【day8】ダイブ
裸足の指で岩の縁に立つ。小石の刺さる感覚も今は気持ちがよかった。
少し赤くなったつま先の奥に岩を打ちひしぐ波の砕けた地面が見えて、目を逸らした。黒に近い緑色をした海と、太陽に青く蝕まれた空。雲もなく風もない、ただ一つの船が遠くの方で浮かんでいる。頬を伝い顎の先で離れた汗が音もなく我先にと海へ吸い込まれた。
瞬間、僕は飛び出していた。
髪が逆立ち、
もがきようのない手足が空を踊る。
心臓は頭にあった。
——ああ、落ちている。ただ落ちていく。
白波から生えている岩々は徐々に徐々に僕の方へと近づいていた。今さらになってこっちに来るなというのは道理に反するだろうか。止まれと言えば案外止まってくれるかもしれない、なんてくだらないことを考えられていることに驚く。こういうときに世界がスローモーションに見えるというのは本当だったんだ、と他人事のように思う。
楓さんもこんな気持ちだったのだろうか。後戻りのきかないところに行ってしまったとき、あの人は何を思うのだろう、何を考えただろう、何を見ただろう。ああ見えて意外と考えなしに動く人だから、実はいつもと変わらなかったということもありえそうだ。
そう思うと少し笑えた。まるで今、横で同じように落ちてくれている気がしたからだ。右を向けばほら、僕には見えない遠くを見つめるあなたがいる。お昼過ぎに起きてきて「おはよう」と寂しそうにあくびをするあなたが。
——寂しそう?
なんだ。どうしてそう思った。記憶の中のあなたはいつも笑っていたじゃないか。泣いているところはおろか怒っているところだって見たことはなかったんだ。それが、僕の見ていた楓さんだったはずなんだ。
でもいま、いまになってようやく——なんで今なんだ——分かってしまった。分かった途端、心臓は胸に戻ってきて痛いほどに僕を苦しめる。
そうだよ。あなたは僕の隣にいてくれたけれど、そこに実体はあったけれど、心は僕と楓さんの間の距離にはなかったんだよ。そんで僕は満足していて、気付かないふりをしていたんだ。一番近くに僕はいたのにだ!
今なら、分かる。
僕はやっぱり、正気じゃなかった。いくらでも違う道を選ぶことができたんだ。
ああ、だけどもう、間に合わない。