

幕府軍リーダーB もう、時間の問題だよなぁ。

幕府軍リーダーC そうそう。

しかし、小林重長いわく、

小林重長 伯耆を出発する時、おれはキッパリと、言い残してきたんだわなぁ、「今度という今度こそは、天下の形勢を一変せしめるほどの戦をしてみせる、さもなくば、生きて再び、伯耆へは帰らん」って! この先、どんな大軍が攻めてこようが、おれは、ビクともせんぞ。こっから、テコでも動かんよぉ!

小林軍リーダーD もうこうなったら、退却なんて話、無しにしよう。

小林軍リーダーE 死ぬ時は、みんな一緒だわな!

小林軍メンバー一同 そうだ、そうだ、死ぬ時は、みんなでいっしょに、死ぬんだわ!

彼らは、神前で共に水を飲み、誓いを立てあい、気勢を上げた。

小林軍リーダーF 最新の情報では、敵はもう、篠村を出発したらしい。

小林軍リーダーD そうかぁ、いよいよ、やってきやがるかぁ。

小林重長 どこでもいい、広い場所で迎えうって、組み打ちにして討ち取ってしまおうぜ。

小林軍団リーダーE さぁてと、いったい、どこで迎え打つか。

小林軍団リーダーF そこだわな、問題は・・・。

小林軍のこの勢いに、篠村の幕府サイド大軍は、完全にビビッテしまった。

幕府軍リーダーA やばいな・・・もしかしたら、ここまで攻めてくるんじゃぁ?

幕府軍リーダーB あそこからここまでは、2日間の行程・・・。

幕府軍リーダーC だよねぇ。

小林軍を怖れて、一歩も先に進めないまま、幕府サイドは木戸を構え、逆茂木(さかもぎ)を設置し、用心きびしく待機し続けた。

このようなにらみ合いの末に、小林サイドの方が、ついにネをあげてしまった。食料が底をついてしまったのである。

幕府軍リーダーA やったぜ! 小林のヤロウ、旗を巻いて伯耆へ帰っていきやがったってよぉ!

幕府軍リーダーB ウォー、やった、やったぁ!

幕府軍リーダーC やりましたぁ!

彼らは大いばり、「丹波に侵入してきた敵軍を、もののみごとに、追い落としてきましたぁ!」との触れ込みで、京都へ凱旋した。

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越中国(えっちゅうこく:富山県)においては、桃井直常(もものいなおつね)が信濃国(しなのこく:長野県)から侵入し、旧好の武士らに、調略の手を伸ばした。(注5)

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(訳者注5)桃井直常はかつて、越中の守護であった、29-1 参照。
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折しも、越中国守護・斯波高経(しばたかつね)の代官・鹿草出羽守(かくさでわのかみ)の領国統治は極めてデタラメ、国人たちはこぞって、これに背いていた。

そのような情勢であったから、野尻(のじり)、井口(いのくち)、長倉(ながくら)、三澤(みさわ)らがたちまち、桃井直常の下に馳せ参じてきて、その勢力は、1,000余騎になった。

勢いに乗った直常は、あっという間に、越中国全域を制圧。彼に対抗する勢力は皆無となったので、

桃井直常 次は、加賀(かが:石川県南部)だ。富樫(とがし:注6)を攻めるぞ!

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(訳者注6)加賀の守護。
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桃井直常は、加賀への進軍を開始。

能登(のと:石川県北部)、加賀、越前(えちぜん:福井県東部)の武士たちはこれを聞き、「直常に機先を制されないうちに」と、3,000余騎が集結、越中国内へ越境し、3箇所に陣を取った。

直常はいつも、相手の布陣が完全に整わぬ前に、それを攻めて懸け散らす、という作戦をもって、勝利を収めていた。

今回も、彼は一気に逆寄せに押し寄せ、攻め戦った。

越前勢力の陣がまず破れ、続いて、能登、越中(注7)の両陣も崩壊し、彼らは十方に散って落ちていった。

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(訳者注7)桃井直常に対抗した側の陣営が崩壊したというのだから、ここは、「能登、加賀の両陣も」とすべきであろう。しかし原文には、「越前の勢一陣先破て、能登・越中の両陣も不全」とある。太平記作者のミス記述であろう。
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日没の後、直常は本陣へ帰り、鎧兜を脱いで、休息を取った。

桃井直常 (内心)あっ、そうだった! この件、連中らと、打ちあわせしとかなきゃ。

夜半頃、直常は急に思い立ち、そこから2里ほど離れた井口氏の城へ、たった一人で出かけた。その際、外出する事を誰にも知らせずに、行ってしまった。

ちょうどその時、能登、加賀の勢力300余騎が連れ立って、桃井陣へ投降してきた。

能登・加賀勢力グループメンバーG 我ら、投降を決意して、ここにやってまいりました。

能登・加賀勢力グループメンバーH 執事殿、今すぐにでも、桃井殿にお目にかかりたいのですが。

能登・加賀勢力グループメンバーI お引き合わせ、願えませんでしょうか。

桃井の執事 オケーィ! よくきた、よくきたぁ、ついてきなさぁい。

執事は、彼らを同道して、直常の陣へ向かった。

執事 直常さまに、お会いしたいんだけどぉ。

桃井近習メンバーJ いや、おられませんよ・・・もうほんとにぃ・・・いったいどこへ行かれたのかなぁ・・・宵頃からね、殿のお姿、どこにも見あたらないんですよぉ。

これを聞いて、陣を並べている外様の武士たちは、大騒ぎ、

桃井軍リーダーJ ヤヤヤ!

桃井軍リーダーK 桃井殿、逃げたなぁ!

桃井軍リーダーL おれたちも早いとこ、どっかへ、トンズラしなきゃ。

桃井軍リーダーM おい、鎧、鎧!

桃井軍リーダーN 馬、馬!

鎧を着るもあり、捨てるもあり、馬に乗るもあり、乗らぬもあり、もう陣中は大混乱。

やがて、焼き捨てた火が陣屋に燃え着き、燎原の炎となって、立ち上った。

これを見た、例の投降者300余人は、

能登・加賀勢力グループメンバーG (ニンマリ)よぉし、こうなったら、方針チェィンジ(change)!

能登・加賀勢力グループメンバーH 逃げていく敵ども討ち取って、おれの手柄にしちゃおうじゃぁないの!

能登・加賀勢力グループメンバー一同 イケイケェ!

エビラを叩き、トキの声を上げ、投降者たちは、桃井軍メンバーたちを追いかけ追いかけ、打ってまわる。

それに対して、返し合わせて戦おうとする者もなく、ここに追いたてられ、あちらに切り伏され、討たれる者200余人、生け捕りになる者100余人。

井口氏の城に向かう途中、自陣に燃え上がった火を見て、桃井は、ビックリ仰天、

桃井直常 なんだぁ! 燃えてるぅ!

桃井直常 (内心)さては、裏切り者が出たか。そいつの手引きで、敵が夜襲、しかけてきやがったんだ! こうしちゃおれん、すぐに、引っ帰さなきゃ。

あわてて自陣に引き返す直常は、その途中、逃げてくる多数の武士たちと遭遇(そうぐう)して、

桃井直常 どうしたんだ、いったい、ナニがあった?!

桃井軍メンバーO ナニがどうなってんだか、おれたちにもさっぱり、わかんねぇっす。

桃井軍メンバーP 突然、あっちゃこっちゃで、火の手が上がって・・・。

桃井直常 みんな引っ返せ! 逃げるなぁ!

桃井軍メンバーO ダメですよ、引き返したって、ムリですよ。

桃井軍メンバーP あっちはもう、メタメタですわ。

桃井軍メンバーQ ここはもう、いったん逃げるしか。

桃井軍メンバーR とにかくムリです、逃げましょう!

桃井直常 そ、そんなぁ!

桃井軍メンバー一同 ダメダメ、ムリムリ、逃げるっきゃない!

直常も仕方なく、みんなといっしょに、井口氏の城に逃げ込んだ。

昼間の合戦に敗北して御服峰(ごくふみね:富山県・富山市)に逃げ上っていた加賀、越前の武士たちは、桃井陣に火が立ち上るのを見て、「いったい、何があったのだろうか」と、いぶかしがっていたが、そこへ、投降していって偶然にも手柄をたててしまった例の300余人がやってきた。

彼らは、生け捕りにした者たちを先頭に追い歩かせ、太刀の切っ先に討ち取った者らの首を貫き、意気揚々と馳せ来っていわく、

能登・加賀勢力グループメンバーG 「その強きこと、鬼神の如し」と評判の、あの桃井軍にだなぁ、

能登・加賀勢力グループメンバーH おれたちは、わずか300余人でもって、夜襲,かけてやったんだぞぉ。

能登・加賀勢力グループメンバーI 見てくれよ、これ! 夜襲の成果だ。

能登・加賀勢力グループメンバーG 大成果だぞ。討ち取った敵の人数なんか、もうそれこそ、星の数。

能登・加賀勢力グループメンバーH たった300人、300人だけでだよぉ!

能登・加賀勢力グループメンバーI 夜襲は大成功。

能登・加賀勢力グループメンバーG して、我ら、コマンド部隊を構成のメンバーの名前は、以下の通りぃ!

彼らは口々に、自らの仮名(けみょう)、実名(じつみょう)(注8)を、ことごとしげに大イバリで、名乗りを上げる。

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(訳者注8)「実名」とは本名の事で、戦場での名乗りや書状のサインに用いる。「仮名」は、元服の際に烏帽子親に付けてもらった名前。
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これを聞いて、大将の鹿草出羽守を始め、国々からやってきた武士たちは全員、

能登・加賀・越前勢力グループメンバーS あぁ、なんてすごい、やろうたちなんだ。

能登・加賀・越前勢力グループメンバーT やつらがいなきゃ、おれたちは、会稽の恥(かいけいのはじ)を、そそぐ事ができなかったなぁ。

能登・加賀・越前勢力グループメンバー一同 いやぁ、まったくもって。

ところが後日、生け捕りになった桃井軍メンバーたちが詳しく語った、その夜の顛末を聞いて、彼らは、

能登・加賀・越前勢力グループメンバーS なんだなんだぁ、そんな事だったのかぁ。

能登・加賀・越前勢力グループメンバーT ひきょうなやつらだなぁ!

能登・加賀・越前勢力グループメンバーU 投降して出てったくせに、ドサクサに紛れて、うまく立ち回っただけじゃないの。

能登・加賀・越前勢力グループメンバーV これぞまさしく、今昔物語(こんじゃくものがたり)にある、例のあれだよな、あれ。

能登・加賀・越前勢力グループメンバーW 「あれ」って、なに?

能登・加賀・越前勢力グループメンバーV 「あれ」だよ、「あれ」・・・ええっとぉ、・・・そうそう、「受領(ずりょう)は、倒るる所に土をつかめ」。(注9)

能登・加賀・越前勢力グループメンバー一同 ウワハハハハハ・・・もうまったく、きたないやつらだぁ。

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(訳者注9)「転んでも、ただでは起きない」の意。

[今昔物語 巻第二十八 第三十八]に、次のような話がある。

崖から落ちた国司が、救け上げられた時、落下した所に生えていたキノコを、手に握りしめて上がってきた。キノコを見て驚く家臣に対して、「受領(国司)は、倒るる所に土をつかめと、言うではないか」と、言った。
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