太平記 現代語訳 39-11 光厳法皇、諸方を行脚

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝年号、正平12年(1357)、光厳上皇(こうごんじょうこう)は、吉野の山中・賀名生(あのお:奈良県・五條市)での幽閉から解放され、京都へ帰ってきた。(注1)

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(訳者注1)原文では、「光厳院禅定法皇は、正平七年の此、南山賀名生の奥より楚の囚を許され給て、都へ還御成たりし後」。

正平7年(1352)は、光厳上皇らが拉致された年である。ここは、太平記作者のミスである。
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その後、上皇は、厭世(えんせい)の感が強まり、「仙洞御所(せんとうごしょ)での華美な生活を捨て、身軽な境遇になってしまいたい」と、願い続けてい。そして、ようやくその願いがかない、袈裟を着して頭を丸め、世の塵を離れた生活ができるようになった。

まずは、伏見(ふしみ:伏見区)の奥の、光厳院(こうごんいん)という幽閑(ゆうかん)なる地に住んだ。

しかし、なんといっても都の近所、旧臣たちが、再び参り仕えようと、寄ってくる。

光厳法皇(注2) (内心)なんともまぁ、厭(いと)わしいもんやなぁ。過去のシガラミ、どこまでも、ひっついてくるやん・・・憂き世の事を、わが耳に入れただけで、なんや、心がどんどん汚れていってしまうような気持ちするなぁ・・・。

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(訳者注2)出家した上皇は、「法皇」と呼ばれる。今後、「光厳上皇」ではなく、「光厳法皇」と記述することとする。
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光厳法皇 (内心)中峯和尚(ちゅうほうおしょう)の作った送行偈(そうぎょうのげ)にもあるわなぁ、「来たりて止まる所無く、去って住する事無し。拄杖(しゅじょう)頭辺(とうへん)活路(かつろ)通ず。」(注3)

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(訳者注3)[拄杖]は、[禅僧が行脚(あんぎゃ)のときに用いるつえ]であり、この句の中においては、[行脚(あんぎゃ)]のシンボルとして使われている。

「来たりて止まらず、去って住する事無し」も、行脚の様態を示す語である。

「活路通ず」は、「その中に、覚りの境涯が開けるぞ」の意。
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光厳法皇 (内心)ほんまに、その通りや・・・行脚こそ、最高の人生やわなぁ・・・よし!

光厳法皇は、ついに思い立ち、しもべを一人も伴わず、順覚(じゅんかく)という僧一人だけを供に連れて、山林行脚の旅に出た。

光厳法皇 まずは、西国の方に行ってみるとしよか。

順覚 かしこまりました。

摂津国(せっつこく)の難波浦(なにわうら)を通過せんとした時、御津(みづ)の浜松に霞が渡り、曙の風景がもの哀れに感じられた。

光厳法皇 誰を待って 御津の浜松 霞んでるんや わが日本国に 春はまだ来ぬ

 (原文)誰待て みつの浜松 霞むらん 我が日本(ひのもと)の 春ならぬ世に

一首読み、涙ぐまれた。

そのまま、そこに足を止め、山遠き浦の夕日が波間に沈もうという時刻まで、一帯の風景を鑑賞された。それでもなおも、そこを去りがたい気持ちであった。

光厳法皇 そうそう、こんな詩があったわなぁ、

 望むに 窮まり無し 水 天色を接(まじ)え
 看(み)るに つきず 山 夕暉(せきき)に映ず

光厳法皇 あぁ、まさに、この風景にピッタリの詩やなぁ。

光厳法皇 それにしても・・・もしも、世を捨ててなかったら、こないな、すばらしい風景を見る事も、できひんままやったんやわなぁ・・・。

無常感のいやます法皇の心中である。

光厳法皇 次は、高野山(こうやさん:和歌県・伊都郡・高野町)へ行ってみよ。

順覚 はい、かしこまりました。

というわけで、まずは、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)の瓜生野(うりうの)へ。

野焼きの跡に緑が萌え出て、そこには早くも、春のきざしが・・・松の影は紅(くれない)を穿(うが)ち、日は西に傾く。海空と野原が織り成すパノラマは、歩けば歩くほど、新しい発見に満ち満ちており、足の疲れを全く感じない。

かつては、金箔を散らした軽いうすものの敷物を介してしか、かりそめにも地面を踏んだ事など無かった人が、今や、黒い深泥湿土(しんでいしつと)に足を汚している。

お供の順覚は、脇の下にかけていた護符を、托鉢に替えて、たすきがけにした。

二人はそのまま、堺浦(さかいのうら:大阪府・堺市)まで歩き、そこで、夜になった。

玉藻(たまも)を拾い、磯菜(いそな)を取る海人(あま)たちが、ツゲの櫛を頭に差し、葦(あし)の間に見え隠れしながら働いている様を見て、

光厳法皇 (内心)朝廷に貢ぎ物を備える民の労働が、これほど、たいへんなもんやったとは・・・今の今まで、こないな事、なにも知らんまま、ただただ、安閑と暮してきた自分やったなぁ。

今さながらに、自分の過去の人生を、「あさましきものであった」と痛感する法皇である。

頭を回らして東の方を見れば、雲に連なり霞に消えて聳え立つ高い山があった。道端に休んでいる木樵(きこり)に、法皇は問うた。

光厳法皇 あこに聳(そび)えたる高ぁい山、あれ、なんちゅう名前の山や?

木樵 坊(ぼん)さん、知らんのかいな。あれこそは、かの有名なる「金剛山(こんごうさん)」やがな。ほれ、あの・・・日本国中の幾千万もの武士らが、命落してしまいよったとこやがな。

光厳法皇 ということはやで・・・なにか、あの楠正成(くすのきまさしげ)が、鎌倉幕府の大軍相手に戦ぉた、あの城のあったとこかいな?

木樵 そうやがな、あの「千剣破(ちはや)城」のあったとこやがな。

光厳法皇 あぁ、あこがなぁ・・・。

光厳法皇 (内心)あの時、自分は一方の皇統(注4)を代表する立場として、天皇の位にあった・・・もとはといえば、あの千剣破城の戦も、自分が天下を争そうたが為に、引き起こされたんやった・・・あぁ、なんちゅう、あさましい事なんやろうか・・・あの戦場で死んでいった者らは、今ごろ修羅道(しゅらどう)に落ちて、長い長い苦患(くげん)を受ける身になってるんやろぉなぁ・・・それらの罪障(ざいしょう)、私が受けていく事にも、なるんやろうなぁ・・・。

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(訳者注4)持明院統。
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法皇は、過去の非を悔い、じっとたたずみながら、金剛山を見つめ続けた。

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それから数日後、紀伊川(きのかわ:和歌山県)を渡る事になった。

眼前には、柴木の小枝で造られた危(あやう)げな橋が一本かかっているだけ、橋脚は、既に朽ちてしまっている。

思い切って橋の上に進み出てはみたものの、足がすくみ、肝は冷え、もうとても先には進めない、法皇は、橋の途中で立ち往生してしまった。

そのような所に、7、8人の武士が、橋の上をやってきた。

この地で、肘を張り、目をイカラしながら生活している武士たちであろうか。法皇が橋の途中に立ちつくしているのを見て、いわく、

武士A おいおい、あのぼん(僧侶)さん、見てみいな。あんなとこで、つった(立)っとるわい。(ニヤニヤ)

武士B あこまで行ってみたはええもんの、ビビッテもぉてからに、身動きできんように、なってしもたんや。(ニヤニヤ)

武士C ほんまにもう、臆病なやっちゃのぉ。

武士D みっともないでぇ。

武士E おいおい、おれら、チト、先を急いどるんや。

武士F 橋は一本しか、ないんやからなぁ! 渡るんなら、とっとと渡れやぁ! 渡らんのやったら、おれらを通せ!

彼らは、法皇を押しのけて橋を渡っていこうとした。その瞬間、

光厳法皇 あぁぁ!

法皇は、橋の上から押し落とされて、川中に転落、水中に沈んだ。

順覚 あぁ、なんちゅう事を!

順覚は、衣を着たまま川に飛び込み、法皇を助け揚げた。

法皇は、膝が岩の角に当たって出血、衣は水びたし。

順覚は、泣く泣く、法皇を付近の辻堂へ入れ、衣を脱ぎ替えさせた。

光厳法皇 (内心)出家前には、こないな屈辱、味わぉた事、なかったわなぁ・・・。

順覚 (内心)元はといえば、天皇陛下・・・そやのに、ご出家されたばっかしに、こないなメにあわれるやなんて・・・。

法皇も順覚もさすがに、いったんは捨てた浮き世への未練の思いが心中に沸き上がってくるのを、とどめようがない。涙のかかる袖は、濡れに濡れて、干す暇もない。

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それでもなんとか、気力を回復、二人は再び、高野山を目指した。

行く末(すえ)心細き針のような道を経て、ひたすら山を登っていく・・・山また山、水また水・・・この先いったい何日間、登り続けなければならぬのであろうか・・・ともすると、身力疲れをおぼえるのではあったが、

光厳法皇 ハァハァ・・・なぁ、順覚よ・・・ハァハァ・・・。

順覚 はい・・・ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・先年、大覚寺法皇(だいかくじほうおう:注5)がなぁ・・・ハァハァ・・・高野山へお参りされた時にはなぁ・・・ハァハァ・・・供奉(ぐぶ)の公卿(くぎょう)らはもろともに・・・ハァハァ・・・。

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(訳者注5)後宇多法皇。
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順覚 ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・1町毎に設けられた卒塔婆(そとば)を見ては・・・ハァハァ・・・三度の礼拝をして、頭を地に着けて・・・ハァハァ・・・仏に誠を捧げながら進んでいったと、いうやないかぁ・・・ハァハァ・・・。

順覚 はぁい・・・ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・法皇陛下のその御願(ぎょがん)・・・ハァハァ・・・まことに有り難いもんやわなぁ・・・ハァハァ・・・。

順覚 はぁい・・・ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・私が在位の時、もうちょっと世の中が平穏やったら・・・ハァハァ・・・きっと私も、法皇陛下の・・・ハァハァ・・・それになろぉて・・・ハァハァ・・・同じようにして、高野山に・・・ハァハァ・・・お参りしてたやろうて・・・ハァハァ・・・。

順覚 ハァハァ・・・。

光厳法皇 (立ち止まる)ハァハァ・・・その夢が今、ついに実現したというわけやなぁ・・・ハハハハ・・・ハァハァ・・・(笑顔)。

順覚 ほんまに、そうですわなぁ・・・(微笑)。

そしてついに、

順覚 猊下(げいか)、ついに着きました、高野山ですわぁ・・・ハァー・・・。

光厳法皇 あぁ、ついに・・・ハァー・・・いやぁ、道中、キツかったなぁ。(笑顔)

順覚 はいぃーー。(笑顔)

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法皇は、高野山・金剛峰寺(こんごうぶじ)の大塔(だいとう)の扉を開かせ、金剛(こんごう)・胎蔵(たいぞう)両界曼荼羅(りょうかいまんだら)を拝観した。

胎蔵界の700余尊、金剛界の500余尊は、かの平清盛(たいらのきよもり)が、手ずから書いたものであった。

光厳法皇 さしもの積悪(せきあく)・平清盛、いったいいかなる宿善(しゅくぜん)に催されて、こないな大いなる善根を、致したんやろうかなぁ。

順覚 ・・・。

光厳法皇 「六大無碍(ろくだいむげ)の月(つき)晴(は)るる時(とき)有りて、四蔓相即(しまんそうぞく)の花(はな)発(さく)べき春を待ちける」・・・平清盛、ただの悪人では無かったんやなぁ・・・今日、あらためて思い知ったわ。

落花(らっか)雪となれども笠(かさ)重きこと無し、新樹(しんじゅ)昏(くれ)を誤れども日(ひ)未だ傾かず、その日のうちに、奥の院(おくのいん)まで参詣した。(注6)

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(訳者注6)弘法大師・空海の廟は、[奥の院]エリアにある。
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法皇は、弘法大師(こうぼうだいし)入定(にゅうじょう)の室(むろ)の戸を開かせた。

峯の松は風を含んでユガ上乗の理(ゆがじょうじょうのことわり)をあらわし、山花(さんか)雲をこめて赤肉中台之相(せきにくちゅうたいのそう)を秘す。過去仏(かこぶつ)の化縁(けえん)は過ぎぬれども、五時の仏説(ごじのぶっせつ)今、この耳に聞こえくるかの感あり。弥勒仏(みろくぶつ)の出世(しゅっせい)は遙か未来なれども、三会の粧(さんえのよそおい)既に目に遮(さえぎ)るがごとし。

そのまま3日間、奥の院で通夜した後、早暁に出立、そこで一首、

光厳法皇 高野山 迷いの夢も 覚めるかと その暁を 待ち続けてきた

(原文)高野山 迷の夢も 覚るやと 其暁を 待ぬ夜ぞなき

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「夏安居(げあんご)の期間中は、心静かに、この高野山の中ですごそう」と思い、光厳法皇は順覚を伴い、諸堂巡礼の日々を送っていた。

ある日突然、二人の男が、法皇の前にかけ寄ってきて、その場に平伏した。

光厳法皇 (内心)うっ、なんや、いったい?!

見れば、二人とも出家間もなくのよう、墨染(すみぞめ)の色も濃い衣を着ている。どういうわけか、二人とも、メソメソと泣いている。

いったい何者かと思い、しげしげと二人の顔を見つめ続けるうち、法皇の脳裡に、あの時の事がよみがえってきた。

光厳法皇 (内心)あぁっ、あの時の!

彼らは、紀伊川(きのかわ)を渡ろうとしていた時に、橋の上から法皇を押し落としたメンバー中の二人であった。

光厳法皇 (内心)いったい、どないしたんやろ? いったいなんでまた、急に出家したんやろ? あれほどの心無い放逸(ほういつ)の者にも、世を捨てる心が芽生える、なんちゅう事も、あるんやなぁ。

法皇は、そのままそこを通り過ぎたが、二人は後からついてくる。

順覚 あんたら、いったい、なんですか? どないしはったんですか?

出家者A (涙)はい・・・先日、紀伊川をお渡りの時に、このようなやんごとないお方とは知らんとからに、玉体(ぎょくたい)に乱暴に触れたてまつりました事、まことにあさましい事やと思うて、このような姿になりました。

出家者B (涙)「仏となる種は、縁(えん)より起る」と聞いております。どうか、今から、おそば近くに、お仕えさせてくださいませ。

出家者A なんでもしまっせ、薪(たきぎ)拾い、水汲み、なんでもします、今日から3年間、24時間、お仕えさせていただきますわ。そないしたら、仏神三宝(ぶっしんさんぼう)からも、お咎め無しで許してもらえますやろか。

順覚 (光厳法皇の方を向いて)こないな事、言うてますが・・・どないしましょ?

光厳法皇 そうやなぁ・・・(二人の方を向いて)かの、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)様は、道を行かれる時に、罵詈讒謗(ばりざんぼう)を浴びせかける人間がおっても、それを一切咎(とが)められる事もなく、自らを打擲蹂躪(ちょうちゃくじゅうりん)する者にさえも、かえって敬礼(きょうらい)したもうたという・・・ましてや、私は、既に出家の姿に身をやつしてるんやし、過去の私を知る人も無い。そやから、おまえらが私の事を分からんかったのも、ムリのない話しやがな・・・単なる一時の誤りや、何も、気にする必要ないでぇ。

出家者A ・・・(平伏、涙)。

出家者B ・・・(平伏、涙)。

順覚 ・・・(涙)

光厳法皇 とはいうものの・・・それがきっかけで、仏縁につながれ、そのように出家できたんやから・・・ほんまに、因縁(いんねん)っちゅうもんは、不可思議としか、言いようがないわなぁ・・・。

光厳法皇 そやけどな、私に随順(ずいじゅん)するのん、それだけは、ぜったいアカン、アカン。

出家者A ・・・(ガックリ、涙)。

出家者B ・・・(ガックリ、涙)。

このように言われても、二人は、片時も法皇の側を離れようとしない。

困惑した法皇は、夜明け頃、二人にアカ水を汲みに行かせ、その間に、順覚を伴って密かに高野山を去った。

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その後、光厳法皇と順覚は、大和国(やまとこく:奈良県)へ。

光厳法皇 道順もえぇし、いっちょ、あっち側の天皇陛下の御所、訪れてみよかいなぁ。

順覚 はい。

つい3、4年前までは、朝廷の両統は南北に分かれて、ここに戦い、かしこに侵攻、一方の前天皇が、もう一方の現天皇のもとを訪問するというような行為は、いわば、呉と越の会稽(かいけい)での対戦、漢と楚の覇上(はじょう)での会戦にも、等しい事である。

しかしながら、光厳法皇は今や、憂き世を捨てた出家の人、玉体を麻衣(まえ)草鞋(そうあい)にやつし、輿にも乗らず自ら徒歩にて、この山中はるばる、訪ね来たった。

吉野朝廷の伝奏(てんそう)役は、未だ事を告げない前に、涙で衣の袖を濡らし、吉野朝・後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、対面する前に既に、涙を流している。

御所に一日一夜逗留して、法皇と天皇は、様々に対話した。

後村上天皇 まぁ、よぉこそ、おこし下さいました・・・まるで、目覚めてからなおも夢を見ているかのよう、あるいは、夢の中で迷うているのかとさえ、思われますよ。(微笑)

光厳法皇 ・・・。(微笑)

後村上天皇 それにしても・・・たとえ、仙洞御所(せんとうごしょ)をお捨てになって、釈氏(しゃくし)の真門(しんもん)にお入りになられるとしてもですよ、あの宇多法皇(うだほうおう)陛下、あるいは花山法皇(かざんほうおう)陛下のように、大きな寺院にお入りになって余生を送られると、いう道も、あおりになったでしょうに・・・。

光厳法皇 ・・・。(微笑)

後村上天皇 このように、ご尊体を浮き草のように水上に寄せ、天子の御心を禅宗の教義に一心傾けられ・・・いったい、どないなふうにして、そないに澄み切ったご発心(ほっしん)の境地に至られたのか・・・ほんまにもう、うらやましい限りですわなぁ。

光厳法皇 ・・・う・・・う・・・。(涙にむせぶ)

後村上天皇 ・・・(涙)。

光厳法皇 ・・・陛下(注7)は、聡明文思(そうめいぶんし)の四つの徳をもって、お考えになる事が、おできになりますからね、人が一言申し上げるか申し上げんかの間に、何もかもすっと、理解する事がおできになるのでしょう。

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(訳者注7)後村上天皇の事。
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後村上天皇 ・・・。

光厳法皇 そやけど、私は、生れつき、煩悩(ぼんのう)の深い人間でして・・・いつまでたっても、煩悩から解放される事もなく・・・いわば、虚空(こくう)の中の塵(ちり)のごとき存在・・・。

光厳法皇 いや、私、なにも、自ら願うて、そのような人間になったわけではありません。

光厳法皇 そやけど、人間すべからく、持って生れた運命、前生(ぜんせい)での業因縁(ごういんねん)っちゅうもんが、ありますわなぁ・・・私もそれから離れられんままに、青年から壮年に至る人生を、送ってしもうたわけですよ。

光厳法皇 こないな事で、えぇんやろうか・・・自分の真実の人生は、帝位という権力に生きる中にあるのではない、もっと他の世界の中にこそ、あるのんとちゃうやろぉかと、何となく、漠然とは、思ってはおったのですが・・・。

光厳法皇 若気の至り、とでもいいましょうか、確実にやってくる老いという事も、さほど気にかけへんままに、年月を何とのぉ、送ってしまいました・・・時間の流れをせきとめてくれる関所なんか、この世のどこにも、ありませんわなぁ。

光厳法皇 私の天皇としての人生は、まさに、日々、天下の乱と共にあった、というべきでしょう・・・ほんまに、一日として、戦乱の止む時は無かった。

光厳法皇 元弘(げんこう)年間の始めには、あの六波羅庁(ろくはらちょう)の人々に伴われ、近江(おうみ)の番馬(ばんば:滋賀県・米原市)まで落ち下り・・・私はそこで、地獄をこの目でみました・・・500余人の武士たちが一斉に自害する中に、交わり・・・今になっても、鮮明に思い出すことができますよ・・・彼らの体からほとばしる、あの鮮血のなまぐさい匂い・・・あの時の私は、ただただ呆然、なすすべもなく、その場に座し続けるばかりやった・・・。(注8)

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(訳者注8)9-8 参照。
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光厳法皇 正平(しょうへい)の末には、この吉野の山に幽閉の身となりました・・・それから数年間、刑罰に伏す苦しさの中に、日々を送りました。(注9)

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(訳者注9)30-8 参照。
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光厳法皇 後醍醐(ごだいご)先帝陛下が政権に帰り咲かれた後の日々・・・今思い起しても、苦悩の連続・・・この世界はこれほどにも憂きものであったのかと、初めての体験に、ただただ、驚くばかりでした。

光厳法皇 あの時、もう一度天皇になろうなどとは、夢にも思わなんだ、政治にも一切、関心は無かった・・・ところが、一方の戦士(注10)が私を強いて、本主(ほんしゅ)としたのです・・・その運命から逃れる事は、不可能でした。

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(訳者注10)足利尊氏。
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光厳法皇 ひたすら、願い続けておりましたよ・・・いつの日にか、山深き住処に、雲を友とし、松を隣人として、心安く生涯を全うしたいもんやと・・・いつもいつも、願ぉておりました・・・それが、私の唯一の念願やったんです。

光厳法皇 そしてついに、その念願が実現する日がやってきたんですよ・・・天地の命により、譲位の儀とあいなりました・・・ついに・・・ついに、私は、過酷な運命のくびきから、解放されたんです・・・そして、このような姿になる事ができました・・・ついに・・・ついにね。(涙)

後村上天皇 あぁ・・・(涙)

吉野朝側メンバー一同 ・・・(涙)。

光厳法皇 ・・・。

後村上天皇 ・・・。

吉野朝側メンバー一同 ・・・。

光厳法皇 ・・・では、そろそろ、おいとますることにいたしましょう。

後村上天皇 ・・・(涙)。

光厳法皇 ・・・。(座を立つ)

後村上天皇 ・・・法皇猊下(ほうおうげいか)・・・あのぉ・・・。

光厳法皇 はい?

後村上天皇 この先、歩いて行かれるのでは、たいへんでしょう、馬寮(ばりょう)の馬を1頭、お持ち下さい。

光厳法皇 ありがたいお言葉ではありますが、それは、お受けできません。

後村上天皇 そやけど・・・。

光厳法皇 一介の出家が、天皇陛下の御馬に乗るなど、言語道断、辞退申し上げます。(微笑)

後村上天皇 ・・・。

長旅の疲労の蓄積があった光厳法皇ではあったが、今なお雪のごとく白い足に、粗末な草鞋を穿いて、御所を出立した。

後村上天皇は、警護所まで出て、御簾をかかげて法皇を見送った。公卿たちは、庭の外まで出て法皇を見送り、全員、涙の中に立ち尽くした。

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道すがら、山館(さんかん)、野亭(やてい)を見ながら、

光厳法皇 あぁ、あの家は・・・。

そこは、あの幽閉の時、このような場所では一日片時も過ごしがたいと、苦悩の中に日々を送った、松の扉のあばら屋であった。

光厳法皇 (内心)交戦地帯の山中でなかったら、こないな所に住む事もなかったんやろうなぁ・・・今となっては、かつての憂いの住処も、なつかしさが込み上げてくるわぁ。

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諸国行脚(しょこくあんぎゃ)の後、光厳院(こうごんいん)へ帰還し、そこにしばらく滞在した。

しかし、朝廷からの使者がしきりにやってきては、法皇の松風の夢を破り、あいもかわらず、旧臣が常に訪ねてきては、月下の寂静を妨げる。

光厳法皇 ここは、もう、あかんなぁ、住みにくぅて、かなんわ。

そこで、法皇は、丹波国の山国(やまぐに:京都市・右京区)という所へ、消息を絶って、移り住んだ。(注11)

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(訳者注11)常照皇寺へ入った。
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山果(さんか)庭に落ち、朝食、秋風に飽く、柴火(さいか)炉に宿して、夜は薄衣で寒気を防ぐ。

日々に詩を吟じ、肩骨やせて、泉の水を汲むのもものうく思える時は、雪を石鼎(せきてい)に積み、三杯の茶に、清風を飲む思いを起す。

緩慢(かんまん)と歩む山路は険しく、蕨(わらび)を摘むに倦(う)んだ時は、岩窓(がんそう)に梅をかじり、一連の句に、閑味(かんみ)をあじわう。

身(み)の安きを得る所、すなわち、心(こころ)安し。

家を出れば、そこには河と湖、家に入れば、山と川の景色を眺め。天地の外に逍遥(しょうよう)しては、破れ布団の上に、日々を過ごす。

その翌年の夏頃から、急に体調不良になり、7月7日、ついに光厳法皇は亡くなられた。(注12)

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(訳者注12)1364年7月7日、享年52歳。
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(訳者後書き)この章に記述されている「光厳法皇の行脚」は、史実かどうか、全く不明である。これが史実であったならば、すばらしいなぁと、訳者は思うのだけど。
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(訳者後書き)太平記現代語訳の記述を進めていく中に、私は徐々に、この光厳上皇(法皇)という方に、心ひかれていった。

過去に何回も、太平記原文(といっても、和紙の上に書写された文字通りの「原文」ではなくて、出版社から刊行されている古典文学集のそれ)を読んだが、その時の光厳上皇に対する自分の関心は、極めて薄いものでしかなかったように思う。

人間やはり、年を取り、様々な経験を積み重ねてくるにつれて、それまで見えていなかったものが徐々に見えてくる、それまで感受できなかったことを徐々に感受できるようになってくる、という事であろうか。

光厳上皇は2回、朝廷の最高権力者の地位についた。

一度目は、後醍醐天皇の打倒鎌倉幕府運動失敗の後より、六波羅探題の滅亡に至るまでの間。

二度目は、足利尊氏に擁立されて、京都朝廷を立ち上げて後。

治世に対しては、極めて真摯な態度で臨んだようではあるが、武士階級(鎌倉幕府、足利幕府に代表される)の力に圧倒され続け、思いのままにならぬ事が多かったようである。

こういうような人って、けっこう、世の中に多いんじゃないだろうか・・・理想を貫こうとしつつも、現実の厚い壁に阻まれ、あるいは、運命の変転にもてあそばれ・・・そういった人生を送った人であったからこそ、自分は、とても心ひかれるのだと思う。

下記は、光厳上皇について書かれた書籍である。

 [地獄を二度も見た天皇 光厳院 飯倉 晴武 著 吉川弘文館]
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