太平記 現代語訳 24-2 夢窓疎石、後醍醐先帝への鎮魂の為に、天龍寺建立を提言
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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武士階級の人々が諸国の領地を横領していくのも、軍用の出費をまかなうために止むを得ず、というのであれば、致し方無しと言えるのかもしれない。しかし、その実態を見れば、とてもそのようには思えない。
下らないばさら趣味にうつつをぬかし、身にはきらびやかな衣服を纏(まと)い、食においては最高級のグルメを堪能(たんのう)。茶会や酒宴に膨大な金を費やし、美女や田楽(でんがく)ダンサーには、野放図(のほうず)に財を与える。それゆえ、国家は費(つい)え、人民は疲弊し、飢饉や疫病、盗賊、兵乱の止む間もない。
これは決して、天災ではない、人災である!
この国に、まともな政治がなされていないゆえに、このような惨禍がもたらされているのである。なのに、誰もそれに気がつかない。
あぁ、今の日本には愚か者ばかり、正しき道を知る人など、一人もいなくなってしまった。乱れきった国家の現状を見て、それを己(おのれ)の不徳の至らしめるところと観じ、強い自責の念をいだこうとする者など、ただの一人もいないではないか!
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夢窓疎石(むそうそせき) わが国の現状を見るにつけ、つくづく思うのですが・・・。
足利直義 はい。
夢窓疎石 人間の力をもってして、天災を除く事は不可能。
足利直義 ・・・。
夢窓疎石 この災、どうも、南の方からやってきているようで・・・。
足利直義 南?
夢窓疎石 吉野(よしの)。
足利直義 ・・・。
夢窓疎石 吉野の先帝(注1)は、御崩御の時、様々な悪相を現されたとか・・・。
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(訳者注1)後醍醐天皇のこと。
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足利直義 ・・・。
夢窓疎石 先帝の神霊(じんれい)の、おん憤りが深いがゆえに、国土に災を下し、社会に禍がもたらされていると、私は思います。
足利直義 ・・・。
夢窓疎石 先日、6月24日に夢を見ました。
足利直義 はい・・・。
夢窓疎石 先帝がおでましになられ・・・輿に乗っておられて・・・亀山離宮(かめやまりきゅう:京都市・右京区)にお入りになられた。
足利直義 ・・・。
夢窓疎石 それから間もなく、先帝はご崩御。
足利直義 ・・・。
夢窓疎石 その後、先帝は時々、金色の龍に乗り、大堰川(おおいがわ:右京区・嵐山)の河畔を逍遥しておられ。
足利直義 ・・・。
夢窓疎石 あのあたりは、昔、壇林皇后(だんりんこうごう:注2)がお寺を建てられた、いわくある霊地です。どうでしょう、あそこにしかるべき寺院を建立されて、先帝の菩提を弔われては・・・。必ずや、日本は良い方向に・・・。
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(訳者注2)嵯峨天皇の后。
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足利直義 なるほど。
夢窓疎石 こういう事は、昔からもよくやってきた事。菅原道真(すがわらのみちざね)公の聖廟(せいびょう)には、朝廷より官位を贈り、保元の乱の敗者・藤原頼長(ふじわらのよりなが)にも、その死後に官位を贈った。讃岐院(さぬきのいん:注3)、隠岐院(おきのいん:注4)にも、尊号を謚(おくりな)し奉り、その御座所(ござしょ)を、京都に遷しまいらせた。その結果、それらの人々の怨霊(おんりょう)はみな静まり、ついには、国家鎮護の神とならせたもうたのです。
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(訳者注3)崇徳上皇(すとくじょうこう)の事である。保元の乱に敗れ、讃岐(香川県)に流罪となり、そこで亡くなった。上田秋成著の「雨月物語」に、「白峯」という素晴らしい小説があるのだが、墓前を訪れた西行の前に、上皇が怨霊となって現れる凄絶なシーンがある。
(訳者注4)後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の事である。鎌倉幕府打倒を目指すも、承久の乱に敗れ、隠岐島に流罪となった。一流の歌人で、新古今和歌集のプロデューサーでもある。
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足利直義 国師殿のお言葉、まことにごもっとも。兄上には、私からお勧めしてみましょう。
直義から話を聞いた足利尊氏(たかうじ)も、この提言に積極的に賛同。
すぐに、「夢窓国師を開山とし、一寺を建立せよ」との命が、光厳上皇(こうごんじょうこう)より足利兄弟へ下された。亀山殿の跡地が寺の用地に割り当てられ、安芸(あき:広島県西部)と周防(すおう:山口県南部)2か国よりの税収の全額が、寺院建立の費用に充てられることとなった。
天龍寺(てんりゅうじ:右京区・嵐山)は、このような経緯によって、建立されたのである。
建立の為のさらなる費用捻出のため、様々な資材を積み込んで中国へ貿易船を出したところ、極めて有利な売買が成立し、膨大な利益を得る事ができた。(注5)
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(訳者注5)歴史学の世界では、これは、[天龍寺船]と呼ばれている。
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遠方からの材木運搬にもかかわらず、海上輸送は非常に円滑に行き、順風にも恵まれた。まさに、この寺院の建立を、天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)は随喜し、仏法守護の諸天善神(しょてんぜんじん)も、寺院建立の志を納受(のうじゅ)せられたものと見える。
このようにして、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、庫裏(くり)、僧堂(そうどう)、山門(さんもん)、総門(そうもん)、鐘楼(しゅろう)、方丈(ほうじょう)、浴室(よくしつ)、輪蔵(りんぞう)、雲居庵(うんごあん)等、70余個の寮舎、84間の廊下まで、不断の努力のかいあって、見事に完成した。
夢窓は、天性の芸術家でもあった。水や石を愛し、池の上に揺らぐ浮き草を見つめて時のたつのを忘れてしまい、というような人。我が意を得たりとばかりに、水と山を縦横に駆使して、様々の景観を寺内に造りあげていった。
夢窓疎石 (内心)この山門、普明閣(ふみょうかく)と名付ける。この世の衆生を救わんがため、仏様・菩薩様が、姿を変えて出現されたそのお姿を象徴。
夢窓疎石 (内心)この祠(ほこら)は、「霊比廟(れいひびょう)」。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)様が人間界と交わるために、その御霊(みたま)を現された場所。
夢窓疎石 (内心)天心秋を浸(ひた)す曹源池(そうげんち)、金鱗(きんりん)尾を焦がす三級岩(さんきゅうがん)、真珠あぎとを磨く龍門亭(りゅうもんちん)、神仙が住まう三山を捧げる亀頂塔(きちょうどう)、雲半間(うんはんけん)の萬松洞(まんしょうとう)、もの言わずして笑いを開く拈花嶺(ねんげれい)、声無くして音を聞く絶唱渓(ぜっしょうけい)、天の川にかかる橋、号して渡月橋(とげつきょう)。
この十景にさらに加えて、石を集めては霞に包まれた山の風景を借景にして庭を造り、樹木を植えては風の音をそこに移す。慧崇(えそう)の雨の絵、韋偃(いえん)の山水の絵でさえも表現できなかったような風流である。
康永(こうえい)4年に、全ての堂宇が完成し、この寺は京都五山(きょうとござん)の第2位に列せられた。以来、朝廷、公家、武家より、祈願や祈祷の拠所(えしょ)として厚く遇せられ、1,000人の僧侶が住む大寺院となった。
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