太平記 現代語訳 2-10 ひょんな事から、ニセ天皇・師賢の化けの皮はがれ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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延暦寺の衆徒たちは、唐崎の合戦に勝利をおさめ、幸先よしと大いに意気上がること、この上なし。

ところが、ここに一つ、やっかいな事がもちあがった。

延暦寺・東塔(とうとう)エリア・メンバーA 尊くも、陛下がわが比叡山に登山して来はってからいうもん、そのおられる場所は、延暦寺・西塔(さいとう)エリアから、一向に動かんやないかい!

東塔エリア・メンバーB そうやそうや、こんな事では、わが延暦寺・東塔(とうとう)エリアの面目、丸つぶれや!

東塔エリア・メンバーC いにしえの源平争乱の時、後白河法皇(ごしらかわほうおう)様が、わが延暦寺を頼ってこられた時も、まずは横川(よかわ)エリアに来られたんやけど、すぐに、東塔エリア・南谷(みなみだに)の、円融坊(えんゆうぼう)へ移らはったんやぞ。

東塔エリア・メンバーD このような吉なる歴史的先例もあることやねんから、「早ぉ、東塔エリアの方へ、陛下をお遷しせぇ」とな、こっちから西塔エリアの方に、申し送ろうやないか。

東塔エリア・メンバー一同 賛成!

西塔エリアの衆徒たちは、この要求を、「まことに、ごもっとも」と承服し、「陛下」をご遷居あそばし申し上げるべく、「皇居」に参集した。

その時、山の上から吹き降ろしてきた強風にあおられて、「陛下」の前の御簾がまい上がってしまった。「陛下」になりすまし、天皇の礼服を着て座していた、花山院師賢(かざんいんもろかた)は、

花山院師賢 (内心)しもぉたぁ!

西塔エリア・メンバーE なんや、あれはぁ!

西塔エリア・メンバーF あこに座っとんのん、陛下やないぞ。

西塔エリア・メンバーG あれは別人や、別人が天皇の衣服を着とんのや!

西塔エリア・メンバーH これはいったい、どこの天狗(てんぐ)の仕業や。

西塔エリア・メンバー一同 もうあきれて、よぉいわんわぁ。

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この一件があってからというもの、「皇居」にやって来る衆徒は皆無となってしまった。

天皇側近メンバーI あーあ、ばれてもたなぁ。

天皇側近メンバーJ こないなったら、この山の連中、いったいどないな動きに出よることやら、わからへんで。

天皇側近メンバーK 早ぉ山、下りて、陛下に合流しような。

その夜半、花山院師賢(かざんいんもろかた)、四条隆資(しじょうたかすけ)、二条為明(にじょうためあきら)はこっそり延暦寺を抜け出し、笠置山にころがりこんだ。

そうこうするうち、もとから幕府側に心寄せていた上林坊・豪誉(じょうりんぼうごうよ)は、護良親王(もりよししんのう)側近の安居院・澄俊(あぐいちょうしゅん)を捕えて、六波羅庁へ突き出した。

衆徒中の有力者である護正院・猷全(ごしょういんゆうぜん)は、八王子社(はちおうじしゃ)の一の木戸を守っていたのであったが、こうなってはとても戦えないと思ったのであろうか、同僚・部下の者たちをひきつれて、六波羅庁へ投降してしまった。

それをかわぎりに、一人落ち、二人抜け、延暦寺サイドからは脱落者が続出、ついには、光林房・源存(こうりんぼうげんそん)、妙光房・小相模(みょうこうぼうこさがみ)、中坊の者ら、3、4人の他には、天皇に味方する者はなし、というように、状況が一変してしまった。

宗良親王(むねよししんのう)と護良親王(もりよししんのう)は、その夜はなおも、八王子社に踏みとどまっていたが、

護良親王 もう、こうなっては、どうしようもありません。まずはここを脱出して、陛下の行く末を見守るとしましょうよ。

宗良親王 そうやねぇ。

29日夜半、二人の親王は、八王子社一帯にかがり火を多く燃やして、いまだ大勢がたてこもっているかのように偽装した後に、 戸津浜(とづのはま)から小舟に乗り、逃亡せずに留まっていた衆徒らを引き連れて、石山(いしやま:滋賀県大津市)へ逃れた。

護良親王 ここから後、更に、我々二人が行動を共にする、というのは、下の策やと思います。それに、兄上は、足もあんまり達者ではないから、あまり遠くまで逃げなさるのはムリでしょうし・・・。

ということで、石山から以降、二人は別ルートをとることに。

かくして、宗良親王は、山ごえルートで笠置寺へ、護良親王は、熊野川・上流方面を目指し、奈良へ向かった。

かくも尊い一山の座主(ざす)の位を捨てて、慣れぬ万里漂白のあてもない旅に、流れゆく二人。

薬師如来(やくしにょらい)、山王権現(さんのうごんげん)との結縁(けちえん)(注1)も、もはやこれを限りかと思うと名残りおしく、ともに皇族の兄弟として生れた二人の再会もまたいつの事になろうかと思うと、まことに心細い。

互いに遠ざかりゆく相手の姿が見えなくなるまで、後ろを何度も振り返りつつ、涙の中に東西に分かれていく、その心中はまさに悲しきものである。

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(訳者注1)延暦寺・根本中堂の本尊・薬師如来と、日吉神社の延暦寺の守り神・山王権現を指している。
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そもそも今回の、「天皇になりすましての延暦寺避難」と「その発覚ゆえの衆徒たちの心変わり」の件、その策謀の成功こそは見なかったものの、よくよく考えてみるに、深謀遠慮(しんぼうえんりょ)から出たアイデアと、評価できなくはない。

古代中国において、秦(しん)帝国滅びて後、楚(そ)の項羽(こうう)と、漢(かん)の高祖(こうそ)の二人が互いに政権を争うこと8か年、両者の間に戦闘が行われる事70余回。その間、項羽は連戦連勝、高祖の苦しみ、はなはだ深し。

高祖、滎陽(けいよう)城にたてこもりし時、項羽の軍、城を囲むこと数百重。日が過ぎるとともに、城中の兵糧次第に尽き、高祖の兵らの士気は衰え、高祖、戦わんとするに力無く、遁(のが)れんとするに道無し。

ここに、高祖の部下に紀信(きしん)という者あり、覚悟を決して高祖に向かいて提言す。

紀信 項羽は今や、この城を数百重にも囲んでおりまする。わが方はすでに糧食つき、兵たちは疲労こんばい。今もし城を出て戦わば、敗北して敵の捕虜になることは必定。殿、ここは敵を欺いて、秘かに城を脱出するのが得策かと、心得まする!

高祖 そちに、それを可ならしむる策はあるのか?

紀信 ありまする。

高祖 ・・・。

紀信 願わくばわが殿、私めに、殿になりすまして、項羽の陣に投降する事を許したまえ。

高祖 ・・・。

紀信 項羽が私めを捕え、囲みを解き放ったその瞬間に、殿は速やかにこの城を脱出なされませ。しかる後、再び大軍を催して、項羽に対する反撃の戦を起こされ、敵を亡ぼしたまわんことを!

高祖 何を言うか! その策を用うれば、そちは、項羽の陣内において殺されてしまうではないか! さような悲しきこと、我は到底耐えがたいぞ。

紀信 殿ォ!

高祖 ・・・。

紀信 殿、国家のためを思わば、ご自身を軽々しく死に至らしめることなど、断じてなりませぬ! なにとぞ、なにとぞーっ!

高祖 ・・・。(涙)

かくして高祖、いたしかたなく、涙をおさえ、別れをおしみつつ、 紀信の謀略を採用することを決断せり。

紀信、大いに喜び、自ら高祖の衣を着し、王車に乗りて王旗をかざしながら、

紀信 ただいまから我、これまでの罪をわび、楚の大王のもとに投降す!

叫びながら、城の東門より出づる紀信。これを見た楚の兵士ら、四方の囲みを解き、残らず東門へ集まりて、一斉に万歳を唱うる。この間に高祖、30余騎を従え、城の西門から成皐(せいこう)の地へと脱出。

夜が明けて後、項羽、楚に投降してきた「高祖」を謁見。

項羽 やや、なんと! なんじは彼にあらず!

紀信 紀信なり!

項羽 うーぬ、おのれ、たばかりおったな!

項羽、大いに怒りて、ついに紀信を殺したり。

後日、高祖、成皐の兵を率いて項羽に反撃を開始。

項羽ついに勢い尽き、烏江(おうこう)にて討たれ、高祖は漢王朝を創立、その後長く、天下の主となりにけり。

後醍醐天皇もこのような歴史的先例を考え、花山院師賢もこのような忠節の道をよく心得ていたのであろうか。 かたや、包囲を解かせるために敵を欺いた紀信、かたや、敵の軍勢を遮るために謀った師賢。日本と中国、時と所は異なるといえども、君臣心あわせての千載一遇(せんざいいちぐう)の忠貞(ちゅうてい)、臨機応変の智謀と言えよう。
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