太平記 現代語訳 22-5 脇屋義助の突然の死去により、瀬戸内の情勢は混沌状態に
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このような中、誰もが思いもよらぬ事が起った。
伊予の国府(愛媛県・今治市)に滞在していた脇屋義助(わきやよしすけ)が、5月4日、にわかに発病。心身の悩乱深まり、それからわずか7日の後、ついに、帰らぬ人となってしまった。
義助のもとに参集していた吉野朝サイドの人々の心中は、もはや言葉にはつくしがたい。
秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が沙丘(さきゅう:河北省)に崩じた時、その臣下たちは、漢(かん)や楚(そ)がこの機に乗ずる事を悲しみ、三国時代、諸葛孔明(しょかつこうめい)が籌筆駅(ちゅうひつえき:注1)で没したとき、呉(ご)と魏(ぎ)がこれによって勢力を拡大していくことになるであろうことを、蜀(しょく)の人々が憂えた様も、かくのごとくであったろうか。
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(訳者注1)孔明の最期の地は、五丈原である。
おそらく、この時代には、[三国志演義]はまだ未完成状態、あるいは、日本には未伝達状態であったので、太平記作者も[三国志演義]を読む事が不可能であった、だから、このような記述になっているのであろう、と、訳者は考える。[三国志演義]を読んでいれば、諸葛孔明の最期の地を、[五丈原]以外の場所と記述することは、ありえないだろうから。
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吉野朝サイド・メンバーA あぁ・・・脇屋義助殿が亡くなってしまわれるとはなぁ・・・真夜中に灯火が消えてしまった中に、破れた窓から吹き込む雨に顔をザンザン打たれてるような気分だ。
吉野朝サイド・メンバーB 川を渡ってる途中、乗ってる舟が沈没してしまい、一筋の波に浮きつ沈みつ翻弄されてるような気分だよ。
吉野朝サイド・メンバーC こないな事が敵方に知れてしもぉたら、えらい事じゃで。敵はイッキに勢いづきよるけぇのぉ。
吉野朝サイド・メンバーD 脇屋殿の死、とにかく隠せ! 隠し通すんじゃ!
吉野朝サイド・メンバーE こっそり葬礼をすましてしまわんと、いかんのぉ。
吉野朝サイド・メンバーF 悲しみの声もあげたらいかんで。もうなんもかもすべて、我が胸の中にぐっと飲み込んでしもぉてなぁ。
しかし、このような大事件をそうそう隠し通せるものではない。足利尊氏(あしかがたかうじ)より四国地方の管轄を任されていた細川頼春(ほそかわよりはる)は、すぐに、脇屋義助・死去の情報をキャッチした。
細川頼春 (内心)これは、天からおれに与えられたビッグチャンスじゃねぇの! この時を逃さず、そく、行動にうって出よう。司馬仲達(しばちゅうだつ)が諸葛孔明亡き後の蜀の疲弊につけ入って、かの国を滅ぼしたようにな。(注2)
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(訳者注2)蜀が滅びたのは司馬仲達の死後、その子・司馬師・司馬昭・兄弟の全盛時代である。
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頼春は、伊予、讃岐(さぬき:香川県)、阿波(あわ:徳島県)、淡路(あわじ:淡路島)の勢力7,000余騎を率い、伊予・讃岐国境付近の河江城(かわえじょう:愛媛県・川之江市)へ押し寄せ、そこを守る土肥三郎左衛門(とひのさぶろうざえもん)を攻めた。
脇屋義助に従って四国へやってきた長年の新田家恩顧の武士たちは、土居(どい)、得能(とくのう)、合田(あいだ)、二宮(にのみや)、日吉(ひよし)、多田(ただ)、三木(みき)、羽床(はゆか)、三宅(みやけ)、高市(たかいち)家の者らと協力し、金谷経氏(かなやつねうじ)を大将に仰いで軍船500余に搭乗、土肥を援護するために、河江城の沖合いに押し寄せた。
これを聞いて、備後(びんご:広島県東部)の鞆(とも:広島県・福山市)や尾道(おのみち:広島県・尾道市)に船ぞろえしていた、安芸(あき:広島県西部)、周防(すおう:山口県南部)、長門(ながと:山口県北部)の足利側勢力は、軍船1,000余を編成して一斉に発進し、河江城を目指す。
海戦が始まった。両陣営、海上に帆を張り、舷側をたたいて互いにトキの声を上げる。潮流に乗り、風に従いながら。押し合い押し合い、戦いあう。
吉野朝サイド・大館氏明(おおたちうじあきら)の執事・岡部出羽守(おかべでわのかみ)が率いる軍船17隻は、備後の足利サイド・宮兼信(みやかねのぶ)が率いる左右に分かれて漕ぎ並ぶ軍船40余隻の集団の内に突入していった。
岡部らは宮サイドの船に乗り移り、相手と引き組んでは次々と海中に飛び込んでいく。まことにあっぱれな戦いぶりである。
足利サイドの船は大船ぞろい、艫(とも)や舳先(へさき)に櫓(ろ)を高くかいて、上方から矢を散々に射下ろす。吉野朝サイドの船はみな小船ばかり、逆櫓(さかろ)を立てて機動力を駆使し、縦横に走り回る。
足利サイド・メンバー一同 たとえここで死んでしもぉて、海底の魚腹の中に葬られる事になろうとも、
吉野朝サイド・メンバー一同 天下の笑い者になるような事だきゃぁ、絶対にせんでぇ!
双方、気を励まし、一歩も退かずに終日戦い通す。
その後、にわかに強い東風が吹き起こり、吉野朝サイドの船は全て西方に吹き流されてしまい、足利サイドの船は風に乗って伊予へ進んでいった。
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夜になって、東風もようやく静まった。
吉野朝サイド・メンバーG あーあ、おれたちゃ、まったくツイてねぇよなぁ。
吉野朝サイド・メンバーH こういう時にゃ、どんな作戦立ててみても、何もかも裏目、裏目に、出てしまいよるんじゃ。
吉野朝サイド・メンバーI ここはいったん退却、船を漕ぎ戻すべきなんかいのぉ・・・。
金谷経氏 おいおい、おまえら、ナニ言ってんだよぉ! 時の運がどうのこうのとか、勝利を得られる可能性が何十パーセントあるだの、どうやって手柄を立てるべきか、なんてぇ話はなぁ、危機に陥ってない、まだまだ余裕のある時に言う事なんだよ。今のおれたち、そんなケッコウな状況かい?
吉野朝サイド・メンバー一同 ・・・。
金谷経氏 おれたちのたった一本の頼みの綱だった脇屋義助殿がなぁ、病に犯されて亡くなってしまったんだよぉ・・・今はもう何もなすすべ無くなっちまった、運の薄いおれたちなんだ。
吉野朝サイド・メンバー一同 ・・・。
金谷経氏 ここで生きながらえてみたところで、これから先、どうなるもんでもねぇだろう? 今は命の限り、とにかくガムシャラに戦い抜くしかねぇだろうが! 運の良し悪しとか戦闘の吉凶を、うんぬんしてる場合じゃねぇだろうが、えぇ?!
吉野朝サイド・メンバー一同 ・・・。
金谷経氏 さぁ、今夜これから、備後の鞆へ押し寄せて、あそこの城、落としてしまおうじゃねぇの! おれたちが気勢を上げさえすりゃ、中国地方の連中らも、加勢に来てくれるだろうよ。そうなったら、中国地方全域だって、制圧できるかもしんねぇぞ!
吉野朝サイド・メンバー一同 よぉし!
彼らはその夜半、備後の鞆へ押し寄せた。
城の守備は手薄く、城内には30余人がいるのみであった。しばらく防戦してはみたが、全員戦死。
吉野朝サイド・メンバーらはこの勝利に勢いづき、大可島(おおかしま:福山市:注3)を根城にして鞆の浦一帯に充満し、淡路の武島(むしま)や小豆島(しょうどしま)からの援軍の到来を待った。
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(訳者注3)[円福寺](鞆の浦)の境内が、その城址。
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そこに、備後、備中(びっちゅう:岡山県西部)、安芸、周防4か国の足利サイド勢力3,000余騎が、押し寄せてきた。
吉野朝サイドは、大可島を背後に布陣し、東西の宿へ船を漕ぎ寄せては次々と上陸、新手の兵を送りこみながら戦う。足利サイドは、小松寺(こまつでら:愛媛県・西条市)に陣を取って海岸一帯に騎馬武者を送り出し、吉野朝サイドと激戦。
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このようにして10余日が経過、互いに疲れが見えはじめた頃、
吉野朝サイド・メンバーH おぉい、大変やぁ! 伊予の土肥家の連中らの城、落ちてしまったようやでぇ!
吉野朝サイド・メンバーG ナァニィー!
吉野朝サイド・メンバーH 土肥の城を落した後、細川頼春は、大館氏明(おおたちうじあきら)がたてこもる世田城(せたじょう:西条市)に攻めかかっとるっちゅうわ。
吉野朝サイド・メンバーI いよいよオレらも、ネングの収め時かいのぉ・・・。
吉野朝サイド・メンバーJ おんなじ死ぬんじゃったら、この備後じゃのぉて、生まれ故郷の伊予で死にたいもんじゃ。
吉野朝サイド・メンバーK おれもほんと、そう思うわ。
金谷経氏 うーん・・・。
というわけで、彼らは大可島を放棄して、伊予へ退却した。
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伊予へ帰還の後、残存の士卒らが集まってみたところ、総勢2,000余騎。
金谷経氏 あのな、おれにちょっと考えがあるんだが・・・。
吉野朝サイド・メンバー一同 ・・・。
金谷経氏 様々な情報から察するに、細川頼春が動かしてる兵力は相当な数のようだ。そんなの相手に、なまじい役にも立たねぇもんらを集めて戦ってみても、どうにもなりゃしねぇよな。臆病もんらに足引っ張られて、こっちが負けるの、目に見えてらぁな。
吉野朝サイド・メンバー一同 ・・・。
金谷経氏 だからぁ・・・日ごろの戦いぶりが際立ってる一騎当千のもんだけを選りすぐってな、それでもって軍を編成して、敵の大軍に当たるのよ。そうすりゃ、何とか対等に戦えるってもんだろ・・・あわよくば、敵の大将・細川頼春と引っ組んで刺し違えて・・・。
吉野朝サイド・メンバーG で、その人数は?
金谷経氏 そうさなぁ・・・ここにいるのは2,000騎だから、ま、そこから、300騎ほど選んでってとこかぁ。
吉野朝サイド・メンバーH って事なら、敵が伊予に本格的に侵入して来んうちに。
というわけで、金谷経氏を大将に、選抜軍300騎が編成された。
全員、縨(ほろ:注4)にマンダラを書き、とても生きては帰れぬ戦と、あえて十死一生の大凶日を出陣の日に選んだ。
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(訳者注4)矢を防ぐために身にまとった布。
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吉野朝サイド・メンバーL あぁ、大敵・細川軍に対して、これから戦いを挑みよる彼ら、まことにアッパレじゃのぉ。
吉野朝サイド・メンバーM あの古代中国の樊噲(はんかい)、周勃(しゅうぼつ)さえも、これには及ぶまいて。
吉野朝サイド・メンバーN あいつらこそは、まさに義士じゃ。どこまでも、義の志に生きんとする、勇士たちじゃ。
吉野朝サイド・メンバーO あぁ、なんちゅう立派なヤツラよのぉ。(涙)
吉野朝サイド・メンバーP 哀れじゃ・・・見てたら涙、出てきてまう。(涙)
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細川頼春も、7,000余騎を率いて出陣。「吉野朝サイド、すでに出陣せり」との報に、野戦にて一気に勝敗を決しようと、千町原(せんちょうがはら:西条市)に進んだ。
前方を見渡せば、広々とした野原の中に中黒紋(なかぐろもん)の旗が一本、かすかな風に飛揚している。その旗の下に展開するは、わずかに300騎。
細川頼春 おやぁ・・・敵側はたったあれだけの兵力か・・・伊予国の敵勢力、もっと数が多いはずだがなぁ。
細川軍リーダー一同 ・・・。
細川頼春 ・・・なるほど、敵側の思惑(おもわく)、読めたぞ。あれは、精鋭中の精鋭だけを選んで組んだ軍だな。わが方の中央を突破して、おれに接近して組み付いて、一気に勝敗を決めてしまおうってコンタンにちがいない。
細川頼春 と、いうことであればだな、決死の覚悟を固めた小勢を、一気に討ち取ろうとしてはいかんのだよ。意外にてこずってしまって、気がついてみたら、こっちの命が無くなってた、なんて事にもなりかねないから。
細川頼春 いいか、みんな、よく聞け!
細川軍リーダー一同 ははっ!
細川頼春 敵がわが陣を破らんがため突撃をしかけてきたならばな、あまり抵抗せずに、そのまま破らせておけ。その上で、わが陣への突入をし終えたタイミングを見計らって、後方を塞いで敵の退路を絶て。横あいから馬を寄せられた時には、相手にならずにわざと逃げ回り、敵の馬の足を疲れさせろ。太刀を抜いての一騎討ちで攻め掛かってきたら、馬に鞭打って走らせながら、相手のスキを窺い、振り返りざま、矢を射て相手を落とせ。 いいな!
細川軍リーダー一同 ははっ!
細川頼春 敵に疲れが見えてきたら、すぐに攻撃部隊を交替させて、新手を戦線に投入して、敵を包囲しろ。敵に近づきすぎて組まれないように注意しろよ。退却する時にも、互いに助け合いながら退却するんだ、味方を見放して一目散に退却てな事、絶対にしてはいかん! わかったな!
細川軍リーダー一同 ははっ!
細川頼春 敵と味方の兵力を比べれば、あっちとこっちは、1対10! 敵をとことん悩まし続け、敵が疲れてきた頃合いを見計らって、一気に攻撃をかける、これで確実に、敵は全滅だ!
このように、詳細な指示を下した後、細川頼春は旗の前に馬を進め、吉野朝サイド陣の方に向かってしずしずと前進し始めた。
金谷経氏 敵が動き始めた。よぉーし、行くぞぉー!
吉野朝サイド・選抜軍メンバー一同 ウオー!
両軍、一斉に馬に鞭を入れた。まずは矢の一斉射撃。
吉野朝サイド・選抜軍メンバーの放った矢 ビュンビュンビュンビュン、ビシビシビシビシ・・・・。
細川軍・メンバーの放った矢 ビシバシビシバシ、ビュンビュンヒュンヒュン・・・。
吉野朝サイド・選抜軍メンバーは全員、弓矢を投げ捨て、一斉に抜刀。
吉野朝サイド・選抜軍メンバーの太刀 シャキン、シャキーン、シャイーン・・・(太刀を抜く音)
細川サイドの密集大軍のまっただ中へ突入していく、吉野朝サイド・選抜軍メンバー一同。
吉野朝サイド・選抜軍メンバー一同 ウオー! ウオー! ウオー! ウオー!・・・。
細川頼春の周辺をかためていた讃岐藤原氏(さぬきふじわらし)流の者ら500余騎は、事前の頼春の指示の通りに、左右へさっと分かれて道を開けた。その中に大将・細川頼春がいるとは思いも寄らず、吉野朝サイド・選抜軍300騎は、そのまま後方へツッと駆け抜け、細川軍第2陣に襲い掛かった。
第2陣は、三木(みき:香川県・木田郡・三木町)、坂西(ばんせい:徳島県・板野郡・板野町)、坂東(ばんとう:板野町-藍住町-北島町-松茂町-鳴門市-徳島市)の武士ら700余騎で構成されていた。兜のシコロを傾け、馬を立たせて静かに待機していたが、勇猛強力の吉野朝サイド・選抜軍に一たまりもなく懸け散らされ、南方の山の峰上へサァット退いていく。
金谷経氏 なんだなんだぁ、細川軍には、まともに戦えるヤツ、一人もいねぇのかよぉ!
吉野朝サイド・選抜軍は、続けて細川軍第3陣に襲い掛かった。これを構成するは、詫間(たくま)、香西(こうさい)の他、橘(たちばな)氏流の者たちと小笠原一族、合計2,000余騎。
金谷経氏 (内心)きっとこの中に、細川頼春が。
吉野朝サイド・選抜軍は、細川軍第3陣の中をサット懸け破り、取って返し、引き組んでは刺し違え、落ち重なっては首を取られ。
このように、一歩も退かずに戦い続けるうちに、決死の300人は一人、また一人と、馬蹄の下に討ち死にし、今はわずか17騎が残るだけとなってしまった。
そのメンバーは以下の通り・・・まず、大将の金谷経氏、そして、河野通郷(こうのみちさと)、得能弾正(とくのうだんじょう)、日吉大蔵左衛門(ひよしおおくらさえもん)、杉原興一(すぎはらこういち)、富田六郎(とんだろくろう)、高市興三左衛門(たかいちよざえもん)、土居備中守(どいびっちゅうのかみ)、浅海六郎(あさみろくろう)等。
いずれも一騎当千のツワモノ、自ら敵に当たる事10余回、陣を破る事6回、全員、身体のどこかに何らかの負傷を負い、体力は、もはや限界に達してしまっていた。
全員、一個所に馬をうち寄せて、
吉野朝サイド・選抜軍メンバーQ うーん、まいったのぉ。いったいどこにいる誰が、敵の大将・細川頼春なんか、さっぱり分からんがの。
吉野朝サイド・選抜軍メンバーR 馬か鎧か、目印になるようなもんでもありゃ、何とか見分けがつくんじゃが・・・。
吉野朝サイド・選抜軍メンバーS このままじゃ、わしらぁ犬死にやでぇ。大した事もねぇ、方々からの寄せ集めの連中らと戦ぉて討死にしてみても、つまらんがの。
金谷経氏 よし、こうなったら、敵陣の一角を破って、どこかに落ちるとしよう。
17騎は再び馬の鼻を返し、細川軍7,000余騎のど真ん中を懸け破り、備後を目指して落ちていった。
このように、目を見張らんばかりの立派な戦いぶりを展開した、吉野朝サイド・選抜軍であった。
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