【day10】こたえ

「お前には分かんないよ」

 そう言われた日から弘樹と普段通りに話すことができなくなった。教室に入って「おはよう」と交わす時も、授業中にくだらない会話で盛り上がる時も、昼休みに遊ぶ時も、部活の練習中でさえ壁越しに話しているみたいな埋められない距離がある。

 何が壁になっているのか、原因は分かっている。新しく入部してきた一年生たちもようやく様になって臨んだ秋季大会、四×百メートルリレーで弘樹がバトンミスをした時のことだ。

 四走目の弘樹はこれまで、スタートを十七歩半で設定していたのに今回は二十歩にしていた。もちろん三走目を走る一年生の子がその大会で百メートルの記録を大幅に伸ばしたという理由はあるし、アップの時はその歩数で上手くいったのだ。

 しかし本番でバトン受け渡し区間内できちんと受け取ることができず——とは言っても減速して受け取ること自体はできているが——記録は散々だった。顧問の先生からは「ぶっつけ本番でやることじゃない」と窘められたけれど、理屈も理解してくれているし何より、コンマ○・一秒でも速くという心意気は誰しもが持ち合わせている。単に練習という事前準備を怠った軽率な行動の結果による失敗で、今後どうとでもできるのは明白だったから「次は成功させよう」と俺たちは声をかけた。誰も責めたりはしなかった。

 ただ弘樹だけを除いて。

 その帰り道で弘樹は語った。押している自転車の車輪に絡まる夕陽がやけに印象深い帰り道だった。

「善のやつ速くなったよな」

「なったね。まあようやく十二秒切っただけだから今後の伸びしろに期待だけど」

「部長はきびしーね。……いけると思ったんだけどなぁ」

「四継の話?」

「そう。アップの時は完璧だったし、本番も少し遅く出たはずなんだよ。なんでダメだったんだろって」

「思ったんだけどさ、アップは五十メートルで調整しただけだからじゃないかなって。善は初速とトップスピードに乗るのは速いけどスタミナが足りなくて七十メートルくらいから結構がっつり失速するでしょ。そのへん考慮しないといけなかったんじゃない」

「たしかに、それはそう」

「あとはプレッシャーとか責任とかもろもろね、正直多少詰まるくらいが結果論だけどよかったと思う」

 自転車のギアとチェーンの噛む音が途切れた会話をつないでいた。赤信号で立ち止まった時、溜め息を吐いた弘樹が口を開いた。

「俺さぁ焦ってたんだよね。いやまあ今もなんだけど」

「何に対して」

「全部。記録は去年の秋から全然伸びないし、反面一年はどんどん追いついてくるしお前は離れていくだけで追いつけない。練習は自主練含めてお前の次くらいにはやってる自信がある」

 信号は青になった。俺たちは歩き出す。

「秋の県大会でマイルから外されたとき、ヘラヘラしてたけどすっげー悔しくて、でも納得して萎えて、そのことがまた悔しかった。考えたんだよなんでこんなに頑張ってんだろうって」

「うん」

「劣等感だった。これまでの努力も結果も全部劣等感の裏返しだったんだよ」

「動機は人それぞれでしょ」

「そうだけど他人と比較しないとモチベーションを保てないなんて陸上には向いてないと思う」

「誰だって少なからず他人と比較するし競争なんだから」「それに」弘樹の遮る声は俺を向いていなかった。

「俺の比較対象は過去の誰かの何かで、未来にはなかったんだ」

 言いかけた言葉は喉の奥へと戻っていって、代わりに「分かるよ」と口にしていた。

「俺だって劣等感あるし」

「いや」弘樹はこちらを向いた。「お前には分かんないよ」もったいつけるような躊躇うような表情だった。

 帰り道で別れてからずっと、弘樹が何を思ってそう言ったのかを考えても答えは出てこなかった。何を言うことが正しかったのか、あるいは何も言うべきではなかったのか。答えはどこにも見当たらない。