太平記 現代語訳 32-4 足利義詮、美濃へ退避

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都を脱出し、ひとまず坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ逃れた幕府軍ではあったが、問題は、この先どうするかである。

足利義詮(あしかがよしあきら) ここにいりゃぁ、もう安全だろぉ、佐々木秀綱(ささきひでつな)が守ってくれてるしなぁ。ここに腰を据えて、諸国から援軍を集めるのが、いいんじゃぁないのぉ。

幕府軍リーダーA いやいや、ここも、そんなに安全じゃぁありませんよ。

幕府軍リーダーB 問題は、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)ですわ。これから先、あそこがどう出てくるか。

幕府軍リーダーC とにかく油断ならないですねぇ、延暦寺は。南の朝廷の方から、任憲法印(にんけんほういん)を大将として招いてんですから。(注1)

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(訳者注1)この件については、30-7 の中にも同様の記述がある。
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幕府軍リーダーD 天皇陛下が、このまま、ここに滞在されるの、リスク、大きかありません?

足利義詮 うーん・・・。

というわけで、6月13日、足利義詮は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を守りながら、坂本を撤退して近江国(おうみこく:滋賀県)の東部へ向かった。

天皇に従う京都朝廷メンバーは、関白・二条良基(にじょうよしもと)をはじめ、三条実継(さんじょうさねつぐ)、西園寺実俊(さいおんじさねとし)、裏築地忠秀(うらつじただひで)、松殿忠嗣(まつどのただつぐ)、大炊御門家信(おおいのみかどいえのぶ)、四条隆持(しじょうたかもち)、菊亭公直(きくていきんなお)、花山院兼定(かざんのいんかねさだ)、坊城俊冬(ぼうじょうとしふゆ)、勧修寺経片(かじゅうじつねかた)、日野時光(ひのときみつ)、勘解由次官(かげゆじかん)・行知(ゆきとも)。さらには、梶井門跡(かじいもんぜき)法親王殿下に至るまで、本山・門跡寺院の僧侶、坊官一人残らず、輿に乗って天皇の後に続く。

彼らを守護する幕府軍メンバーは、足利義詮を大将に、細川清氏(ほそかわきようじ)、斯波尾張民部少輔(しばおわりのみんぶしょうゆうう)、その弟・斯波左京権太夫(さきょうごんのたいふ)、その弟・斯波左近将監(しばさこんしょうげん)、今川頼貞(いまがわよりさだ)、今川助時(すけとき)、今川左近蔵人(さこんくろうど)、土岐頼康(ときやすより)、熊谷直鎮(くまがいなおつね)、山内信詮(やまのうちのぶあきら)をはじめ、総勢3,000余騎、琵琶湖西岸の和仁(わに:大津市)、堅田(かたた:大津市)の浜道を、馬を早めて進み行く。

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新田(にった)一族の一員で今は亡き堀口貞満(ほりぐちさだみつ)の子息・堀口貞祐(さだすけ)は、この4、5年間、堅田に潜伏していた。

堀口貞祐 なに! 足利義詮が京都を逃げ出して、堅田へ向かってる?! こりゃぁ絶好のチャンスだ!

貞祐はその地域一帯の野伏(のぶし)たちをかたらって、500余人を集めた。そして、落ち行く人々の進路を塞ぐべく、堅田付近の真野浦(まののうら)を、待ち伏せ地点に選んだ。

堀口貞祐 オォ! 来た来たぁ!

行列の先頭には、天皇を守護しながら梶井門跡法親王が、門徒らを大勢従えてやってくる。

堀口貞祐 (内心)うーん・・・いくらなんでも、皇族方に弓引くわけには、いかねぇやなぁ。

貞祐は、攻撃指示を出さずに物陰に身を潜めながら、先頭集団の通過を見送った。

遙か後方に続いてやってきた佐々木秀綱の軍勢300余を認めた貞祐は、

堀口貞祐 おお、あそこに来るヤツは例の男、延暦寺のかたき(注2)、侍所(さむらいどころ)長官の佐々木秀綱じゃねぇかよ。よぉし、あいつを討ち取っちまえ!

野伏たち一同 ワーイワーイワーイ!(カンカンカンカン、ドンドンドンドン・・・)

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(訳者注2)佐々木秀綱と延暦寺との対立関係については、21-2 を参照。
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堀口貞祐が率いる500余人は、東西から佐々木軍を包囲した。

足軽の射手たちが山沿いに展開し、沢を隔てて矢の雨を降らす。この不意打ちの結果、佐々木軍側の佐々木三郎左衛門(ささきさぶろうざえもん)、箕浦次郎左衛門(みのうらじろうざえもん)、寺田八郎左衛門(てらだはちろうざえもん)、今村五郎(いまむらごろう)が、次々と戦死した。

佐々木秀綱は、頼りにしていた一族・若党たちが後方に踏みとどまって討死にしていくのを見て、あまりの無念さに、高谷四郎左衛門(たかやしろうざえもん)とたった2人だけでもって、馬の向きを返し、野伏集団の中へ懸け入った。

野伏集団側は全員徒歩であったが、しょせん多勢に無勢、あっという間に、秀綱たちは、馬の両膝を切られてしまい、落馬した所をすかさず討たれてしまった。

はるか前方まで落ちのびていた佐々木家の若党37人も、主君と死を共にせんと返しあわせ、そこかしこで討たれてしまった。

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足利義詮たちは、ほうほうのていで、その夜ようやく、琵琶湖北岸の塩津(しおづ:滋賀県・長浜市)にたどりついた。そこで輿を止め、天皇にお供する人々に、少しでも休息を取らせてあげようと思ったのだが、

塩津や海津(かいづ:滋賀県・高島市)の住民A おいおい、こらまた、えらい事になってしもたがな。

塩津や海津の住民B あんなんに、ここらへんウロウロされたら、かなんわぁ。

塩津や海津の住民C 一晩でも逗留されてみぃ、いったいナニが起こるか、わかったもんやないでぇ。

塩津や海津の住民D 早いとこ、追い出してしまうに限る。

塩津や海津の住民一同 そやそや、それがえぇ。

彼らは、こちらの道の辻、あちらの岡の上へと集合し、鐘を鳴らしトキの声を上げた。

それゆえに、そこにしばしの逗留もままならず、後光厳天皇は再び、輿に乗らざるをえなかった。

ところが、それをかつぐ者が一人もいない。ここまで輿をかついできた者たちが、全員、逃亡してしまったのである。

細川清氏 (内心)あぁ、なんともはや、おいたわしい事・・・。

清氏は、馬から飛び降り、天皇の側へ寄ってしゃがみこみ、

細川清氏 おそれながら、陛下、私の背中にお乗り下さいませ。さ、さ、どうぞ!

後光厳天皇 うん。

清氏は、鎧の上に天皇を背負い、そのまま徒歩でもって、塩津の山を越えた。

古代中国春秋時代に、介子推(かいしすい)が股の肉を切って重耳(ちょうじ)に与え(注3)、ある人が趙盾(ちょうとん)を逃がすために彼の車の片輪をかついだという故事も(注4)、清氏のこの忠節に比べれば、まことに小さい事のように思えてならない。

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(訳者注3)晋の重耳(後の文公)と共に亡命中に食物が無くなった時、介子推は、自分の股の肉を切って重耳に食べさせた。

(訳者注4)これについては、いったい何の故事を指しているのか不明である。
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一行は、ただひたすらに、逃避行を続けていく。

延々と続く渚の月に鞭を挙げ、曲がりくねった浦の波に棹を差しながら、黙々と道を行く。中国唐王朝時代の人、公乗億(こうじょうおく)が詠んだ、あの旅の詩に込められた心境が、今まさに思い知られる。

 ここは地の果て 巴東三峡(はとうさんきょう)
 明月峡(めいげつきょう)に 猿の鳴声こだまする
 このような地に 舟を停めざるをえぬ ああ このやるせなさよ

 ここは地の果て ゴビ砂漠
 黄砂に埋もれて 道は消失
 このような地に 馬を歩ませて行かざるをえぬ ああ この憂いよ

(原文)
 巴猿一叫 停舟於明月峡之辺
 胡馬忽嘶 失路於黄沙之裏

塩津から先は、道中の煩(わずらい)一切無く、一行は、美濃国(みのこく:岐阜県南部)に入った。

垂井宿(たるいじゅく:岐阜県・不破郡・垂井町)の、ある長者の家を仮の皇居として天皇をそこに入れ、義詮たちは、その周辺の民家に宿を取って、陛下を守った。

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