【day6】余生
僕は堤防の上に立ち、深夜の海を眺めている。足元から先はなだらかに砂浜が下っていき、なんでもかんでも引き込んでしまいそうなほど真っ黒い波が砂間との境界を曖昧にしていた。潮の匂いはあまりしない。ただ波の音が僕を誘っているみたいで逆にしり込みしている。何にってそりゃあ、これから入水自殺でもしようと思っていることに対してだ。
なんてことはない、人生に嫌気が差したんだ。十代後半から二十代前半にはよく見られる症状で、例に漏れず二十三歳を迎えた僕もその一人であった。
「よしっ」
とうに決めた覚悟を決め直し、胸の高さにあるコンクリートをよじ登る。眼下に広がる砂の丘陵に足を着けた瞬間蟻地獄のように沈み込んでしまわないか不安だったけどそんなこともなく、あとはただ海に向かって歩くだけだった。いよいよだった。
「こんばんわ。何してるの?」
後ろから声がした。思わず振り向くと雲の切れ目から銀色の月が顔を出していて、その裏側で居眠りでもしていそうな女性が照らされた月明かりの下に立っていた。「こんばんは」と僕は返して。
「海が見たくなったので、ついでだからもっと近くに行ってみようかな、なんて」
「分かる夜の海っていいよね。私も眠れないときに来るんだよ」
「同じですね。今日もなんか寝付けなくて来たんです」
僕が夜のこの海に来たのは今日が初めてだった。けれどなぜだか、「同じだね」と笑った彼女の真実に背くようなことはしたくなかった。
「お名前聞いてもいいですか」
「それダメって言われたらどうするの?」
「そしたら、それはえっと、じゃあこのままで」
「琴畑楓、それとため口でいいよ。年近そうだし」
「楓さん」ぽつり呟いたそれは波の音にさらわれたようで彼女には聞こえていないらしかった。「上がっておいでよ」と僕に差しのべられた手を握った。女性の手に触れたのは初めてのことだった。
「君はどうして海を見に来たの?」言いながら楓さんはビールを僕に手渡した。
堤防に上がってから気付いたが、楓さんのもう片方の手にはビニール袋が握られていて、中からもう一つビールの缶を取り出すとプルタブを引いた。炭酸の弾ける音がなんとも海と合っている。渡されたビールを開けて僕も一口飲んだ。
「ビール苦手?」
「苦手ではないんですけど普段は飲みませんね」
「それはお酒自体ってこと?」
「それもそうですし、会社の飲み会だと一杯目以外はレモンサワーとかなので」
「ふーんそっか」と言った楓さんはごくごく喉を鳴らしてビールを煽り、ぷはっと息継ぎをして缶を回した。小さく聞こえるぴちゃぴちゃという残りの音から察するにさっきのでもう半分以上は飲んだらしかった。
「で、君はどうして海に来たの?」
「寝付けなかったんですよ」
「理由の方だよ」
「いえ。なんというか、入社して一年が経つんですけど、やっと慣れてきたというかまあ仕事は順調で、友人関係なども良好ですし趣味も元からあったやつに加えて新しく興味の出てきたものとかもあって、なんというかですよ、人生が軌道に乗っているってこういうことかなって思ったんです。そう思ったらなんだか、もう死ぬまでの過程を辿っているだけに思えて、それって結局は、言ってしまえば余生を過ごしていることと同義かなって。そう考えたらなんだか、もう、生きていることに嫌気が差したんです」
初対面の人に何を言っているんだという僕の自制はもはや効かなかった。ブレーキの壊れたトロッコは目的地に着くか脱線して転がり落ちるかでしか止まらないのだ。なんにせよ外的要因以外で止まる方法はなかった。
「じゃあさ」
楓さんはいつの間にかビールを全て飲みきったらしく、僕の片手に収まって一口しか飲まれていない水滴の浮いた缶をするりと奪って一気に飲み干した。
「私と付き合わない?」
波の音は聞こえてこなかった。遠くに見える街の明かりも星月の移ろいも、今だけは全てが止まっていた。動いているのは今目の前にいるこの人と僕の鼓動だけに思えた。
「それ断られたら恥ずかしいですよ」
「じゃあ恥をかかせないでよ」
「はい」
僕の余生は少し、先延ばしだ。